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バターン (空母)

バターン
基本情報
建造所 ニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 航空母艦軽空母
級名 インディペンデンス級
艦歴
起工 1942年8月31日
進水 1943年8月1日
就役 1) 1943年11月17日
2) 1950年5月13日
退役 1) 1947年2月11日
2) 1954年4月9日
除籍 1959年9月1日
その後 1961年5月、スクラップとして売却
要目
満載排水量 16,520 トン
軽荷排水量 11,300 トン
全長 622.5フィート (189.7 m)
水線長 600フィート (180 m)
最大幅 109フィート2インチ (33.27 m)
水線幅 71フィート (22 m)
吃水 26フィート (7.9 m)
主缶 B&Wボイラー×4基
主機 GE蒸気タービン×4基
出力 100,000馬力 (75,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 32ノット (59 km/h)
航続距離 13,000海里 (24,000 km)/15ノット
乗員 士官156名、下士官兵1,372名
兵装
装甲
  • 舷側:1.5-5 インチ (38-127 mm)
  • 主甲板:3 インチ (76 mm)
  • 艦橋:0.38 インチ (9.65 mm)
搭載機 45 機
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バターン (USS Bataan, CVL-29) は、アメリカ海軍航空母艦インディペンデンス級の8番艦。艦名は太平洋戦争初期にフィリピンで行われたバターンの戦い (Battle of Bataanに因む。

艦歴

「バターン」はニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所軽巡洋艦「バッファロー (USS Buffalo, CL-99) 」として起工する。1942年6月2日に CV-29 に艦種変更および「バターン」へ艦名変更する。1943年7月15日に CVL-29 へ再変更、1943年8月1日にジョージ・D・マレー少将の夫人によって命名・進水し、1943年11月17日にV. H. シェーファー艦長の指揮下で就役した。整調航海の後に太平洋艦隊に配属された。

1944年 - 1945年

日本軍との初期の交戦で、「バターン」の艦載機は1944年4月21日から24日までホーランディアニューギニアへの攻撃を行った。その後、トラック島サタワン環礁ポナペへの攻撃(4月29日 - 5月1日)、サイパンマリアナ諸島への攻撃(6月11日)、第一次小笠原諸島攻撃(6月15日、16日)、マリアナ沖海戦(6月19日、20日)、第二次小笠原諸島攻撃(6月24日)に参加。

その後、「バターン」は修理のために本国へ帰還。修理の完了後、第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)に加わり、沖縄攻略支援(1945年3月17日 - 5月30日)に従事する。この間に「バターン」の艦載機は4月7日に戦艦大和」攻撃に参加した(坊ノ岬沖海戦)。4月18日には北緯26度42分 東経130度38分 / 北緯26.700度 東経130.633度 / 26.700; 130.633の水域で潜水艦を攻撃して撃沈を報じ、この潜水艦は「伊56」と判断されたが、「伊56」はおそらく4月18日より前に駆逐艦「ハドソン英語版 (USS Hudson, DD-475) 」に撃沈された[1][注釈 1]

「バターン」はフィリピンに後退し、第3艦隊ウィリアム・ハルゼー大将)に合流して日本本土攻撃に従事する(7月10日 - 8月15日)。「バターン」はジェラルド・F・ボーガン英語版少将率いる第38.3任務群に加わる。同部隊は「バターン」の他、空母「エセックス (USS Essex, CV-9) 」「タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV-14) 」「ランドルフ (USS Randolph, CV-15) 」および「モンテレー (USS Monterey, CVL-26) 」で構成された。7月14日と15日には函館および青函連絡船を攻撃したが[2]、天候情報収集に飛び立った艦載機2機が行方不明となった[3]

戦後

「バターン」は本国に帰還し、1945年10月17日にニューヨークに到着。その後マジック・カーペット作戦に従事し、1946年1月10日にフィラデルフィアに到着。不活性化が行われ、1947年2月11日に予備役となる。

「バターン」は1950年5月13日にフィラデルフィアで再就役した。1950年6月に朝鮮戦争が始まり、7月にサンディエゴに到着。空軍の物資と人員を搭載すると東京湾に向けて11月16日出港する。12月15日に韓国水域に到着し、1951年6月まで艦載機による地上支援攻撃を行った。

「バターン」は1951年6月2日に西海岸へ向けて出発し、サンディエゴで短期間の停泊の後7月9日にオーバーホールのためワシントン州ブレマートンに向けて出港。11月20日にサンディエゴへ戻り、1952年1月27日に横須賀へ向かい、続いて沖縄の中城湾に向かった。「バターン」は沖縄沖での訓練を4月29日まで続け、朝鮮半島へ展開した。1952年の夏を通して日本と韓国の間で作戦従事し、8月11日にサンディエゴに向かう。10月27日に再び極東に展開し、1953年5月10日まで作戦活動を行った後、サンディエゴに帰還した。

「バターン」は7月31日までオーバーホールと訓練を行いながらサンディエゴに留まる。その後、真珠湾から神戸横須賀に向かい、1953年8月26日に不活性化のため帰国。1954年4月9日にサンフランシスコで予備役となり、1959年9月に除籍、1961年5月にスクラップとして売却された。

「バターン」は第二次世界大戦での戦功により6つの、朝鮮戦争での戦功により7つの従軍星章を受章した。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 小灘・片岡 2006, pp. 202, 204–205.
  2. ^ 石井 1988, pp. 425, 427.
  3. ^ 石井 1988, p. 427.

参考文献

  • 石井勉『アメリカ海軍機動部隊 英和対訳対日戦闘報告/1945』成山堂書店、1988年。ISBN 4-425-30121-8 
  • 小灘利春、片岡紀明『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』海人社、2006年。ISBN 4-7698-1320-1 

外部リンク

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