エリファレット・ブラウン・ジュニア(Eliphalet Brown Jr.、1816年 - 1886年)は、アメリカ合衆国の画家・写真家。
日本においては、黒船来航時にペリーに随行した写真家として知られている。寄港した琉球や日本で、自然や人物をダゲレオタイプ(銀板写真)で撮影した。このうち人物写真6点が現存している。ブラウンが撮影した銀板写真は、現存する日本最古の写真とされ[2]、日本国内で日本人を撮影した現存最古の写真群である[3][4]。
生涯
1816年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ニューベリーポートに生まれる[5]。若くしてニューヨークに出て商業的な画家となり、肖像画や歴史画、風景画などを手掛けた[5]。
弟のジェームズも画家であった[5]。ダゲレオタイプの技術に触れたのはジェームズが先で、エリファレットは弟からダゲレオタイプ撮影技術を習得した[5]。
1852年、マシュー・ペリーの日本遠征に随行[5]。アメリカ合衆国海軍のマスター・メイト(Master's mate. 「衛生伍長代理助手」という訳もある[5])という身分を与えられた。同様にペリー一行に同行した画家にはヴィルヘルム・ハイネがいる。
1853年5月、琉球王国那覇の天久聖現寺(天久山聖現寺)で地元住民を撮影した記録が残る[6]。ブラウンは、そのほか下田・箱館・横浜などの上陸地で人物・風景・建築を撮影した[5]。
横浜に近い石川郷(横浜市中区石川町)の名主が記した『亜墨理駕船渡来日記』(武相叢書に収録[7])には、1854年4月(嘉永7年2月)に石川郷でブラウンが写真撮影をおこなった様子が記されており、「写真鏡」が描写されている[5]。箱館には1854年5月17日(旧暦4月21日)から6月3日(旧暦5月8日)まで滞在し、実行寺にスタジオを構えた[5]。
ブラウンの撮影した写真をもとに木版画やリトグラフが制作され、『ペリー提督日本遠征記』に収録された[5]。ペリーの遠征中、ブラウンは400点以上のダゲレオタイプを撮影したと主張しているが[5]、後述の通りほとんどの写真原版は失われ、現存する写真は6点のみである(2006年現在)[5]。
ブラウンは帰国後もアメリカ海軍にとどまり、自己の旧作管理を除いて写真や版画の制作から離れた[5]。地中海艦隊提督秘書などを務めたあと1875年に退役。1886年にニューヨークで死去[5]。
作品
ブラウンがペリーに同行した際に撮影したダゲレオタイプで現存するものは、以下の6点のみである[8]。ブラウンが制作したダゲレオタイプは、『ペリー提督日本遠征記』出版のためいくつかの印刷所に預けられていたが、1856年にそのうちのひとつデュバル社が火災で焼失[8]。また、ほかの会社に預けられたものも紛失したとされる[8]。
日本国内に現存するブラウンのダゲレオタイプ5点は、2006年6月9日付で日本の重要文化財に指定された[9]。うち、松前藩関係者である松前・遠藤・石塚の写真には添状が付属しており、いずれも箱館で撮影されたこと、1854年6月1日にペリーから贈られたものとする旨が英文で記されている[10]。ペリー側の通訳ウィリアムズの日記によれば、手渡しは5月24日とあるが[5]、遠藤・石塚の写真裏にはペリーから贈られたものとする趣旨が漢文で記され、日付は「甲寅五月初六日(旧暦5月6日)」とあり[5][11]、横浜美術館では6月1日の手渡しを裏付けるものとしている[5]。
日本の重要文化財指定の5点のうち、田中光儀像はクオータープレート(10.5x8.2センチ)、他の4点はハーフプレート(約14x11センチ)である。[31]
備考
脚注
関連項目
外部リンク