カンボジア王国
ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
国の標語:ជាតិ សាសនា ព្រះមហាក្សត្រ (クメール語) 国家、信仰、国王
国歌 :បទនគររាជ (クメール語) 王国
カンボジア王国 (カンボジアおうこく、クメール語 : ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា )、通称カンボジア は、東南アジア のインドシナ半島 南部に位置する立憲君主制 国家 [8] 。東南アジア諸国連合 加盟国であり、通貨はリエル である[8] 。人口1671万人、首都はプノンペン 。
南はタイランド湾 に面し、西はタイ王国 、北はラオス 、東はベトナム と国境を接する。国民の90%以上が、クメール語 (カンボジア語)を話し、仏教 (上座部仏教 )を奉ずるクメール人 (カンボジア人 )である。国歌 は『王国 』である。
国名
正式名称は、クメール語 で ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា (発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字 表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea )。プレアは王の称号。リアチアは「王」、ナーチャックは「国」で、両方合わせたリアチアナーチャックは「王国」を意味する。隣国のタイの正式名称とよく似ている。
カンボジアではアンコール王朝 以後、国名をカンブジャと呼んでいる。チャム語 で書かれた948年のバクセイ・チャムクロン碑文はリシ のカンブ・スヴァーヤンブヴァと天女メラーの婚姻による建国伝説を伝え、カンブジャとはカンブの子孫を意味すると説明される。クメール語 では「カンプチア」に近く発音される。
公式の英語表記は「Kingdom of Cambodia 」である。略称は「Cambodia 」(カンボーディア)と読ばれる。日本語 では「カンボジア王国」、「カンボジア」と称する、漢字による表記 は「柬埔寨 」。
傍らで「クメール 」という言葉も使われる。本来は「カンボジア」は主に民族、「クメール」は言語を指していたが、現代では区別があいまいになっている。20世紀前半までの中国 およびベトナム では「高棉」(拼音 : Gāomián 、ベトナム語 : Cao Miên )とも呼ばれた。
歴史
古代
扶南 はインド 文化を強く受けていた。また、扶南の従属国であった真臘 が扶南を占領、滅亡させたが、インドの文化はそのまま残った。
クメール朝
アンコール・ワット はアンコール遺跡 のひとつで、カンボジア国旗 の中央にも同国の象徴として描かれている
9世紀 初頭にクメール王朝 が成立し、12世紀 から13世紀 にかけて最盛期を迎え、アンコール遺跡 が建造された。
カンボジアの暗黒時代
16世紀 ごろに、ポルトガル の商人やカトリック教会 の宣教師 が最初にカンボジアに到来した西洋人であったと考えられている。続いてスペイン人 、オランダ人 、17世紀 半ばからフランス人 が到来した[12] 。
保護国時代
1863年 にフランス帝国 の保護国 となり、1887年 にフランス領インドシナ の一部となった。フランス保護下でも形式的に王国体制は存続し、1904年 にシソワット 王が、1927年 にシソワット・モニヴォン 王が即位した。シソワット・モニヴォン王の下で1940年 から1941年 にかけての間にタイ・フランス領インドシナ紛争 が勃発し、東京条約 によってフランス領インドシナを構成していたカンボジアのナコーン・チャンパーサック県 (タイ語版 ) (現在のチャンパーサック県 、プレアヴィヒア州 )、ピブーンソンクラーム県 (英語版 ) (現在のウドンメンチェイ州 、シェムリアップ州 、バンテイメンチェイ州 )、プレアタボン県 (英語版 ) (現在のバタンバン州 )がタイ王国 に割譲された。1941年に即位したノロドム・シハヌーク 王の治下では、第二次世界大戦 中に日本軍 に占領されるも、明号作戦 によってフランス領インドシナが解体されたあと、大戦末期の1945年 3月13日 に独立を宣言した。1945年8月にシハヌーク王を後見していた日本 が連合国 に敗北したあと、フランス領に復帰するも、1949年 にフランス連合 の枠組みの中で独立を認められ、1953年 に完全独立を達成した。
独立と内戦
仏印内東隣のベトナム は共産主義 の北ベトナム と反共 資本主義 体制の南ベトナム に分かれて独立した。北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線 (ベトコン)は、ラオス およびカンボジア領内の「ホーチミン・ルート 」を経由して南ベトナムへのゲリラ 攻撃を行う。これに対してアメリカ合衆国 は軍事介入を行い(ベトナム戦争 )、1968年 にはアメリカ軍 がカンボジア・ラオス領内のホーチミン・ルートへの空爆 を開始する。1970年 には親米 派のロン・ノル 将軍がクーデター によりシハヌーク元首 を追放し、クメール共和国 を樹立した。これに対して北ベトナムがカンボジアへの侵攻を開始すると、ロン・ノル政権は国内のベトナム系住民に対する迫害・虐殺を行う。また、中華人民共和国 の北京 に亡命したシハヌークは、共産主義 勢力クメール・ルージュ などを含む反米 ・反ロンノル勢力の武力共闘を呼びかけ、カンプチア王国民族連合政府 の樹立を宣言。カンボジア内戦 が始まる。ロン・ノル政権下でも米軍による空爆は拡大し、数十万人のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となった。米軍と南ベトナム軍による地上侵攻も行われている。(カンボジア作戦 )
ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年 4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチア を樹立したクメール・ルージュ政権はシハヌークとペン・ヌート をそれぞれ国家元首と首相に推戴するも、実権はポル・ポト に掌握されていた。クメール・ルージュの権力掌握から1979年 1月6日 の民主カンプチア崩壊までの3年8か月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制 の実現を目指すクメール・ルージュの政策により、旱魃 、飢餓 、疫病 、虐殺 などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出た。この死者数は、1970年代前半の総人口は700万人から800万人だったとの推計の13 - 29%にあたり、大量虐殺 が行われた。教師 、医者 、公務員 、資本家 、芸術家 、宗教関係者 、その他イデオロギー 的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所 に送られた。生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。それゆえ、正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。なお、内戦前の最後の国勢調査 が1962年 であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている。
この時期のカンボジアの人口推計として1976年 の国際連合のもので835万人、1978年にイエン・サリ 副首相兼外相(当時)が発表した776万人(1976年時点)とする数字がある[13] 。
1978年 12月25日 に中ソ対立 の文脈の中でソ連 寄りのベトナム社会主義共和国 の正規軍 とカンプチア救国民族統一戦線 が、対立していた中国 寄りの民主カンプチアに侵攻。翌1979年 1月、ポル・ポト政権を打倒して親越派のヘン・サムリン を首班とするカンプチア人民共和国 を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争 )。なお、このベトナムによるカンボジアへの侵攻をきっかけに、同1979年2月に中華人民共和国がベトナムに侵攻し、中越戦争 が勃発している。その後、ポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・サムリン 派との間で内戦が続いた。
1982年 6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線 (KPNLF、ソン・サン 1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンプチア連合政府(CGDK) (英語版 ) を樹立した。カンプチア人民革命党 と反ベトナム三派連合政府の対立が継続する[14] 。1989年 にベトナム軍 が撤退、1991年10月にパリ和平協定 が締結された。
制憲議会発足
1992年 3月から国際連合カンボジア暫定統治機構 による統治が開始され、1993年 5月には国際連合 の監視下で民主選挙が実施された。このときの国連の代表が日本の明石康 である。6月2日、国連安全保障理事会 は、選挙が自由・公正に行われたと宣言し、選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をした。さらに6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議した[15] 。9月に制憲議会が新憲法 を発布し立憲君主制 を採択、ノロドム・シハヌーク が国王に再即位した。憲法は「複数政党制 に立脚した自由な民主主義」を憲法 原則のひとつとした。制憲議会は国民議会 に移行した。
1999年 4月に10番目の東南アジア諸国連合 (ASEAN)加盟国 となった。
2009年 12月18日 、カンボジア特別法廷 [16] は、キュー・サムファン 元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド )罪でも訴追 することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア 元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の2名にも大虐殺罪適用を決定している。[17]
2013年カンボジア国民議会選挙 では与党のカンボジア人民党 が僅差でカンボジア救国党 に勝利し、フン・セン 首相の続投が決まった。2023年 7月26日 にフン・センは首相を辞任し、長男で元陸軍司令官のフン・マネット に後を継がせた。
政治
首都プノンペン の王宮
政体
国家体制 は国王 を元首 とする立憲君主制 である。選挙君主制 であり、ノロドム家 (英語版 ) とシソワット家 (英語版 ) のメンバーから、王室評議会 (英語版 ) が国王を選出する。王室評議会は、首相 、両院の議長、両院の副議長(それぞれ2名ずつ)、上座部仏教 の2つの宗派の代表(それぞれ1名ずつ)の合わせて9名からなり、秘密投票で国王を選出する。国王の地位は終身である。
1993年にカンボジア王国が成立した際、初代国王にノロドム・シハヌーク が選出され、2004年10月の国王退位を受けてシハヌークの実子であるノロドム・シハモニ が選出された。
行政
立法
立法府 たる議会 は両院制 を採用しており、定数125議席からなる国民議会 (下院 )議員は直接選挙 で選出され、定数61議席からなる元老院 (上院 )議員は間接選挙 と国王からの任命によって選出される。
1998年7月末に総選挙が実施 され、総議席数122で投票率90.7%で、人民党64議席(41.4%)、フンシンペック党43議席(31.7%)、サム・ランシー党 15議席(14.3%)、その他議席なしで得票率13.6%。人民党が第1党になったが、フンシンペック党とサム・ランシー党選挙結果に異議申し立てていたこともあり、単独で組閣することができず(総議席の3分の2以上の信任票が必要とカンボジア王国憲法第90条)連立政権が成立した。
2003年7月に総選挙が実施 され、総議席123、投票率86.7%。人民党73議席(47.4%)、フンシンペック党26議席(20.8%)と大敗、サム・ランシー党24議席(21.9%)、その他なし(10.0%)。連立をめぐり紆余曲折を経て、翌年7月にようやく2党連立の新政権が発足した[18] 。
2013年の選挙で野党人民救国党が躍進した。
2017年に最大野党の人民救国党の党首が国家反逆罪により逮捕され、党は裁判所の命令で解党され、所属する政治家も政治活動が禁止された。翌2018年の総選挙では有力野党不在の選挙となり、与党人民党が下院全議席の125議席をとって事実上の一党独裁状態となった[19] 。
政党
憲法
1993年、制憲議会を創設するための選挙が行われ、総議席数120で投票率89.04%で、人民党 51議席(38.2%)、フンシンペック党 58議席(45.5%)、仏教自由民主党10議席(3.8%)、自由モリナカ闘争1議席(1.4%)であった。制憲議会は、1993年9月の「カンボジア王国憲法」が発効を受けて国民議会 に移行した。
カンボジア王国憲法 には、内政不干渉 、紛争 の平和的解決、永世中立 が明記されている。
法律
カンボジアでは、クメール・ルージュ [注釈 1] 時代にほとんどの法律家 (裁判官 、検察官 、弁護士 )が殺害され、法律 およびその資料も廃棄された。カンボジアが近代国家として再生、発展していくためには、0に近い状態から民法 や民事訴訟法 などの基本法典を整備し、それらを運用する裁判官、弁護士などの法律家を育成することが不可欠であり、日本はこれらの法整備支援 を行っている[20] 。
民事訴訟法 は2007年7月から適用を開始しており、民法 も2007年12月8日に公布され[21] 、2011年12月21日から適用が開始された[22] 。
国際関係
日本との関係
ベトナムとの関係
フランスとの関係
アメリカとの関係
中国との関係
国家安全保障
カンボジア王国軍 は陸軍 、海軍 、空軍 の三軍から構成される。
地理
カンボジアの地図
カンボジアの地形図
カンボジアの中心には湖と河川の複合体であるトンレサップ湖 があり、その河川部分は国土の東部を縦貫する国際河川 たる大河メコン川 の支流となっており、水運と漁業・農業を支えている。この平野 部にカンボジア人口の3分の1が居住している。トンレサップ湖の北辺にはクメール王朝 の遺跡として世界的に有名なアンコール・ワット やアンコール・トム といったアンコール遺跡 (1992年、世界遺産 登録)が存在する。
国土の大部分は海抜100メートル以下であるが、東北部にアンナン山脈 (ラオス・ベトナム国境となる)につながるモンドルキリ高原(モンドルキリ州 )がある。北部には切り立ったダンレク山地 (タイ東北部との国境付近)、プノンペン 西方にカルダモン山脈 (英語版 ) (クロワーニュ山脈)が連なり、その山系に最高峰アオラル山 (1,813メートル)がある。
気温と降雨量
北緯 11度から15度にまたがり、熱帯 気候、モンスーン 気候帯に属し、5月から10月が雨季 (暖かく湿った南西の季節風 )、11月から4月が乾季 (乾いた浦東風が吹く)である。降雨のピークは9月(海岸地域は8月)。雨季にはタイ湾 からの風で気温は22度まで下がり、乾季には北東風で40度まで上がる。プノンペンでは、年間平均気温が27度、乾季と雨季の境目の4月が最高気温(35 - 25度)で、乾季の11月に最低気温(30 - 23度)である。雨季 のメコン川の増水でトンレサップ湖に逆流し、湖面積がほぼ10倍に拡大する。
降雨量は地域によって差が大きい。その地域区分は、中南部の平野地域、トンレサップ湖地域、南西部の海岸地域、北東部の高原山岳地域の4地域である。海岸地域がもっとも年間降水量が多く、次いで高原地域がやや多い。これらの降雨量が農業生産を左右する最大の要因である。しかし、年間降雨量は年によって変わる。そして、雨季が始まってからの7月から8月にかけて1 - 2週間雨が降らないことを小乾季といい、この田植え の時期に小乾季が続くと作付や成育に大きな影響をもたらす[23] 。
生態系
カンボジアの野生生物は非常に多様で、少なくとも162種の哺乳類 、600種の鳥類 、176種の爬虫類 (89種の固有種を含む)、900種の淡水魚 、670種の無脊椎動物 の存在が確認されている[24] [25] 。しかし、カンボジアに生息する野生生物(いくつかの固有種を含む)の多くは、 森林伐採や生息地の破壊、密猟 、野生生物の違法取引、同国内の農業、漁業、林業の発展によって、その存在が危ぶまれている。これにより現地の野生生物は国際自然保護連合 (IUCN)によって、危急種 や絶滅危惧種 (或るいは絶滅寸前 種)として認定されている。
地方行政区分
カンボジアの地方行政区画
カンボジアの地図
カンボジアは、首都(クメール語 : រាជធានី : reach theany)と24の州(クメール語 : ខេត្ត : khett)に分かれている[26] [27] 。
首都(クロン)-区(カン)-町(サンカット)
プノンペン (クメール語 : ក្រុងភ្នំពេញ 、英 : Phnom Penh )
州(カエト、24州)-市(クロン)/郡(スロック)-町(クム(郡のみ)/サンカット)
バンテイメンチェイ州 (クメール語 : បន្ទាយមានជ័យ 、英 : Banteay Meanchey )
バタンバン州 (クメール語 : បាត់ដំបង 、英 : BattamBang )
コンポンチャム州 (クメール語 : កំពង់ចាម 、英 : Kampong Cham )
コンポンチュナン州 (クメール語 : កំពង់ឆ្នាំង 、英 : Kampong Chhnang )
コンポンスプー州 (クメール語 : កំពង់ស្ពឺ 、英 : Kampong Speu )
コンポントム州 (クメール語 : កំពង់ធំ 、英 : Kampong Thom )
カンポット州 (クメール語 : កំពត 、英 : Kampot )
カンダール州 (クメール語 : កណ្ដាល 、英 : Kandal )
ココン州 (クメール語 : កេាះកុង 、英 : Koh Kong )
クラチエ州 (クメール語 : ក្រចេះ 、英 : Kratie )
モンドルキリ州 (クメール語 : មណ្ដលគិរី 、英 : Mondol Kiri )
ウドンメンチェイ州 (クメール語 : ឧត្តមានជ័យ 、英 : Otdar Meanchey )
プレアヴィヒア州 (クメール語 : ព្រះវិហារ 、英 : Preah Vihear )
プレイベン州 (クメール語 : ព្រៃវែង 、英 : Prey Veng )
ポーサット州 (クメール語 : ពោធិសាត់ 、英 : Pursat )
ラタナキリ州 (クメール語 : រតនគិរី 、英 : Ratana Kiri )
シェムリアップ州 (クメール語 : សៀមរាប 、英 : Siem Reap )- アンコール遺跡
ストゥントレン州 (クメール語 : ស្ទឹងត្រែង 、英 : Stung Treng )
スヴァイリエン州 (クメール語 : ស្វាយរៀង 、英 : Svay Rieng )
タケオ州 (クメール語 : តាកែវ 、英 : Takeo )
ケップ州 (クメール語 : កែប 、英 : Kep )
パイリン州 (クメール語 : បៃ៉លិន 、英 : Pailin )
シアヌークビル州 (クメール語 : ព្រះសីហនុ 、英 : Preah Sihanouk. )
トボンクムン州 (クメール語 : ខេត្តត្បូងឃ្មុំ 、英 : Tboung Khmum )2013年設置
非行政単位
サンカット内に村(プーム)
首都と州の知事および区長、郡長、市長は、首相から任命される。
首都と州および区や市、郡の職員は、内務省からの国家公務員。
2001年、クムやサンカット評議会選挙法、クムやサンカット行政運営法(クム行政法)を制定。18歳以上のカンボジア国籍者が投票権を有する。
2002年2月の選挙で全国に1621のクムおよびサンカット評議会が設置された。
経済
首都プノンペン
カンボジアの農村 では高床式住居 が主流である
国際通貨基金 (IMF)によると、2014年 のカンボジアのGDP は約165億ドルである[28] 。一人当たりのGDPは1,080ドルであり、世界平均の10%に満たない水準である。 2011年 にアジア開発銀行 が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定されており、国民の半数を超えている[29] 。国際連合 による基準に基づき、後発開発途上国 に位置づけられている[30] 。
主要産業は農業 、漁業 、林業 などの第一次産業 である。近年は観光産業 と縫製産業 が成長し、最貧国 ではあるものの外国からの投資 も大きな伸びを示している。
おもな鉱物資源として燐 (未開発)、マンガン (未開発)、宝石 がある。塩 を4万トン生産する。経済成長率は、2004年に10%、2005年に13.4%、2006年には10.4%に達した(カンボジア政府の統計)。
首都プノンペンの経済発展は著しく、2020年現在、先進国に匹敵する数の高級車 が街中を走っている。
農業
国土の約3割が農地 として利用されており、その8 - 9割は水田 である。次に多いのは「チャムカー(畑)」と呼ばれる畑地で、およそ農地の10 - 15%程度とみられている。さらに、「チャムカー・ルー(上の畑)」と呼ばれる畑があり、農地の10 - 15%程度を占めているとみられている。これら3種の農地のほかに、焼畑 、ゴムの木 のプランテーション がある。
食料作物と主要な工芸作物の作付面積を見ると米 が圧倒的に多い。トウモロコシ 、キャッサバ 、甘薯 、野菜 類、緑豆 などの食料作物、落花生 、大豆 、胡麻 、サトウキビ 、タバコ 、ジュート などの工芸作物の作付面積は非常に狭い[31] 。
カンボジアの国土に占める農地面積は21.6%に及び、人口の34%が農業に従事している。生産年齢人口が人口の55.8%であることを考慮に入れると、カンボジアの主産業は農業である(以上、2002年時点)。しかしながら、労働生産性 が低いため、農産物は国内需要を満たすにすぎない。主要穀物では米(417万トン)の生産に特化している。商品作物 の生産では葉タバコと天然ゴム (4.6万トン)が目立つ。
外国貿易
主要輸入品目は、石油製品 (8.2%)、タバコ 、オートバイ 。主要輸出品目は衣類(77.8%)、天然ゴム、木材 である。主要輸出先はアメリカ合衆国 (36.8%)、シンガポール 、タイ王国 。主要輸入先はタイ(15.6%)、香港 、シンガポールである。
カンボジア製の衣類 は日本にも2000年代 以降多く輸出され始めている。たとえば、ユニクロ を運営するファーストリテイリングの子会社であるジーユー が販売している一本990円という低価格のジーンズ などがカンボジア製である。人件費の安さなどを武器とし、経済成長の緒に就いている。
近年、中国 が経済進出し、カンボジア首相府のビル建築や南部シアヌークビル のインフラ整備にも多額の資金援助を行っている。
法環境
一方、ソフト面でのインフラストラクチュア というべき法律分野における法整備支援 では、民法 および民事訴訟法 の起草や裁判官、弁護士の人材育成を支援する日本のプレゼンスが大きい[33] [34] 。
通貨
通貨 はリエル が存在するが、カンボジア経済の実情と比較してリエルの為替レート は高い。特に輸出に不利なため、一部を除いては通常は米ドル が使用される。カンボジアではポル・ポト政権下の1978年 に、原始共産主義 的政策の一環としてすべての通貨が廃止された。同政権崩壊後の1980年 にリエルは復活した。地方、シェムリアップ西部のクララン周辺以西、以北、アンロンベンやプレア・ヴィヘアなどのタイ国境に近い地域ではリエルよりもタイの通貨バーツ が使用される場合もあるが、1B=100Rで使用できる。
交通
道路
鉄道
航空
国民
民族
カンボジアの民族分布(1972年 )
ヒンドゥー教の神話に登場する女神「アプサラ 」に扮したクメール人女性
クメール人 が86%、ベトナム人 が5%、華人 が5%、その他4%がチャム族 などの少数民族 である。日系カンボジア人 も少数ではあるが存在し、著名な人物として猫ひろし や後藤忠政 が挙げられるが、その多くは起業や投資のためにカンボジア国籍を取得した元日本国籍者である。
言語
カンボジアでは約20の言語が話されている。カンボジア国内でもっとも話されている言語 はクメール語 (カンボジア語)である。
公用語 は1993年公布のカンボジア王国憲法 第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっている。少数民族が話す言語にはチャム語 などがある。
高齢者や特別な職業(医師など)の間ではフランス語 がある程度通じるが、若者の間でもっともポピュラーな外国語は英語 となっている。
婚姻
婚姻しても、夫婦別姓 であり、姓が変わることはない[35] 。
宗教
上座部仏教 が憲法で国教 と定められているが、信教の自由 が保障されている。人口の9割以上が上座部仏教の信徒であり、チャム族 を主とする4%ほどがイスラム教徒 (カンボジアのイスラム教 )である。
クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教 寺院やモスク などの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶 が還俗 させられ、あるいは虐殺された。
教育
王立プノンペン大学
若年層の識字率 は低くないが、45歳以上の識字率はクメール・ルージュ 時代に教育が禁止された影響もあってか21.0%とかなり低い水準である。2004年の15歳以上で読み書きができる者は男性84.7%、女性64.1%。2005年の初等教育純就学率91.9%、中学校教育就学率男子57%、女子16%(1998 - 2002年)(ユニセフ『世界子供白書2005年』ほか)。内戦の影響で学校の鐘として砲弾 などの兵器が使われており、2018年に政府は禁止の指示を出した[36] 。
保健
治安
カンボジアの治安は非常に危うい状況に置かれている。カンボジア内務省の犯罪統計によると、同国における2018年の犯罪 総件数は2,995件で前年と比較して8%の増加と発表されているが、これはいわゆる氷山の一角ではないかとも言われていて、統計に含まれていない案件も多数あり、実際の犯罪発生件数はこれよりも多いのではないかと考えられている。
外国人の犯罪被害も報告が多数挙がっており、たとえば日本人が被害にあう犯罪の大多数が金品目的のひったくり 、スリ を含む窃盗 、「いかさま賭博」詐欺 で占められ、他には空き巣 などの住宅関連の犯罪が挙げられている[37] 。
汚職問題
カンボジアはアジアにおいて汚職の度合いがかなり高い方に位置する。世界経済フォーラム が2018年に公表した『世界競争力報告 (Global Competitiveness Report)』では、カンボジアは腐敗指数が21.0で世界で5番目に腐敗 している国と認定される[38] 。
地雷
国内にはベトナム戦争中のカンボジア作戦 や、それに続くベトナム・カンボジア戦争 、カンボジア内戦 の影響で多くの地雷 と不発弾 が埋まっている。危険地域の多くには危険標識が立てられているものの、カンボジアの子供たちは母語 であるクメール語 の文字が読めない ことが多く、誤って危険地帯に入ってしまうという問題があった。そのため日本地雷処理を支援する会 (JMAS)などの日本 のボランティア組織は、子供でも理解できるポスターを作ったり、わかりやすい地雷の標識を設置するなどの活動をしている。
現在、地雷地域の処理が進んでおり、かつてに比べると各都市部は安全になったものの、地方部では西部タイ国境周辺以外での地雷処理は行われていない。
人権
マスコミ
通信
文化
食文化
カンボジア料理の一例
文学
民話 - 民話は、カンボジアでも人から人へと語り継がれてきた民話が多く残っており、19世紀ごろにはヤシ の葉に書かれたという。20世紀になるとフランス人研究者が同地研究者らとともに「クメール風俗習慣委員会」を設立し、民話の採取と編集を始めた。その事業を仏教研究所が引き継ぎ、同研究所の『カンプチア・ソリヤー』に1932年から連載した。その後、『クメール民話集』(全249話、全9巻、1959 - 1971年)が刊行された。何度も復刻版が出され、誰もが手にする民話集になっている[39] 。
古典文学 作品 - カンボジアを代表する古典文学作品は、『リアムケー 』[40] 、『ジャータカ 』[41] 、『50のジャータカ』[42] などの長編物語があげられる。[43]
音楽
舞踊
クメールのアプサラス・ダンサー
美術
カンボジアでは20世紀半ばから現代美術の伝統が始まった。20世紀後半にはクメールルージュによる芸術家の殺害など、いくつかの原因から伝統芸術と現代芸術の両方が衰退していたが、同国政府やNGO 、外国人観光客からの支援が増えたため、21世紀になってその存在が再生を迎えることとなった。
映画
衣類
建築
祭礼
新年を祝うクメール人女性
水祭り - 2010年 11月に300人以上が死亡する事故が起きた。100メートル、幅6メートルの橋の上には見物客約7,000人から8,000人がおり、橋が揺れたのが原因と見ている。24日の政府発表では、死者数は347人だった[44] 。
世界遺産
カンボジア国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が3件、暫定リストが8件存在する。[45]
無形文化遺産
カンボジアには、ユネスコ の無形文化遺産 リストに登録された文化 が4件存在する。
祝祭日
スポーツ
サッカー
カンボジア国内でも他の東南アジア 諸国同様に、サッカー が最も人気のスポーツ となっており、1982年 にはサッカーリーグのカンボジア・リーグ が創設されている。さらに2018年 には、元日本代表 の本田圭佑 がカンボジア代表 のGM に就任し話題となった。
2019年 には、"2022 FIFAワールドカップ・アジア2次予選 "のイラン代表 戦で、0対14 で大敗し、カンボジア史上ワースト記録での敗戦となった。なお、FIFAワールドカップ への出場経験はないものの、AFCアジアカップ では1972年大会 でベスト4に進出した事もある。また、東南アジアサッカー選手権 には8度の出場歴をもつが、全大会でグループリーグ敗退となっている。
ボッカタオ
アンコール・ワット
ボックは「激しく叩く」タオは「ライオン 」を意味し、両方合わせてボッカタオ は「ライオンを激しく叩く」を意味する。名称は2000年前にライオンが人々の村を襲った時、ある武人が膝の技でライオンを倒したという伝説に由来するという。アンコール・ワット 建造のころから伝わる武術とされ、かつてはアンコール王国 (クメール王国)の軍隊で行われていたという。ボッカタオは東南アジア を支配したアンコール王国の強さの源泉と考えられ、12世紀 終盤には王であるジャヤーヴァルマン7世 によって推奨された。しかし王国の衰退と共にボッカタオも衰退していく事となる。
さらにその後のフランス による植民地 支配、ポル・ポト やクメール・ルージュ 時代の弾圧 によってボッカタオの運命は風前の灯となる。この失われつつあった伝統武術の復興を試みたのがサン・キムサン である。キムサンは素手の武術や槍術 ・棒術 などを学んでいたが、ポル・ポト時代にタイ に亡命し、その後アメリカ でハプキドー の師範として暮らしていた。しかしキムサンは自国の武術復興を志し、国内の情勢が安定した2001年 に帰国。師範を集めて組織を整備し、2005年 にそれまで名前が忘れられていたこのカンボジア武術を「ボッカタオ」と仮に名付けた。
オリンピック
著名な出身者
脚注
注釈
^ Khmer Rouge、KRと略、フランス語、元来はシアヌークが左派 を一まとめにして呼んだ言葉、近年は国際社会でポル・ポト派 を指す用語となっている。天川直子「誰をどう裁くのか」/上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 210-213ページ
出典
参考文献
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関連項目
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