この項目では、アメリカのプロレスラーについて説明しています。財団法人早稲田奉仕園の施設「スコットホール」については「早稲田奉仕園#スコットホール 」をご覧ください。
スコット・ホール (Scott Oliver Hall 、1958年 10月20日 - 2022年 3月14日 )は、アメリカ合衆国 のプロレスラー 。フロリダ州 タンパ 出身。
1990年代 後半に一世を風靡したnWo のオリジナルメンバーであり、WWF ではレイザー・ラモン (Razor Ramon )のリングネーム でも活躍した[3] 。
息子のコーディ・ホール もプロレスラーである。
来歴
キャリア初期
バリー・ウインダム にプロレスラーとしての基礎を学び[2] 、1984年 10月にNWA の基幹団体MACW でデビュー[4] 。スターシップ・コヨーテ (Starship Coyote )を名乗り、スターシップ・イーグル とのタッグチーム 、アメリカン・スターシップ (The American Starship )として活動する[5] 。MACWではイライジャ・アキーム &カリーム・モハメッド のザンブイ・エクスプレス、中西部 のCSW では後にミッドナイト・ロッカーズ を結成するマーティ・ジャネッティ &ショーン・マイケルズ などのチームと対戦[4] [6] 。ミスター・ポーゴ と組んでブルーザー・ブロディ ともハンディキャップ・マッチで対戦した[7] 。
1985年 8月から本名のスコット・ホール (Scott Hall )名義でAWA に参戦し、ベビーフェイス のポジションでカート・ヘニング とタッグチームを結成。1986年 1月18日、ジミー・ガービン &スティーブ・リーガル からAWA世界タッグ王座 を奪取した[8] 。以降、モンゴリアン・ストンパー &ノード・ザ・バーバリアン 、カーネル・デビアーズ &ボリス・ズーコフ 、ロング・ライダーズ(スコット・アーウィン &ビル・アーウィン )などのチームを相手に防衛戦を行い[9] 、5月17日にバディ・ローズ &ダグ・サマーズ に敗れるまで戴冠した[8] 。王座陥落後もAWAの主力選手となり、同年12月28日にはウィスコンシン州 ミルウォーキー にて、ニック・ボックウィンクル が保持していたAWA世界ヘビー級王座 に挑戦している[10] 。
1987年 5月、当時AWAとの招聘ルートを持っていたマサ斎藤 のブッキングで新日本プロレス に初来日を果たし、IWGPリーグ戦 の第5回大会 に出場。リーグ戦では同ブロックのアントニオ猪木 とコンガ・ザ・バーバリアン に敗退するも、坂口征二 と藤原喜明 に引き分け、キラー・ブルックス から勝利を収めた[11] 。以降も新日本の常連外国人として、1990年 まで7回に渡って来日。1988年 11月の来日時にはディック・マードック &ボブ・オートン・ジュニア とのトリオでエリミネーション6人タッグマッチのリーグ戦『'88ジャパン・カップ・シリーズ』に出場[12] 。1990年3月19日には広島県立体育館 にてパニッシャー・ダイス・モーガン と組み、マサ斎藤&橋本真也 が保持していたIWGPタッグ王座 に挑戦した[13] 。
1990年7月7日、カルロス・コロン が主宰するプエルトリコ のWWC のアニバーサリー・イベントに出場。アトキー・マルンバことボツワナ・ビースト から反則勝ちを収めている[14] 。同年8月と11月にはオットー・ワンツ がオーストリア のグラーツ を拠点に主宰していたCWA に "西部の荒くれ者" テキサス・スコット (Texas Scott )を名乗り参戦。ランボー 、トニー・セント・クレアー 、スティーブ・ライト 、デビッド・テイラー などと対戦した[15] 。
1991年 、ホール自身の発案による "世界一セクシーな男" ダイヤモンド・スタッド (The Diamond Studd )として、ヒール のポジションでWCW に登場(リングネームは、ダイヤモンド・ダラス・ペイジ がマネージャー を務めたことに由来)。10月27日の "Halloween Havoc 1991" ではベイダー 、アブドーラ・ザ・ブッチャー 、カクタス・ジャック と組み、スティング &スタイナー・ブラザーズ &エル・ヒガンテ との金網電気椅子デスマッチ(Chamber of Horrors Match)に出場[16] 。1992年 にはポール・E・デンジャラスリー 率いるデンジャラス・アライアンスに加入するが、タイトル戦線に絡むことはできず、同年にWCWを離脱した。
WWF
レイザー・ラモン時代 (1995年)
1992年5月、WWF へ移籍。キューバ からの密入国者で、マイアミ のビーチでドラッグ を密売するプッシャーをギミック とした "バッド・ガイ" レイザー・ラモン ("The Bad Guy" Razor Ramon )へとリングネームを改める。当時WWFに参戦していたリック・フレアー やレックス・ルガー と共闘するなどヒールのトップグループで活躍し、ランディ・サベージ 、ブレット・ハート 、ジム・ドゥガン 、ビッグ・ボスマン といったスター選手から勝利を収め[17] 、1993年 4月4日のレッスルマニアIX では元WWFヘビー級王者 のボブ・バックランド を下している[18] 。
1993年5月17日、RAW にてジョバー であったショーン・ウォルトマン に3カウントを奪われたことをきっかけに、ウォルトマンとの友情アングル が組まれベビーフェイスに転向(ウォルトマンはこの勝利を機に1-2-3キッドと改名)。9月27日には空位となっていたWWF IC王座 の王者決定戦でリック・マーテル を破り、ベルトを奪取した[19] 。
その後はCSWやAWA時代の旧友でもある前IC王者のショーン・マイケルズ と抗争。1994年 3月20日、レッスルマニアX にてマイケルズと繰り広げたラダー・マッチ は、WWE史に残る名勝負として知られている[20] 。以降もIC王座を巡り、マイケルズのボディーガード であるディーゼル を始め、IRS 、ジェフ・ジャレット 、ゴールダスト 、ディーン・ダグラス らと抗争を展開した。
1995年 には、当時WWFと提携していたテネシー州 メンフィス を拠点とするUSWA にも出場し、4月3日にはビル・ダンディー からUSWA統一世界ヘビー級王座を奪取。5月1日にジェリー・ローラー に敗れるまでタイトルを保持した[21] 。また、リング外ではマイケルズ、ディーゼル、1-2-3キッド、ハンター・ハースト・ヘルムスリー らで構成されたグループ、クリック の一員となって舞台裏での影響力を高めた[22] 。
1996年 より契約などに関する不満を公然と口にし、リング外でもトラブルを起こすようにもなり、遂には試合出場を停止される。そして古巣であるWCWからオファーを受けると、契約がまだ残っているにもかかわらず移籍を決めてしまう[3] 。さらにはその1週間後、盟友のディーゼルことケビン・ナッシュ も同様に契約が残っていながら移籍を決意。これに対しWWFはホールおよびナッシュはまだWWFの契約下にあり、WCWとの契約は無効だとの訴えを起こすが、裁判所が判断を回避したために当初の予定からは幾分遅れることにはなったもののWCWへの移籍を果たす。
WCW
WCW移籍後、「レイザー・ラモン」のリングネームはWWFが商標登録 していたため、WCWには本名のスコット・ホールとして1996年 5月27日より参戦[3] 。実際はWWFから引き抜かれたにすぎなかったものの、移籍当初はケビン・ナッシュと共に、ビンス・マクマホン の指示を受けてWCWを潰しにアトランタ にやって来たと称しており、初登場時のWCWマンデー・ナイトロ ではザ・モウラー 対スティーブ・ドール のシングルマッチ中に観客席からいきなり現れおもむろにリングに乱入し「金持ちテッド はどこだ? ナチョ・マン はどこだ? WWFと戦争をおっぱじめたいのか?」との旨のスピーチを行った。これはエリック・ビショフ が日本の『新日本プロレス vs UWFインターナショナル 』の対抗戦をヒントに考え出した[23] 、『WWF vs WCW』という団体間の抗争アングル に基づいたストーリーだった。
しかし、この『WWF vs WCW』はすぐに頓挫。そのため急遽アングルが変更され、ハルク・ホーガン を加えた3人でnWo を結成する。シックス らを加えて一大勢力となり、プロレス界の枠を越えた一大ブームを巻き起こした。
nWo結成後、メンバーが拡大していく中でホールはナッシュとのジ・アウトサイダーズ (The Outsiders )で活動し、10月27日の "Halloween Havoc 1996" においてハーレム・ヒート (スティービー・レイ &ブッカーT )からWCW世界タッグ王座 を奪取[24] 。以降はスタイナー・ブラザーズ (リック・スタイナー &スコット・スタイナー )と抗争を展開した[24] 。
1997年 3月5日、新日本プロレスの大阪ドーム 大会 "Strong Style Evolution in Osaka Dome" に参戦。ナッシュ&蝶野正洋 と組んで武藤敬司 &スタイナー・ブラザーズとの6人タッグマッチに勝利した[25] 。11月23日の "World War III 1997" では3リングバトルロイヤルにて優勝を収め[26] 、WCW世界ヘビー級王座 への挑戦権を獲得。翌年3月15日の "Uncensored 1998" において、当時のWCW世界王者スティング に挑戦した[27] 。この試合では、当時nWoに加担していたダスティ・ローデス がホールのセコンドを務めた[27] 。
1998年 5月、nWoは二派に分裂。ナッシュはnWoウルフパックを結成し、ホールはホーガン率いるnWoハリウッドに加入。7月20日にはザ・ジャイアント をパートナーに、ナッシュ&スティングからWCW世界タッグ王座を奪取した[24] 。1999年 2月1日のナイトロでは、クリス・ベノワ とのWCW US王座 挑戦権争奪マッチに勝利[28] 。2月21日にUS王者のロディ・パイパー を破り、WCWでは初のシングル王座戴冠を果たした[29] 。
その後、負傷により長期欠場となりUS王座を剥奪されるが、復帰後の11月8日、US王座争奪テキサス・トルネード・ラダー・マッチでブレット・ハート、ビル・ゴールドバーグ 、シッド・ビシャス を破り、タイトルを奪還[29] 。同月21日には、空位となっていたWCW世界TV王座 を授与されて二冠王となるが、ベルトをゴミ箱に投げ捨てTV王座を封印[30] 。12月13日にはナッシュとのタッグでゴールドバーグ&ビシャスからWCW世界タッグ王座を奪取し、通算7度目の戴冠を果たすが、2000年 2月、度重なるアルコール依存症 による無断欠場と、暴力事件での逮捕がきっかけとなりWCWから解雇となった。
新日本プロレス
WCW解雇後、2000年11月にECW に参戦。同月11日にはクリックの準メンバーでもあったジャスティン・クレディブル を下した[31] 。
2001年 3月、新日本プロレスに参戦。TEAM 2000 のメンバーとしてG-EGGS 、7月にはBATT と抗争を展開。9月にはG1 CLIMAX の外国人レスラー版といえるG1 WORLDにエントリーしたが、勝ち点4で予選落ちという結果に終わる。このリーグ戦では初戦でドン・フライ との試合が組まれ、異色カードと注目されたものの、トレードマークの爪楊枝をフライの顔に投げつけて挑発した次の瞬間、フライのパンチ1発でレフェリーストップ負けを喫している[32] 。23日には武藤敬司 の保持していた三冠ヘビー級王座 に挑戦した[33] 。
WWF/WWE復帰
2002年 2月17日、ノー・ウェイ・アウト2002 においてハルク・ホーガン&ケビン・ナッシュと共にWWEに復帰し、オリジナルnWoを再結成した[34] 。3月4日のRAW にてスパイク・ダッドリー を相手に復帰戦を行い、レイザーズ・エッジ を決めて復調していることをアピール。7日のスマックダウン ではザ・ロック と対戦するも、nWoとWWEのレスラーが入り乱れての乱闘となりノーコンテストに終わる[35] 。11日のRAWではホーガン&ナッシュと組んで、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン &ロックと3対2のハンディキャップマッチを行い勝利した[36] 。
3月17日のレッスルマニアX8 ではオースチンとシングルマッチで対戦したが、スタナー の2連発を受けて敗退[37] 。同日、ホーガンはロックに敗れてベビーフェイスに戻り、nWoから離脱。代わりにXパック を迎えてホーガンとの抗争を開始するも、5月のイギリス 遠征でのトラブルによってWWFを解雇された[38] 。
インディー団体
WWF解雇後、2002年6月にTNA にスポット参戦。10月30日、ロン・キリングス が保持していたNWA世界ヘビー級王座 に挑戦した[39] 。
2004年 5月15日、ハッスル に来日。ケビン・ナッシュとジ・アウトサイダーズを再結成し、橋本真也&小川直也 と対戦した[40] 。
同年11月よりナッシュと共にTNAと正式に契約。12月5日、"Turning Point 2004" においてナッシュ&ジェフ・ジャレット とキングス・オブ・レスリング (The Kings of Wrestling )なるユニットを結成し、ジェフ・ハーディー &AJスタイルズ &ランディ・サベージ と対戦[41] 。2005年 1月16日の "Final Resolution 2005" では、スペシャル・ゲスト・レフェリーにロディ・パイパーを迎え、ジェフ・ハーディーと対戦した[42] 。
2007年 7月13日、WWCに参戦し、当時WWE に所属していたカリート と対戦。翌14日にはWWCユニバーサル・ヘビー級王者のカリートおよびアポロ(ジャーマン・フィゲロア)とのトリプルスレットマッチ による王座戦を征し、ベルトを奪取している[43] 。9月には再びWWCに参戦、14日にエディ・コロン 、15日にはオーランド・コロン と、コロン・ファミリーを相手にユニバーサル・ヘビー級王座の防衛戦を行った[44] 。
10月6日、インセイン・クラウン・ポッシー が主宰するJCW に参戦。WWFの往年のスターであるジェイク・ロバーツ を破る[45] 。7日にはメキシコ のAAA にサプライズ参戦し、コパ・アントニオ・ペーニャ2007に出場した[46] 。
2008年 8月9日、JCWの "Bloodymania II" に参戦し、ナッシュとのジ・アウトサイダーズを久々に結成。アイアン・セインツ(サル・トーマセリ&ヴィトー・トーマセリ)から勝利を収めた。
2009年 3月21日、ウィスコンシン州 を拠点とするインディー団体GLCW(Great Lakes Championship Wrestling)のイベントにおいて、ナッシュと組んでジ・アウトローズ (BGジェイムス &キップ・ジェイムス )と対戦。nWo対D-ジェネレーションX が実現したが、試合途中にナッシュに裏切られ敗退した[47] 。
2014年、WWE殿堂 入り
2010年 1月1日、TNAに復帰。シックス・パック &ナッシュと共に、TNA版nWoと言えるザ・バンド (the BAND )を結成。5月4日、ヘルナンデス と喧嘩別れして孤立していたTNA世界タッグ王者のマット・モーガン に挑戦。勝利してベルトを奪取するが、6月にTNAより解雇となった。
一時は長年にわたる多量の飲酒、コカイン や鎮痛剤 などの過剰摂取の影響で、日によっては一人で歩くことすらままならなくなっていたが徐々に回復。2011年 7月17日には地元フロリダのインディー団体アイ・ビリーブ・イン・レスリング(I Believe in Wrestling)に、息子のコーディ・ホール と共に登場。女子レスラーのサンタナ・ギャレット のセコンドとして親子共演が実現。
以降、コーディのマネージャーとして活動。2013年 9月21日、NEW(Northeast Wrestling)にて盟友のナッシュとコーディがタッグを組んでアウトキャスト・キラーズ(ディアブロ・サンティアゴ&オマーン・トゥーガ)に勝利した姿を見届けている。また、同年にはダイヤモンド・ダラス・ペイジ が開いているヨーガ 教室の効果で薬物中毒からも順調に立ち直っていた。
WWE
2014年 4月5日、レイザー・ラモンとしてWWE殿堂 に迎えられた(インダクターはケビン・ナッシュ)。セレモニーには爪楊枝を加えて登場し、お馴染みの "Hey Yo" を挨拶代わりにプロレスへの愛情を語った。スピーチが終わると、ナッシュに加えてトリプルH 、ショーン・マイケルズ、ショーン・ウォルトマンがステージに現れ、一夜限りの「クリック」の復活となった[3] 。また8月11日のRAWでは、ナッシュと共にホーガンの誕生日を祝いにリングに登場し、一夜限りのnWo再結成となった。
2019年 12月、nWoとして2020年度のWWE殿堂に迎えられた[48] 。
2022年 3月14日 、ジョージア州 マリエッタ のウェルスター・ケネストン病院で死去[49] [50] 。63歳没。死去の1週間前から股関節骨折で入院手術を受けた後、3度の心臓発作を起こしており、生命維持の措置が取られていた[49] [50] 。死去のニュースは翌3月15日にWWE から発表された[49] 。
追記
得意技
この節は検証可能 な参考文献や出典 が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加 して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方 ) 出典検索? : "スコット・ホール" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2020年5月 )
フィニッシュ・ホールド
レイザーズ・エッジ / アウトサイダーズ・エッジ [52]
ハイジャック・バックブリーカー の体勢で頭の上まで相手を担ぎ上げ、前方に投げ捨てるタイプのパワーボム。
打撃技
エルボー・バット
エルボー・スタンプ
バックハンド・チョップ
チョップ・スマッシュ
連続張り手
相手をヘッドロックやリストロックに捉えた状態から、相手の顔や頭を連続で叩く挑発的なムーヴ。
ビッグブーツ
投げ技
スープレックス
スーパープレックス
ベリー・トゥー・バック・スープレックス
抱え上げ式バックドロップ
ジャーマンスープレックス
フォール・アウェイ・スラム
ブロックバスター
チョークスラム
関節技
アブドミナル・ストレッチ
入場曲
Born in the U.S.A.
Bad Boy
Rockhouse
Wolfpac
Ready or Not
Marvelous Me
獲得タイトル
WWF IC王者時代(1994年)
TNA
WWF / WWE
WCW
AWA
USWA
WWC
WWCカリビアン・ヘビー王座 : 1回[53]
WWCユニバーサル・ヘビー王座 : 1回[43]
DDTプロレスリング
脚注
出典
外部リンク