コルヴェアのエンジン(Corvair engine)は、排気量140 cu in (2.3 L) のアルミニウム製、水平対向6気筒の空冷エンジンであった。初期の出力は80 hp (60 kW) だったが、1965 - 66年モデルのコルサ仕様に設定されたオプションエンジンでは、ターボを装着し180 hp (134 kW) を発揮した。
ラルフ・ネーダーの著書『どんなスピードでも自動車は危険だ』(Unsafe at Any Speed)の「スポーティ・コルヴェア」の章で安全性の問題が槍玉に挙げられ[10]、この中で1960 - 63年モデルのコルヴェアが劇的なケース・スタディとして採り上げられた。ネーダーは、コルヴェアがスイングアクスル式後輪サスペンションによりコントロールを失い、スピン、更には横転する傾向があると主張した。1965年にこの本が出版されると、問題がどの程度のものかが知られていなかったにも関わらず、コルヴェアの販売の低下に影響を与えた。
80 hp (60 kW) のエンジンと3速マニュアルトランスミッション(MT)、または2速のパワーグライド(Powerglide)オートマチックトランスミッション(AT)を備えたコルヴェアは、小さなエンジンに応じた小型化と軽量化が図られ、加速性能はフルサイズ車シボレー・ビスケインのベーシックな6気筒モデルに比肩するように設計された。スペース効率の面ではリアエンジン車の特徴が活かされ、4ドアセダンモデルの場合、ドア長さで比較すればフルサイズ車と比較してもさほど遜色がない居住スペースが確保されていた。リアエンジン車の多くに共通する傾向として、当初は前部トランクルームにスペアタイヤを搭載しており、1960年1月に導入された2ドア・モデルには荷物の収容能力改善策として折り畳み式後部座席が設えられた。
バリエーションの充実が進められ、実用的なベンチシートのセダンとクーペに加えて、バケットシートを備えた内装のより豪華な「モンザ」こと900が追加された。このモデルは1960年の春にショウルームにお目見えした。モンザには排気効率の良い排気管と合わせ、より鋭敏な設定のカムシャフトにより95 hp (71 kW)の出力を発生する強力エンジンとフルシンクロメッシュ機構付の4速MTという2つのオプションが設定されていた。市場導入が遅かったにもかかわらずモンザは1万2,000台が販売され、最も人気のあるモデルとなった。
派生モデルとして、水平対向6気筒エンジンを荷室の「下」に押し込んだステーションワゴンのレイクウッド(Lakewood)が1961年に追加された。レイクウッドは車室内に58 ft3と車体前部の「トランク」に10 ft3の合計68 ft3 (1.9 m3) の荷室を確保していた(水平対向エンジンのコンパクトさを利用したこの設計は、ほぼ同時期のフォルクスワーゲン・タイプ3とも類似する)。1961年モデルには4速MTのオプションも追加された。コルヴェアのエンジンは初めてボアを僅かに拡大されて145 cu in となった。モンザに搭載されたベースエンジンはMTとの組み合わせではいまだに80 hp (60 kW)、オプションのATとの組み合わせでは84 hp (63 kW)、高性能エンジン版は98 hp (73 kW)であった。
コルヴェアは工場装着のエアコンを提供した初めてのコンパクトカーであり、1961年モデルの途中から全天候型エアコン(All Weather Air Conditioning)がオプション設定された。大型のコンデンサーが水平のエンジンファンの上に寝かせて配置され、大きな緑色に塗装された標準のGMフリッジデアー(Frigidaire)・エアコンディショニング・コンプレッサーの逆回転版が使用された。エヴァポレーター本体はダッシュボードの下に備えられ、吹き出し口はラジオの周りに配された。全天候型エアコンは搭載空間が干渉するためワゴン、グリーンブライア/コルヴェア95や後に導入されたターボチャージャー付のモデルには装着できなかった。
1964年モデルでは顕著な機構上や安全装備の変更が行われた一方で、ボディや提供されるモデルは前年と同じであった。1964年モデルイヤーは、エンジンがストロークを延ばしたために145から164 cu in (2.3 から 2.7 L) へ排気量を拡大、ベースエンジンの出力は80から95 hp (60から70 kW) へ、高性能版は95から110 hp (70から80 kW) へ強化された。スパイダーのエンジンは排気量が拡大されたにもかかわらず150 hp (112 kW)のままであった。
『カー・アンド・ドライバー』誌のデービッド・E・デービス・ジュニア(David E. Davis Jr.)は1964年10月号の中で1965年型コルヴェアへの熱狂的な愛好振りを示した。
「そしてここでも我々は、コルヴェアが(我々の意見では)'65年モデルとして発表された全ての車の中で最も重要な新型車であり、第二次世界大戦以降にこの国に現れた中で最も美しい車であるということを公式に表明しなければならない。」、「'65年モデルのコルヴェアの写真が我々の編集部に届くと、その封筒を開いた人物は最初にその車の姿を見た喜びと驚きで大きな雄叫びをあげ、30秒の間に全スタッフの各々が自分こそが誰かにそれを最初に見せようとしたがり、それを見た人からの歓声を聞きたがって群がった。」、「実際に車を運転するまでには我々の熱狂も幾分治まっていたが、運転してみるとその熱狂がぶり返した。新しい後輪サスペンション、柔らかくなった前輪のスプリング・レート、大型化されたブレーキ、幾分増強された出力、これら全ての要素が我々を狂ったようにさせて、しぶしぶ試乗車を他に参加しているジャーナリストの手に引き渡さなくてはならなくなるまで我も我もとテストコースに出たがり・・・'65年モデルのコルヴェアは傑出した車である。そうそう速い車とは言えないかもしれないが、我々はこの車を気に入った。」
ベースの95 hp (71 kW) とオプションの 110 hp (82 kW) エンジンは1964年モデルから引き継がれた。新しいコルサ用には以前の150 hp (112 kW) スパイダー用エンジンが140 hp (104 kW) の自然吸気型エンジンに代替された。このエンジンは4連装のシングルスロート型キャブレターを装備した点が通常とは異なり、加えて大径バルブと2本出し排気管を備えていた。ターボチャージャー版の180 hp (134 kW) エンジンはコルサにオプションで設定され、標準が3速、オプション(92 USドル)で4速MTに提供された[12]。140 hp (104 kW) エンジンはMTかパワーグライドAT付きで500とモンザにオプションで設定された。
この頃、ラルフ・ネーダーの著書の影響と、最高出力が180 hp (130 kW) のコルヴェアに対して最高271 hp (202 kW) までのV8エンジンを搭載する新型マスタング[15]とマスタングの直接競合車となるGM自身の新型車「パンサー」(後に発売されるカマロのコードネーム)の登場の噂でコルヴェアの販売数は下降し始めた。コルヴェアに対する更なる開発の打ち切りが決定され、このモデルイヤーの生産台数は10万3,743台に減少した[16]。
1967年モデルではコルヴェア シリーズは500とモンザのハードトップ・クーペとハードトップ・セダン、モンザ・コンバーチブルが用意された。このモデルイヤーで初めて衝撃吸収式のステアリングコラムが装着された。警告灯付き2重回路式マスターシリンダー(Master cylinder)、強化ナイロン製ブレーキホース、強化鋼製(アルミ製に替えて)ドアヒンジ、「マッシュルーム」形の計器盤スイッチとプラスチック製枠の昼夜切り替えバックミラーが全てのモデルで標準装備となった。テールライトのレンズの形状は1966年モデルと同じであったがレンズ内部にあるクロームの輪("wedding band")が厚くなり(このディテールは博識なコルヴェア「マニア」のほとんどでさえ知らない)、この変更は生産終了のモデル末期まで続いた。シボレーはコルヴェアを含む全ての車種に5万-ml (8万 km) までのエンジン保証を導入した。1967年モデルではシボレーはまだカラー版ポスターやディーラーでの「I Love My Corvair」と書かれたバンパーステッカーの配布といった能動的な宣伝活動を行っていたが、生産数と販売数は激減し続けた。1967年モデルは僅か2万7,253台が生産されただけであった[17]。
自動車産業における最大の皮肉かもしれないが、ネーダーの消費者運動により生まれた連邦の官庁であるNHTSAは、1960 - 1963年モデルのコルヴェアの「名誉挽回」の報告書を出した。テキサスA&M大学により運営された1972年度の安全委員会報告書では、1960 - 1963年モデルのコルヴェアが過酷な状況下で同時期の他の車よりも制御を失う危険性が高いとは言えないと結論付けた[19]。一方、元GMの重役であったジョン・デロリアンは著書『晴れた日にはGMが見える』(On a Clear Day You Can See General Motors、1979年)の中でネーダーの批判は根拠のあるものだと書いている。
1960年モデルのコルヴェアは、フォルクスワーゲン車がディーラー・オプションの補助ヒーターとして設定していたエーベルスペッヒャー(Eberspächer)・ヒーターに似たGMハリソン・ディヴィジョン(GM Harrison division)の燃焼式ヒーターを標準ヒーターとして前方トランク内に備えていた。この装備は需要が低かったため1961年モデルでオプションとなり、1965年モデルで廃止された。空冷エンジン車の代表例であるフォルクスワーゲン・ビートルは、エンジン冷却用の空気とは隔絶した新鮮な空気を使用するより良い暖房システムを採用していたが、コルヴェアのシステムが排気との接触部を8箇所持つのに対し、ビートルではエンジン後部でマフラーに覆われた2つの熱交換器が一酸化炭素にさらされるだけであった。
導入時は500と700の4ドア・セダンのみ;500と700のクラブ・クーペが1960年1月に導入;95 hp (71 kW) の「スーパーターボ・エア」高性能エンジンのオプション、4速MT、燃焼式ヒーターがオプション、荷室内のスペアタイヤ、自動チョーク付きのモンザ クラブ・クーペが1960年春に導入。導入直後の米国の鉄鋼産業のストライキの影響で販売が妨げられたことで新しい1960年モデルは品不足。モンザは「細い」1-in 幅のホワイトウォールタイヤを履いた初のシボレー車となる。
1961年
33万7,371台
1,920-2,331 US$
レイクウッド ステーションワゴン、グリーンブライア、コルヴァンとロードサイドとランプサイド ピックアップが追加;145 cu in エンジンとオプションの3速MT;1961年半ばでオプション設定された全天候型エアコンを装備しない車のスペアタイヤが後部エンジンルームへ移設。手動チョーク。初めて丸1年生産されたモンザは販売面で成功を収め、後にコルヴェア モンザがカバーしていない市場を侵食することになるファルコン スプリント後にマスタングをフォード社が開発する後押しをすることとなる。
164 cu in に拡大されたエンジン、横置きのリーフスプリングの追加とコイルスプリングの刷新で改良された後輪サスペンション、前輪のアンチロールバーが標準で追加、放熱フィン付き後輪ブレーキドラム、新しい全面を覆うホイールカバー。モンザを販売の中心とするために新しいモンザの加飾とホイールアーチの飾り、ランプサイド ピックアップの最後の年。
1965年
24万7,092台
2,066-2,665 US$
デザインの一新、全く新規のフィッシャー部門製Z-ボディ、全モデルがハードトップ仕様、700シリーズは廃止、コルサ シリーズがモンザ スパイダー シリーズを代替;年の半ばで1,528台を生産してグリーンブライアだ廃止;前輪と後輪の完全に設計しなおされた独立懸架、改善されたヒーターとエアコン、数々の細かなエンジンとシャーシの改良。年の半ばで約25%スプリングレートを高めた特性スプリング、特性ショックアブソーバー、ギヤ比16:1 のステアリングボックスと特性ステアリングアームを含むZ17「ステアリングとサスペンション」オプションを導入。新たなオプションは140 hp (100 kW) エンジン、伸縮式ステアリングコラム、AM/FM、FM ステレオ、粉塵制御用のエンジンシュラウドのヘビーデューティ仕様オイルバス・エアクリーナーの前洗浄機能。車体前面のシボレーのエンブレムは赤に塗装。
4ドア・ハードトップ セダンの最終年、GMエナジーアブソービング・ステアリングコラム、強化ドアヒンジの導入、導入当初には110 hp (82 kW) エンジンはオプションのみ、結局140 hp (100 kW) 版はCOPO 9551"B"の限定生産車として本社受注分のみ。新しい「セーフティ」パワーグライド用シフトノブ、ショルダーベルト用取り付けポイントを追加。500には新しいデザインのスタンダード・ハブキャップ。テールライトのレンズ内側のクロームリングが幅広に。速度警告、デルコ・ステレオテープ・システムがオプションに追加。
1968年
1万5,399台
2,243-2,626 US$
全てのモデルにエアインジェクション・リアクターが標準装備に、140 hp (100 kW) エンジンが通常生産モデルのオプションとして再設定、全天候エアコンのオプションが廃止、マルチプレックス・ステレオのオプションが廃止;気化燃料のリターンパイプとイギニッションキー警報ブザーが新しく標準装備に。1968年1月1日以降は前席ショルダーベルトが標準に、後席分は全モデルにオプションで設定。サイドマーカーランプ(前は橙電球に透明レンズ、後は赤レンズ)が全モデルのフェンダーに追加。ダッシュボード中央部の詰め物が新しく、ダッシュボード上辺の詰め物が厚く、モンザのハンドルのスポークがアルミ磨き出しに(クロームから変更)。
1969年
6,000台
2,528-2,641 US$
1969年5月まで生産された最後のモデルイヤー。6,000台のコルヴェアの内521台がモンザ・コンバーチブル;マイナーチェンジ;MT車でクラッチケーブルの設計を変更、新しいヘッドレストが付いた幅広のバケットシート、拡大されたバックミラー、前輪のブレーキホースの改良。前部マーカーランプが橙レンズに透明電球へ('68年モデルと反対)。140 hp (100 kW) エンジン、F41「特製サスペンション」、N44「クイックレシオ・ステアリングギアボックス」。ポジトラクション・デフと伸縮式ステアリングコラムはオプションに残される。内装の窓用ノブが透明色に。豪華版のハンドルがオプションから廃止。最後の数ヶ月で生産された車は工場内の生産ラインから外れた特別の区画でハンドビルトで組み立てられる。
ヴェテランのレーサーであるジョン・フィッチ(John Fitch)は、その操縦性からレース場専用車両のベースとしてコルヴェアに特に興味を持った。基本的なスプリント・レース仕様ではエンジンが僅かに改良され出力155 hp (116 kW) になっただけであったが、改良型のショックアブソーバーとスプリング、ホイール・アライメントの調整、クイックなステアリングギア、軽合金製ホイール、焼結ブレーキパッド、標準で木製リムのハンドル(9.95 USドルの追い金で革巻き)とその他の細々した改造を施した車が、遥かに高価なヨーロッパ製スポーツカーに肉迫した競争力を見せた。スポイラーのようなボディ関連のオプション品も取り付けられたが、外観上で最も目立つオプションはC-ピラーと屋根の後半分にグラスファイバー製の覆いを付け、車を「走る中空屋根」("flying buttress")に見せる「ヴェントップ」("Ventop")であった。
フィッチは、外観としてはコルベットを基にした「メイコ・シャーク」(Mako Shark)の小型版を思い起こさせるコルヴェアを基にした2座スポーツカーの「フィッチ・フェニックス」(Fitch Phoenix)の設計と試作を続けた。鋼製ボディであるにもかかわらず総重量1,950 lbp (885 kg) に175 hp (130 kW) のウェーバー[要曖昧さ回避]製キャブレターを装着して改造したコルヴェアのエンジンを搭載したこの車は8,760 USドルで強烈な性能を発揮した。不幸なことに1966年の交通安全法(Traffic Safety Act of 1966)は小規模での自動車生産に制限を課し、これに続きシボレーはコルヴェアの生産中止を決定したことでフィッチの計画は完全に終止符が打たれた。しかし、フィッチは試作車を手元に残しており、時折カーショーでこれを披露している。この車の姿をドキュメンタリー映画『黄昏の中のガルウイング:ジョン・フィッチのボンネヴィル走破』(Gullwing at Twilight: The Bonneville Ride of John Fitch)[20]の中で垣間見ることが出来るかもしれない。
コルヴェアの水平対向6気筒エンジンは、フォルクスワーゲン製空冷エンジン(Volkswagen air cooled engine)の代わりにデューンバギー(dune buggy)やその他のオフロード・レースカーに搭載されるものとして人気のエンジンであった。コルヴェアのエンジンには小型航空機に搭載されたものもあった。
^Nader, Ralph. Unsafe at Any Speed: The Designed-in Dangers of the American Automobile. New York: Grossman, (revised edition) 1972. ISBN 0-670-74159-0.
Cheetham, Craig. The World's Worst Cars : From Pioneering Failures to Multimillion Dollar Disasters. New York: Barnes & Noble, 2005. ISBN 0-7607-6743-2.
Shattuck, Dennis, ed. Corvair- A complete Guide (A Car Life Special Edition). Chicago: Bond Publishing Company, 1963.