イル=ド=バ (Île-de-Batz、ブルトン語 :Enez-Vaz)は、フランス 、ブルターニュ地域圏 、フィニステール県 のコミューン 。ロスコフ と向かい合う島、バ島にある。
地名の由来
イル=ド=バの地図
満足のいく語源は発見されていない[ 1] 。古くは島であった、ロワール=アトランティック県 沿岸の町、バ=シュル=メール と同じである。ブルトン語 の bazh や vazh が「杖」を意味するため、聖ポル・オレリアン(fr )の巡礼者杖を示すという解釈は、風変わりな思いつきであろう[ 2] 。
地理
バ島はポナン諸島の1つである。ロスコフ の沖合2マイルに位置する。島の長さは3.5km、幅は1.5kmである。島を一周すると10kmである。島は、強い海流が優勢な狭い水道で本土から切り離されている。メキシコ湾流 の恩恵を受けて、温暖な海洋性気候である。そのために多様で品質の良い野菜栽培が可能である。
歴史
海側から眺めたノートルダム・デュ・ボン・スクール教会
1873年に撮影されたイル=ド=バ
伝説によると、ウェールズ 出身の福音伝道者、聖ポル・オレリアンは525年に島に上陸し、『穴のヘビ』と呼ばれ、住民を脅かしていたドラゴンを退治した。ポル・オレリアンは、ドラゴンが自ら海へ飛び込むようにさせたのである。彼は530年頃に、島に修道院を建てた。
イル=ド=バ教区は、サン=ポル=ド=レオン司教区のもとにあるレオン助祭区を構成していた。
9世紀、ヴァイキング がバ島に本土への足がかりとして前哨基地を築いた。その後14世紀から18世紀初頭にかけ、イングランド 軍が島を複数回荒らした。18世紀から19世紀、男たちは全員が海で働き、女たちは陸で働いていた。カボタージュ の減少と、レオン地方北部で行われている園芸農業 が島にも導入され、19世紀後半に島は劇的に変化を遂げた。
1388年、アランデル伯率いるイングランド軍がバ島を攻略した。『1000人の武装兵と300人の射手を含んだかなりの艦隊』で、『全てが略奪され尽くした後に、火が放たれた。イングランド軍は同様のやり方でウェサン島 、レ島 、オレロン島 を襲い、フランス人全員と防衛にまわったブルトン人全員を探索した。』[ 3]
海藻
19世紀半ばの文書に記されているように、バ島住民にとって海藻を収穫して焼くことは、重要な経済活動だった。バ島とカロ半島の住民は、海藻を乾燥させ、自家用の燃料にしていた。住民たちは細心の注意を払って灰を作り、農業用に売買したが、純粋な状態のままの灰ではない。燃やした牛糞 と海藻灰を混ぜ合わせ、沿岸の住民はそれを太陽光の下で乾燥させてから、燃料にしていた。最も混ぜ物が少ない海藻灰は、したがって最も評判が高く珍重されていた、バ島産のものだった。カロ半島産の海藻灰は、純粋に海藻灰だけでできてはいなかった。カロ半島産の海藻灰は、半島で産出される黒っぽい大量の土と混ぜられたので、価格と特徴は劣った。5月末から6月上旬までモルレー やペンゼの市場で海藻やコンブの灰が売られ、シザン郡やサン・テゴネックの農夫たちがソバ 栽培に用いた[ 4] 。
海藻は動物の飼料にも用いられた。『バ島、プルエスカ、プルガステルでは、ウマ、雌牛、ブタが海藻の一種を好むという結果が出た。海藻はブルトン語でBezin trouc'hといった[ 5] 。(別の種類の海藻である)Bezin teleskは胸部疾患の特効薬だとして、島民はハーブティーを製造していた[ 6] 。』
1865年、バ島は、ロスコフ の岬からケーブルを介して、本土と電信が接続された[ 7] 。
人口
1793年
1800年
1851年
1901年
1954年
2005年
2012年
805
1 809
1 174
1 291
1 088
594
506
(参照元:1999年までLdh/EHESS /Cassini[ 8] 、2004年以降INSEE [ 9] )
文化遺産
ジョルジュ・ドラゼル庭園(fr )
1897年、パリ出身の保険業者ジョルジュ・ドラゼルにより創設された。1937年に土地が売られ、庭園は荒廃したが、1989年から有志により再建が始められ、1997年には沿岸保護機構 (フランス語版 ) が土地を買い戻した。現在、世界中の植物が1700種以上栽培され、ヤシ の珍しいコレクションも展示されている。
聖アンヌ礼拝堂
この礼拝堂は、聖ポル・オレリアンが創設し、9世紀にヴァイキング により破壊された修道院の跡地に建てられた。現在の建物は、11世紀末から12世紀に作られたが、中世 の終わりに島の東部を覆った砂のために見捨てられた。
ノートルダム・デュ・ボン・スクール教会
1873年に墓地の跡地に建てられた。聖ポル・オレリアンのものと言われるストラ や7世紀の東洋の織物、17世紀の聖ポル・オレリアンの木版画などを所有している。
灯台
1836年に建てられた。高さ44m。
蛇の穴
海岸から数m先に横たわる大岩。聖ポル・オレリアンがストラ を使い、島を荒らすドラゴンを海に突き落としたという伝説が残る。
聖アンヌ礼拝堂跡
ノートルダム・デュ・ボン・スクール教会
灯台
蛇の穴
交通
イル=ド=バ関連会社が、ロスコフ から年間を通じて島に連絡船を運行している。イル=ド=バ関連会社は、フィニステール海上輸送会社と、アルモール・エクスキュルション会社、マリティーム・アルメン会社の3社からなる。季節便として、プルガスヌ、ロキレック 、トレブルダン、カランテック 、モゲリエックからの便がある。季節によっては、モルレー湾ツアー、バ島ツアー、モルレー川遊覧といったツアーが組まれる。
島の往来可能な港は、南海岸に位置するPorz Kernok港である。岩に囲まれていてほんのわずかしか係留場所がない、島の北岸にアクセスすることは不可能である。
脚注
^ B. Tanguy, Dictionnaire des noms de communes, trèves et paroisses du Finistère, origine et signification , Ar Men/Chasse)Marée, 1990, p. 38.
^ Jean-Marie Cassagne et Mariola Korsak, Origine des noms de villes et villages - Loire-Alantique, Saint-Jean-d'Angély, Éditions Boudessoules,2002, 287 p. (ISBN 2-913471-45-5 ), p. 17
^ Dom Lobineau , Histoire de Bretagne, 1707
^ Jean-Marie Éléouet, "Statistique agricole générale de l'arrondissement de Morlaix",1849, Brest, consultable http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1257176/f105.image.r=Taul%C3%A9.langFR
^ Le goémon qu'on ramasse sur le rivage était appelé en breton Bezin toun
^ Mauriès, Recherches historiques et littéraires sur l'usage de certaines algues , "Bulletin de la Société académique de Brest", 1874, consultable http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k2075488/f61.image.r=Molene.langFR
^ "Journal télégraphique" du 25 octobre 1894, consultable http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5575562h/f33.image.r=Molene.langFR
^ Des villages de Cassini aux communes d'aujourd'hui sur le site de l'École des hautes études en sciences sociales
^ Fiches Insee - Populations légales de la commune pour les années 2005 , 2012