アンジェロ・セッキ[1](Pietro Angelo Secchi[1]、1818年6月29日レッジョ・エミリア - 1878年2月26日ローマ) は、イタリアの天文学者にしてイエズス会士[1]。
経歴
レッジョ・エミリアで生まれた。コレジオ・ロマーノで学び、1839年に講師となるが、ローマ共和国の革命でイエズス会は追放され、セッキは1848年にイギリスに逃れストーンハースト天文台や、アメリカのジョージタウン大学に移った。
1849年にローマに戻り、コッレージョ・ロマーノの天文台台長となった[1]。1870年代にスペクトル型により恒星を4つの種類に分類するという仕事のパイオニアであったが、セッキの分類は粗かったため、恒星の分類はハーバード大学の分類法が広く用いられることになった。
1858年に火星の地図を製作し、その模様にCanale Atlanticoとなずけた。セッキやジョヴァンニ・スキアパレッリが用いたイタリア語のcanali(溝、水路)が英語のcanals(運河)と翻訳されたことでパーシヴァル・ローウェルらによる火星の運河の存在の議論の端緒を作った。
彼の功績にちなみ、月のクレータや月の山にセッキの名前が付けられた。
天文学以外の分野では、湖や海の透明度を測定する道具(透明度板)を開発した。これはセッキ板(セッキー板、セッキー円盤)と呼ばれる。
関連項目
脚注