ゼムン (セルビア語 :Земун / Zemun 、セルビア・クロアチア語発音: [zɛ̂,mun] )は、セルビアの歴史的な街であり、また現在は同国の首都・ベオグラード を構成する17の区(オプシュティナ )の1つとなっている。歴史上、ゼムンはベオグラードとは別の街として発展してきたが、20世紀後半にノヴィ・ベオグラード の開発によって両者は結ばれて1つの都市となった。
呼称
古代、この地にあったケルト人 やローマ人 の居住地は「タウルヌム(Taurunum)」と呼ばれている。フランク人 による十字軍 の記録の中では、この街は「マレヴィラ(Mallevila)」として記録されており、これは9世紀以降にみられる呼称である。同じ時代にスラヴ語 による名称「ゼムン」が初めて文献に登場する。「ゼムン」の名は、スラヴ語で大地を意味するゼムリャ(zemlja)に由来すると考えられており、その後の各言語での呼称、すなわち現代のセルビア語の「ゼムン」や、ハンガリー語 の「ジモニ(Zimony)」、ドイツ語の「ゼムリン(Semlin)」はすべてこれに由来するものである。
歴史
ローマ時代の石棺
ゼムンで見つかった、ギリシア神話のマイナス の石像
こんにちのゼムンには新石器時代 から人の居住があった。バデン文化 (Baden culture )の墓地や土器(器や壺など)がゼムンで見つかっている[ 1] 。また付近のアスタルトナ・バザ(Asfaltna Baza)からはボスト文化 (Bosut culture )の墓地が見つかっている[ 2] 。タウルヌムで初のケルト人の居住は、スコルディスキ がトラキアおよびダキアに属するドナウ川沿いの一部地域を支配下においた紀元前3世紀のことであった。ローマ人 は紀元前1世紀にこの地を支配下に収め、タウルヌムは西暦紀元15年にパンノニア 属州の一部となった。タウルヌムには要塞があり[ 3] 、シンギディヌム (ベオグラード )を訪れるローマ人の係留地として利用された[ 4] 。ローマの詩人オウィディウス のペンがタウルヌムで見つかったと言われている[ 5] 。民族移動時代 を経て、この地域はローマ帝国 、ゲピド王国 (Kingdom of the Gepids )、ブルガリア帝国 など、多くの国家・民族による支配を経験することとなる。12世紀 にはハンガリー王国 の支配下となり、15世紀 にセルビア人のデスポト(Despot )・ジュラジ・ブランコヴィッチ (Đurađ Branković )の所領となる。1459年 に一帯のセルビア人諸侯国がオスマン帝国 に征服されると、ゼムンは軍の駐屯地として重要な拠点となる。ゼムンは1521年 7月12日にオスマン帝国に征服され、ブディン州 (ブディン・パシャルク、Budin )、スレム ・サンジャク の一部となった。
1608年、オスマン帝国支配下のゼムン
オスマン帝国 が1716年 8月5日にペーターヴァルダインの戦い で敗れた後、ゼムンを含むスレム 地方南東部は、1717年 にハプスブルク君主国 (オーストリア大公国 )に征服された。パッサロヴィッツ条約 によってこの地方はシェーンボルン家(Schönborn )の所領となった。ドナウ川 とサヴァ川 の合流地点に位置するこの場所は、ハプスブルク家 のオーストリア大公国とオスマン帝国の戦いにおいて戦略的重要拠点であった。1739年 のベオグラード条約 (Treaty of Belgrade )によって最終的に国境が確定されオーストリア領となった。1746年 には軍政国境地帯 が設置され、1749年 にゼムンは軍事地区に指定される。1754年 の時点で、ゼムンには1900人の正教徒 、600人のカトリック教徒 、76人のユダヤ人 、100人のロマ が居住していた。1777年 にはゼムンには1130世帯、6800人が居住し、うち半数はセルビア人 、残りの半数はカトリック教徒やユダヤ人、アルメニア人 、ムスリム などであった。カトリックの住民の中で最大の勢力はドイツ人 であった。この頃よりゼムンにはドイツ人 やハンガリー人 の居住者が増え始める。
19世紀のゼムン
ゼムンは交通の要衝、そして国境の街として繁栄した。1816年 には多数のドイツ人 およびセルビア人 の移入に伴い、街が大幅に拡張され、新たにフランツェンシュタール(Franzenstal )およびゴルニャ・ヴァロシュ(Gornja Varoš )地区が誕生した。19世紀のゼムンの人口は1310世帯、7089人であった。1813年 には、オスマン帝国に対する反乱を率いたカラジョルジェ・ペトロヴィッチ (Karađorđe Petrović )が失脚し、多くのセルビア人とともにゼムンへと逃げこむという、セルビアの歴史上の重要な出来事の現場となった。
1848年革命 の時代、ゼムンはオーストリア帝国 の内部に成立したセルビア・ヴォイヴォディナ の事実上の首都となったが、1849年にはこの地は再び軍政国境地帯 へと戻された。1882年に軍政国境地帯が廃止されると、ゼムンを含むスレム 地方一帯はハンガリー王国 、後にオーストリア=ハンガリー帝国 の自治領・クロアチア・スラヴォニア のセレーム県 (Syrmia County )の一部となった。1883年には初めて鉄道で西方の諸国と結ばれ、1884年にはサヴァ川 を渡る鉄道橋も築かれた。
1914年の第一次世界大戦 の時代、ゼムンはセルビア王国 とオーストリア=ハンガリー帝国との衝突の最前線となったが、最終的に1918年11月5日にセルビアがこの地を手に入れることとなった。終戦後、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (後にユーゴスラビア王国 )が成立し、ゼムンはその一分となった。戦間期 には街の有力者らは急進党 や民主党 、クロアチア農民党 (Croatian Peasant Party )、そしてドイツ人 が支持する社会主義の諸政党などの陣営に分かれて争った。
1934年にゼムンとベオグラード を結ぶバス が運行を開始し、ゼムンではセルビア人の人口が増加した。1927年に空軍基地が設置され、1941年4月にユーゴスラビアが枢軸国 の侵略を受けるとゼムンはその重要な標的となった。ユーゴスラビア王国が降伏すると、ゼムンを含むスレム地方一帯はクロアチア独立国 の一部となった。1944年にパルティザン によってゼムンは解放され、それ以降セルビア の一部となった。
スロボダン・ミロシェヴィッチ の時代、ゼムンは悪名高い強力な犯罪組織「ゼムン・クラン (Zemun Clan )」の拠点となった。ゼムン・クランの構成員には、後にゾラン・ジンジッチ の暗殺で有罪となった者が多数含まれる。
地理
ゼムンからみたスタリ・グラード
ゼムンはもともと、ドナウ川右岸に位置する3つの丘、ガルドシュ (Gardoš )、チュコヴァツ (Ćukovac )、カルヴァリヤ (Kalvarija )の上に築かれ、発展してきた。この場所でドナウ川は大きく広がり、その先にサヴァ川 の河口、中洲である大戦争島 (Great War Island )がある。ゼムンの中核となるのはドニ・グラード(Donji Grad )、ガルドシュ(Gardoš )、チュコヴァツ(Ćukovac )、ゴルニ・グラード(Gornji Grad )の各地区である。その南でノヴィ・ベオグラード区 に面しており、同区のトシン・ブナル (Tošin Bunar )地区へと市街地が続いている。西にはアルティナ(Altina )およびプラヴィ・ホリゾンティ(Plavi Horizonti )、北西にはガレニカ (Galenika )、ゼムン・ポリェ(Zemun Polje )、バタイニツァ (Batajnica )といった地区がある。
ゼムンは地理的にはスレム (スリイェム)東部に属し、またベオグラード 市域の中西部に位置している。ゼムンの中心市街地は、ベオグラード市街地全体のうち北端および西端に位置している。ゼムンより西にはヴォイヴォディナ自治州 の州境があり、同自治州に属するノヴァ・パゾヴァ (Nova Pazova )と接している。南に隣接するスルチン 、南東のノヴィ・ベオグラード 、ドナウ川の対岸に位置するパリルラ (Palilula )およびスタリ・グラード はいずれも、ゼムン同様にベオグラード を構成する自治体である。
ゼムンの北を流れるドナウ川の沿岸部は大部分がぬかるみとなっており、河岸から人が居住する丘陵地までは距離がある。ゼムンの中心市街地がドナウ川右岸にある、高さ100メートルほどの丘陵地の上に築かれている。これらのゼムンの丘陵地は、スレム黄土台地の末端に位置するゼムン黄土台地の一部であり、三日月型に広がるベジャニスカ・コサ (Bežanijska Kosa )黄土丘陵へと続いている。黄土層は最大で40メートルの厚みがある。ドナウ川の中洲である2つの無人島、大戦争島 および小戦争島 (Little War Island )もゼムン区に属する。ゼムン区の総面積は153平方キロメートルに達する。
住民
ゼムンはベオグラードでもっとも人口密度の高い地域のひとつであり、第二次世界大戦 以降に人口は大幅に増加した。公式の国勢調査によるゼムンの人口は以下の通りである:
年
市街地
自治体全域
1921
18,528
1931
28,083
1948
42,230
1953
44,110
51,129
1961
72,956
74,851
1971
95,142
111,967
1981
116,826
138,702
1991
141,695
2002
145,751
152,950
2011
151,811
166,292
2004年以前の自治体の人口には、ゼムンから分離される以前のスルチン の人口が含まれる。
民族別
2002年の国勢調査による住民の民族別の内訳は以下の通り:
行政
ゼムンの区旗
1929年10月3日、アレクサンダル1世 の統治下でゼムン自治体はベオグラード市を構成する自治体とされた。1934年4月1日にゼムン自治体は廃止され、単一のベオグラード自治体が設置された。1941年から1944年までゼムンはナチス・ドイツ の占領下に置かれ、形式上はドイツの傀儡国家であるクロアチア独立国 の一部とされたが、実際にはドイツ軍が支配した。解放後の1945年にベオグラードは区(ラヨン )に分けられたが、ゼムンはこれとは別にゼムン市(grad)とゼムン地区(srez)に分けられた。1955年にゼムン市およびゼムン地区の大部分は再びベオグラードの一部となった。1950年代から1960年代にかけて、ボリェヴツィ (Boljevci )およびドバノヴツィ (Dobanovci )の両自治体がスルチン 自治体へ、バタイニツァ (Batajnica )自治体はゼムン自治体へと合併された。1965年にスルチン自治体がゼムン自治体へと合併され、面積438平方キロメートルに達する巨大なゼムン自治体が誕生した。しかし、2003年11月3日にベオグラード市議会はスルチン自治体の再設を決定し、2004年11月3日にスルチン自治体はゼムン自治体から行政的に分離された。2000年代初期にはバタイニツァをゼムンから分離する動きも起こった。
ゼムンとベオグラードの住民の間には長年にわたる対抗意識があり、とくに若年層で顕著である。一般的にゼムンの住民は自らの街をベオグラードからは独立し、より発達した文化的な街と考えており、自身をベオグラードとは異なるゼムンの住民であると考えているが、これに反してベオグラードの住民はゼムンをベオグラードの郊外地区と考えている。
経済・交通
ゼムンはベオグラード市の中でもっとも発達した自治体のひとつであり、多岐にわたる産業を持っている。域内の2箇所で工業団地の開発が進められており、それぞれ幹線道路やバタイニツァ 、ノヴィ・サド と結ばれる道路に面している。製造業では、農業機械・設備のズマイ(Zmaj )、精密・工学機器、オートメーション設備のテレオプティク(Teleoptik )、時計のINSA、バスやその他大型輸送機器のイカルブル(Ikarbus )、製薬のガレニカ(Galenika )、プラスチックのグルメチュ(Grmeč )、くつのオブチャ・ベオグラード(Obuća Beograd )、せんいのTIZおよびゼクストラ(Zekstra )、リサイクルのINOSマテリ(INOS metali )およびINOSパピル(INOS papir )、飲料のコカ・コーラおよびナヴィプ(Navip )、陶磁器のロマ(Roma )、建設資材のDIAおよびアニツォム(Anicom )や、電子機器、皮革製品の製造拠点がある。また、これらの工業団地には多くの物流倉庫もある。
セルビアの重要な道路が複数、ゼムンを通過している。ベオグラード=ザグレブ道路や、ノヴィ・サドとベオグラードとを結ぶ道路は旧道・バタイニチュキ・ドルム(Batajnički drum )も新道もゼムンを通過する。また、ベオグラードを迂回してバタイニツァとブバニ・ポトク (Bubanj Potok )を結ぶ建造中のベオグラード・バイパス(Belgrade bypass )の始点もゼムンの域内に含まれる。ゼムンの本土とドナウ川の中洲・大戦争島 とを結ぶ舟橋が夏の間設置されるのを除けば、ゼムンにはドナウ川を渡る橋は存在しない。ゼムンのガレニカ(Galenika )と対岸のボルチャ(Borča )とを橋で結ぶ計画がある。
2011年 4月に、ベオグラード首都圏の都市鉄道「BG Voz 」のバタイニツァ - ノヴィ・ベオグラード間が延伸開業し、ベオグラード中心部を経てパンチェヴォ橋駅までBG Vozの電車で直通利用が可能となった。
バタイニツァ地区の近くに位置するバタイニツァ空軍基地 (Batajnica Airbase )へは市民の出入りは制限されている。
文化・教育
ガルドシュの「フニャディ・ヤーノシュの塔」
ゼムン(手前)とベオグラード(奥)
ベオグラード大学 の農学部を始め、多数の高等教育機関(内政、機械・工学、薬学など)や研究機関(農林学、鉱業、トウモロコシ、畜産、核エネルギー応用、物理学など)の施設がゼムンにある。また、郷土博物館やマドレニアヌム(Madlenianum)オペラ劇場がある。
ベオグラードの主要な医療機関のうち2つ、KBSゼムン(KBC Zemun )およびKBCベジャニスカ・コサ(KBC Bežanijska Kosa )、ならびにベオグラードで最大の老人養護施設ベジャニスカ・コサ(Bežanijska Kosa )がゼムンにある。
宗教施設には、ガルドシュ墓地聖堂(Gardoš)やハリシュ礼拝堂(Hariš)、聖ニコライ聖堂、聖大天使ガヴリイル聖堂、2つのローマ・カトリックの聖堂などがある。
ゼムンの市街地には多くの広場がありそれぞれ、マギストラツキ(Magistratski)、セニスキ(Senjski)、ヴェリキ(Veliki)、ブランカ・ラディチェヴィツァ(Branka Radičevića)、カラジョルジェヴ(Karađorđev)、マサリコヴ(Masarikov)などと名付けられている。青空市場が行われる広場もある。ドナウ川沿いの河岸部は1キロメートルにわたる遊歩道があり、はしけのカフェやアミューズメント・パーク、かつてベオグラード最大のホテルであったホテル・ユーゴスラヴィヤ (Hotel Jugoslavija )など、多くの娯楽施設が軒を連ねる。
12世紀のハンガリー王国とビザンティン帝国との戦争の頃の街の残滓が残されており、ゼムンスキ・グラード(Zemunski Grad)と呼ばれる。現在も見られる構造物としては、塔と防壁から成る中世の要塞が見られる。これは、15世紀にオスマン帝国 のスレイマン1世 の軍に対して、ハンガリー王国軍や、クロアチア人マルコ・スコブリッチ(Marko Skoblić )率いるクロアチア人・セルビア人混成の500人の水兵シャイカシ (šajkaši )が戦った時代のものである。この戦いでは、強固な抵抗にもかかわらず、7月12日にゼムンはオスマン帝国に制圧され[ 6] 、ベオグラードもその直後に制圧された(Пад Београда )。この場所には後にクラ・シビニャニン・ヤンカ(Kula Sibinjanin Janka 、「フニャディ・ヤーノシュ の塔」)が立てられた。この塔は、ハンガリー人のパンノニア平原 への定住1000年を記念して、1896年8月20日に完成した。塔はローマの様式を元に、複数の要素を織りまぜたものである。塔は数十年にわたって消防士らが利用していた。塔の名前の由来となったフニャディ・ヤーノシュは、この塔が建つ4世紀半前に、ゼムンの要塞で死去した。
地元の住民は長年にわたって、細く自動車の通行に適さない石畳の路地などを含む、街の古い外観を保つ努力を続けている。
ゼムンには公園は少なく、最大である市民公園(Gradski park )は1880年に開設されたもので、2008年に改良計画が設定された[ 7] 。この他、カルヴァリヤ地区にはイェロヴァツ公園(Jelovac)があり、またマジュラニッチ広場(Mažuranić )の小さな公園は2007年11月に改修された[ 8] 。
スポーツ
ゼムンにはFKゼムン やFKミルティナツ・ゼムン (FK Milutinac Zemun )、BSKバタイニツァ (BSK Batajnica )のホーム・グラウンドをはじめ、多数のスポーツ競技場がある。ベオグラードの主要な屋内スポーツ施設ハラ・ピンキ (Pinki )もゼムンにある。
過去にはシュパルタ・ゼムン(Šparta Zemun )[ 9] およびZAŠK (ZAŠK )というサッカー・クラブもあったが、1939年にSKゼムンへと統合された
1941年から1944年にかけてのナチス・ドイツ占領時代、傀儡政権のクロアチア独立国 の領土とされたゼムンには、HŠKグラジャンスキ、(HŠK Građanski )、HŠKゼムン(HŠK Zemun )、HŠKドゥナヴ・ゼムン(HŠK Dunav )、HŠKハイドゥク・ゼムン(HŠK Hajduk )という4つのクロアチア人のサッカー・クラブと、DSVヴィクトリア・ゼムン(DSV Victoria )、SKリート(SK Liet )という2つのドイツ人のサッカー・クラブがあった。
FKゼムンはかつてガレニカという名前だった頃、ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ (ユーゴスラビア1部リーグ)に属した経験がある。この他にFKテレオプティク (Teleoptik )、FKズマイ (Zmaj )、FKミルティナツ・ゼムン (Milutinac )といったサッカー・クラブもある。
姉妹都市
ゼムンは以下の都市と姉妹都市 提携している[ 10] :
参考文献
Mala Enciklopedija Prosveta , Third edition (1985); Prosveta; ISBN 86-07-00001-2
Jovan Đ. Marković (1990): Enciklopedijski geografski leksikon Jugoslavije ; Svjetlost-Sarajevo; ISBN 86-01-02651-6
脚注
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
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