ジェフ・ベック・グループ (The Jeff Beck Group )は、イングランド 出身のロック ・バンド 。
英ギタリスト ジェフ・ベック がリーダーバンドとして結成。活動時期によって2つの期に分かれ、無名時代のロッド・スチュワート 、ロン・ウッド 、コージー・パウエル らが在籍した事でも知られる。ヘヴィなブルースロック のスタイルが、レッド・ツェッペリン 等ハードロック の形成に多大な影響を与えた。
第一期(1967年 - 1969年)
創設者ジェフ・ベック (1968年)
ロッド・スチュワート(Vo) 1971年
第一期ジェフ・ベック・グループは1967年 前半にロンドン で結成され、ギターにジェフ・ベック 、ボーカルがロッド・スチュワート 、リズムギターにロニー・ウッド 、ベース とドラムス は定期的に交代していた。初期のベーシストはジェット・ハリス とデイヴ・アンブローズ、ドラムスはクレム・カッティーニ とヴィヴ・プリンスが務めた。ラインナップは数ヶ月にわたって交代を繰り返し、ドラムスは結局エインズレー・ダンバー に決定、ロン・ウッドがベースを担当することになった。このメンバーで1967年に国内のクラブツアーを行い、何度かBBC ラジオに出演している。ベックは個人マネージメントをミッキー・モスト と契約していたが、モストはグループには興味を持たず、ソロ・アーティストとしてのベックにしか関心がなかった。
同年にバンドはヨーロッパで3枚、アメリカで2枚のシングルをリリースし、「ハイ・ホ-・シルバー・ライニング 」はイギリスのシングルチャートで14位を獲得した。B面はインストゥルメンタル「ベックス・ボレロ 」で、数ヶ月前に録音された物であった。このセッションのラインナップは、ジミー・ペイジ がリズムギター、ジョン・ポール・ジョーンズ がベース、キース・ムーン がドラムス、ニッキー・ホプキンス がピアノというものであった[ 1] 。バンドはベックの趣向に合ったブルース曲を十分演奏できずにフラストレーションが高まり、ドラムスのダンバーが離脱、あるステージでは代わってロイ・クック がドラムを担当した。その後スチュワートが以前のバンド、スチームパケット でドラムを担当していたミック・ウォーラー を推薦する。ウォーラーは1968年 から翌年前半まで在籍し、バンドで最も長くドラムを担当した[ 2] 。
当時のマネージャー ピーター・グラント
当時のロードマネージャー、ピーター・グラント はニュー・ボードヴィル・バンド と以前にアメリカツアーを行ったことがあり、新たなコンサートとFM曲中心にAOR をオンエアさせる形式を意識していた。「ヒットシングル」をリリースせずにバンドを売り出すことは今や可能であった。グラントはアメリカ市場にベックのバンドが理想的であると考え、モストからベックの契約を何度か買い取ろうとしていたが、モストはこれを拒否していた。1968年初めにバンドは解散の危機に陥るが、グラントは何とか解散しないようメンバーに納得させ、彼らのために短期のアメリカツアーを準備した。ベックはこのツアーに関して「僕たちは文字通りそれぞれ衣装を最低1回しか替えなかった。」と語っている。ツアーの開始はニューヨーク で、フィルモア・イースト でグレイトフル・デッド の前座として4回のコンサートを行った。そのコンサートは好評を持って迎えられ、ニューヨーク・タイムズ 紙のロバート・シェルトン は「ジェフ・ベック・グループはデビューコンサートで声援を受けた」との記事を掲載した。「イギリスのポップ・シンガー達がフィルモア・イーストの聴衆を喜ばせ」、ベックと彼のグループはグレイトフル・デッドを凌いだと報じた。ボストン・ティー・パーティー でのコンサートのレヴューはニューヨークと同じくらいかそれ以上であった。「彼が最後の曲を始めるまでに...(ファンは)ビートルズ が町に着いて以来、同様のことが見られなかったほど、大混乱の状態にあった。」彼らがサンフランシスコ のフィルモア・イースト でツアーを終える時までに、グラントは彼らのためにエピック・レコード と新しいアルバムの契約を締結した。
バンドは直ちにイギリスに帰国し、『トゥルース 』を録音した。『トゥルース』はアメリカのアルバムチャートで15位を記録する。2週間で全曲を録音し、翌月にオーバーダブが加えられた。当時ミッキー・モストは他のプロジェクトで忙しく、ケン・スコット が派遣され、スタジオで彼らの当時のライブでのレパートリーが録音された。ベックのアンプは出力が過多だったため、クローゼットの中に入れられて録音が行われた。このセッションにはジョン・ポール・ジョーンズがハモンドオルガン、キース・ムーンがドラムス、ニッキー・ホプキンスがピアノで参加した。バンドは『トゥルース』のプロモーションのためアメリカに戻りツアーを開始した。ジェフの昔からのファンであったジミ・ヘンドリックス は彼らのツアーが終了した後、カフェ・ホワ? でジャムセッションを行っている[ 3] 。
ニッキー・ホプキンス(Key) 1973年
バンドは1968年12月に3回目のツアーを開始、このツアーにはニッキー・ホプキンス も参加した。ホプキンスは健康問題を抱えていたが、ライブ演奏を行いたいとの希望で参加を決定した。彼はレッド・ツェッペリン からもより多くの報酬で参加を誘われていたが、ベックの誘いに応じた。後にホプキンスは「私たちはロック史上最も偉大なバンドの一つを失った...」と嘆いている。彼は自分の意思でツアーに参加したが、ツアーの後半は病気のため短縮された。そしてベックは4回目のツアー、1969年2月のアメリカツアーを延期した。これはまた、彼らが発表すべき新しいマテリアルを持ち合わせていなかったことも原因であった。新曲が作られ、ミック・ウォーラーに代わってトニー・ニューマン が加入、ロン・ウッドが解雇されたがすぐにまた加入した。『トゥルース』が成功したことでミッキー・モストは新たな意欲を起こし、バンドは『ベック・オラ 』をデ・レーン・リー・スタジオ で録音した。このアルバムにはマーティン・バーチ がエンジニアとして参加している。シングル「プリンス」がリリースされ、バンドはドノヴァン の3曲にバッキングとして参加した。その内2曲はシングル「バラバジャガ 」として発表された[ 4] 。
1969年 5月にバンドは第4回アメリカツアーを開始、今回はニッキー・ホプキンスが正式メンバーとしてフル参加した。ツアーは順調に進み、『ベック・オラ』も好意的に受け取られ、ビルボード のチャートで15位を記録した。しかしながら、この頃バンド内での乱闘騒ぎが伝えられている。ロッド・スチュワートは自身のファーストアルバム『アン・オールド・レインコート・ウォント・エヴァー・レット・ユー・ダウン 』をマーキュリー・レコード からリリースした。その後、同年7月に最後のツアーとなった第5回アメリカツアーを短期間行っている。このツアーは東海岸で行われ、フィルモア・イースト やニューポート・ジャズ・フェスティバル でも演奏している。ベックはウッドストック・フェスティバル の前日にバンドを解散させたが、フェスティバル参加予定だったものを解散したことに対して後に後悔を述べている[ 3] 。
第二期(1970年 - 1972年)
コージー・パウエル(Ds) 1974年
解散直後のジェフ・ベック 1972年
1970年 後半にベックはボーカリストにアレックス・リガートウッド 、キーボードにマックス・ミドルトン 、ドラムにコージー・パウエル 、ベースにクライヴ・チャーマン というラインナップでグループを再結成する。1971年 6月、CBS と契約を交わし、新たなシンガーを探す。ロンドンのロニー・スコッツ・ジャズ・クラブ でボブ・テンチ が自らのバンド、ガス と共に歌う姿を見たベックは[ 5] 、彼をボーカリスト兼ギタリストとして自らのバンドに加入させた。
テンチは新しい歌詞を書くのとアルバム『ラフ・アンド・レディ 』にボーカルを加えるため数週間が与えられ、ベックが他のメンバーと以前に録音したトラックのミキシングは中断された。アルバムは同年7月に完成し、彼らはフィンランド 、オランダ 、スイス 、ドイツ でツアーを行った。『ラフ・アンド・レディ』は10月25日にイギリスでリリースされ[ 6] 、アメリカでは1972年2月にリリースされた[ 7] 。続いて16日間のアメリカにおけるプロモーションツアーが行われた[ 8] 。同作は結局アルバムチャートで46位を記録した。
1972年 1月にバンドはベックに合流するためテネシー州メンフィスのTMIスタジオに向かった。ここで彼らはアルバム『ジェフ・ベック・グループ 』を録音する[ 9] 。プロデューサーはスティーヴ・クロッパー [ 10] 。『ジェフ・ベック・グループ』は同年6月9日にイギリスでリリース、続いてプロモーションツアーが行われ、その間の6月29日にはBBC ラジオ1 の番組『In Concert』に出演した。このセッションで演奏した「デフニットリー・メイビー」ではボブ・テンチがギターを演奏しており[ 11] 、これはテンチがベックとともにギターを演奏した数少ない例である[ 12] 。
同年7月24日、ジェフ・ベック・グループは公式に解散し、ベックのマネージメントは次のような声明を発表した。
「様々なメンバーの音楽スタイルの溶融は、個々のミュージシャンにとってうまくいっているが、彼らは、それが彼らが元々求めた強力で新しい音楽スタイルの創造に通じたと感じなかった」[ 12] 。
直後にジェフ・ベックは、かねてから熱望していた旧ヴァニラ・ファッジ のメンバーとハードロック・バンド「ベック・ボガート & アピス 」結成に向かった。
メンバー
全期
第一期
ロッド・スチュワート (Rod Stewart) - ボーカル (1967年-1969年)
ロニー・ウッド (Ronnie Wood) - ギター、ベース (1967年-1969年)
ジェット・ハリス (Jet Harris) - ベース (1967年)
デイヴ・アンブローズ (Dave Ambrose) - ベース (1967年)
クレム・カッティーニ (Clem Cattini) - ドラムス (1967年)
ヴィヴ・プリンス (Viv Prince) - ドラムス (1967年)
エインズレー・ダンバー (Aynsley Dunbar) - ドラムス (1967年)
ロイ・クック (Roy Cooke) - ドラムス (1967年)
ミック・ウォーラー (Mick Waller) - ドラムス (1967年-1969年)
トニー・ニューマン (Tony Newman) - ドラムス (1969年)
ニッキー・ホプキンス (Nicky Hopkins) - キーボード (1968年-1969年)
第二期
アレックス・リガートウッド (Alex Ligertwood) - ボーカル (1970年-1971年)
ボブ・テンチ (Bobby Tench) - ボーカル、ギター (1971年-1972年)
クライヴ・チャーマン (Clive Chaman) - ベース (1970年-1972年)
コージー・パウエル (Cozy Powell) - ドラムス (1970年-1972年)
マックス・ミドルトン (Max Middleton) - キーボード (1970年-1972年)
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
伝記
ボブ・ブランニング (1986年) Blues: The British Connection , London: Helter Skelter, 2002, ISBN 1-900924-41-2
ボブ・ブランニング The Fleetwood Mac Story: Rumours and Lies - Omnibus Press, 2004, foreword by B.B.King
ディック・ヘクストール=スミス (2004年) The safest place in the world: A personal history of British Rhythm and blues , Clear Books, ISBN 0-7043-2696-5 - First Edition : Blowing The Blues - Fifty Years Playing The British Blues
クリストファー・ヒョート Strange brew: Eric Clapton and the British blues boom, 1965-1970 , foreword by John Mayall ,Jawbone (2007)ISBN 1-906002002
ポール・メイヤーズ Long John Baldry and the Birth of the British Blues , Vancouver 2007 - GreyStone Books
ハリー・シャピロ Alexis Korner : The Biography , Bloomsbury Publishing PLC, London 1997, Discography by Mark Troster
脚注
参照
外部リンク
スタジオアルバム ライヴアルバム コンピレーション サウンドトラック 曲 関連項目