アヴィロン・パレスチナ・アビエーション・カンパニー (Aviron Palestine Aviation Company Ltd)は、1936年にイギリス委任統治領パレスチナで設立されたユダヤ人の航空会社である[1]。
"アヴィロン"はヘブライ語で航空機を意味する語で、この会社は民間航空輸送よりも飛行訓練を行う学校としての活動を主に行っていた事で知られている。後のイスラエル空軍の前身となるハガナーの航空部隊"パルアビア(英語版)"、"シェルート・アビア(英語版)"のパイロットや整備員の養成に尽力し、最終的にはイスラエル空軍に統合される形でその役目を終えた。
歴史
アヴィロンはユダヤ機関(英語版)、ヒスタドルート(英語版)、ユダヤ民族評議会(英語版)の協力事業として設立され、またハガナーとも密接に協力関係にあった。アヴィロンの最初のCEOにはハガナーの指導者でもあったドブ・ホズが就任した。最初の民間航空路線はハイファ、リッダ、ティベリア間に就航したとされるが、実際にどのような頻度で運行されていたかは不明である。
1938年にはヨルダン渓谷に位置するキブツ、アフィキム(英語版)に拠点を移し、この地にアヴィロン・フライングスクール (Aviron flying school) が開設された。1939年には最初の11人の卒業生がパイロットライセンスを受け取った。
アヴィロンの最初の運用機はイスラエル飛行クラブが保有していたRWD-8とイシューブを通じて入手したタイガーモス (VQ-PAN)[2]各1機で、1939年7月には2機のRWD-13(VQ-PAL, VQ-PAM)が加わり、同年12月には1機のRWD-15 (VQ-PAE)も追加された[1]。
同じ頃、民間の飛行クラブ (実際にはハガナーが航空機パイロットを養成する目的で結成していた) のひとつであった"パレスチナ・フライングサービス"がアヴィロンに合併され、彼らの保有していた3機のテイラークラフトB(英語版)もアヴィロンに移管された[1]。
1940年12月には、自動車事故によりCEOのドブ・ホズ、および同乗していた家族と、ホズと共にアヴィロンを牽引した幹部であったイツハク・ベン=ヤーコブ(ヘブライ語版)が死亡した。
1942年の時点で、アヴィロン・フライングスクールからは計95名の卒業生が輩出されていた[2]。1943年になると、ハガナーの精鋭戦闘部隊である"パルマッハ" (突撃隊、の意) の航空部門として"パルアビア(英語版)" (航空中隊、の意) が設立された[3]。パルアビアは引き続きアヴィロンでの飛行訓練を行った。
同年、イギリス政府によりハガナーおよびパルマッハが一度非合法化され武装解除が試みられたが、この際パルアビアは民間の組織"パレスチナ・フライングクラブ"と称して飛行訓練を続けていた。
第二次世界大戦を通じ、パレスチナ在住のユダヤ人の多くがボランティアとして当地の連合軍に協力し、大戦が終結した時点で、パレスチナのユダヤ人のうち約2,500人が何らかの形で連合軍の空軍で働いた経験を持っていた。
第二次世界大戦後の1947年に、イスラエル独立の気運が高まりパルアビアは新組織"シェルート・アビア(英語版)" (航空部門、の意) に拡張され、アヴィロンも名前は残っていたが実態としてはシェルート・アビアに合流する形となり、拠点をアフィキムからテルアビブに移した。翌1948年にシェルート・アビアは "Heil HaAvir" すなわちイスラエル空軍となり、この頃には会社としてのアヴィロンの名も完全に消滅した。
運用機材
脚注・出典
関連項目