バート・エントバッハ (ドイツ語: Bad Endbach) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州マールブルク=ビーデンコプフ郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。この町はディレンブルクの東 15 km、マールブルクの西 20 km のヘッセン・ヒンターラントと呼ばれる地方に位置する。クナイプ式水浴で知られるこの温泉町はラーン=ディル=ベルクラント自然公園のグラーデンバッハ山地中央に位置する。この地域は、森に覆われた丘陵地で、西の緩やかに波打つボッテンホルン高地、東のザルツベーデ川上流に向かって開けた谷が特徴である。ザルツベーデ川の谷はエントバッヒャー・プラッテを含むツォルブーヒェの山並みを越えて南に向かう。
町域北部の一部はボッテンホルン高地(海抜 500 m)の南斜面にあたる。この高地は地質学上、かつてははるかに高い孤立峰だった第三紀のアンゲルブルク山塊が地質学的な時代の進行とともに、最大海抜 609 m の現在の状態の高地に削り均されたものである。ハルテンロートやエントバッハといった中心的集落が位置するザルツボーデ川の上流南側はヘーエンツークと呼ばれる歴史的なツォルブーヒェの交差点につながっている。南の町域沿いのピークが約 500 m までの山並みの中にギュンターロート地区が位置する。
ボッテンホルン高地は多くの川の水源地であり、分水界となっている。ここには数多くの小川が湧出するほか、やや大きな川も湧出している。西から時計回りに列記する: シェルデ川、ガンスバッハ川、ペルフ川、ダウトフェ川、アルナ川、ザルツベーデ川、ジークバッハ川。これらは山頂や谷とともに、このなだらかな山並みをいくつかの居住空間に分けている。町内のどこであろうと自然は集落のすぐ近くにあり、いくつかの居住地を取り囲んでいる。町域南東部のヴォンメルスハウゼン=ヒュッテとヴァイデンハウゼンとの間にあるヒメーリヒ山 (357 m) は、ザルツベーデの谷の真ん中に閂のように横たわっている。ザルツベーデ川はシュリーアバッハ地区に湧出し、ハルテンロート、エントバッハ地区およびヒュッテ集落を流れる。
各地区の高度
町域内は高度差が大きく、280 m から 564 m にまで分布する。ヒュルスホーフは 495 m、ボッテンホルンは 485 m、デルンバッハは 470 m である(この 3 地区はボッテンホルン高地)。ギュンテロート 410 m(ツォルブーヒェ丘陵)、シュリアーバッハは 370 m、ヴォンメルスハウゼンは 350 m、ハルテンロートは 335 m、エントバッハ 300 m、ヒュッテは 285 m である。
山
町内にある高い山は、西から時計回りに、ヒルシュホール 502.4 m、シュタイガー 542.8 m、ヴュルゲロー 563.9 m(町域内の最高峰)、シンデベルク 553.2 m、フライエ=ベルク 528.1 m、エーバースベルク 507.8 m である。ザルツベーデの南ではエントバッヒャー・プラッテ 467.1 m、その西の無名のピーク 487.7 m、メル=ベルク 472.1 m、キッセル=ベルク 439.1 m、シェーンシャイト 490.2 m、その北東に 250 m 離れた位置にある無名のピーク 498.0 m がある。
鉱脈と鉱業
この地方、ならびに町域の鉱業は長い伝統を有しており、古代にまで遡ることができる。ケルト人やゲルマン人はこの地方のドレライトの隙間から露出した赤鉄鉱(鉄を 70 % 以上含む)を、武器の製造に利用していた。鉱業は中世の間中を通してごく近年まで行われていた。ここでは沼鉄鉱を加工する製鉄業者 (Waldschmiede) がヴォンメルスハウゼンのヒュッテ集落に製鉄所を造った。この製鉄所が稼働したのは16世紀の初めから後半までの短い期間だけであった。1499年にこの場所は "Schyluckemoller uss der moelen uff der schmytten" と名付けられていた。この鍛冶屋の水車(ヒュットナー・ミューレ)はヴォンメルスハウゼンの製鉄所の先駆けとなった。その原石はヴォンメルスハウゼン、ボッテンホルン、デルンバッハからもたらされた。この製鉄所が閉鎖されると、たとえば1660年にヴォンメルスハウゼンの住民は、製鉄業を維持するために鉄鉱石をロートハイムのビーバー製鉄所に運ばなければならなかった[2]。ボッテンホルンの鉱山は、1668年から1677年までビーデンコプフ近郊のルートヴィヒスヒュッテに多くの鉄鉱石が運ばれた。この時代の記録は、どの地区からどれほどの鉄鉱石がルートヴィヒスヒュッテに安価な値段で運ばれたかを記録している: ボッテンホルン 126 マース、ギュンテロート 102 マース、エントバッハ 100 マース、ハルテンロート 91 マース、シュリーアバッハ 45 マース、ヴォンメルスハウゼン 85 マース。鉄鉱石の輸送には牛車で1日以上かかった。
2006年9月17日の晩、バート・エントバッハに豪雨が降った。わずか数時間に 100 mm を超える雨が降り、ザルツベーデ川とエンデバッハ川の水位が堤防を越えた。堤防近くの家では数分のうちに地下倉庫に水が充満した。この豪雨は町の歴史上おそらく最も甚大な被害をもたらした天災であった。バート・エントバッハのクアパーク周辺の被害が最も大きかった。水はヘルボルナー通り下の排水溝に入るところで堰き止められた。数分でその水位は 1.6 m にまで上昇した。大量の水はクアハウスや民家の1階の窓の安全ガラスを破壊し、文書館やレストランを壊滅状態にした。
バート・エントバッハの先史時代は、人の活動を示す古い痕跡から推測されている。現在分かっている、ザルツベーデ川の谷における文明の萌芽は石器時代にまで遡る。ハルテンロート地区では、1920年以降、独特の加工が施された新石器時代の燧石が見つかっている。これは、もしかすると武器(戦棍、手斧、石刀、槍の穂先)や農耕用具として使われていたものかもしれない。この地区の別の場所でも狩りや農耕の道具が見つかっており、なかには 2 kg の重さがある犂として使われたと推測される道具もある。
ヴォンメルスハウゼン地区では、Äwwelt の農園から新石器時代の約 9 cm の長さの台形の斧が発見された。また、Gewenn での掘削工事では、戦斧の一種であるラブリュスの半分が発掘された[7]。この紀元前3世紀初め(漏斗状ビーカー文化、墳丘墓、巨石墓)のラブリュスは溝で装飾された戦斧の最も南の出土品であり、ヘッセン唯一の出土例である。エントバッハ地区では、1952年にハルテンロートへ向かう通り沿いでラ・テーヌ文化時代の器が収められた穴が掘り出された。ギュンテロートでの水道施設工事のための掘削作業によって新石器時代(紀元前 5300年から 3000年)のものと思われるヒスイ輝石の戦斧が発見された。この戦斧は、この地域では極めて珍しいものであり、当時は権力と霊性のシンボルであった。この素材はヨーロッパでは2箇所でしか産出しない。何百 km も離れた西アルプスのモンテ・ヴィーゾとモンテ・ベイグワである。
遠距離交通路や通過交通から隔絶された現在のこの町の交通状況は、昔のそれとは全く異なっている。中世初期から後期まで、この地域を重要な交易路が通っていた。これらの街道は、おおむね集落から離れた分水界となっている地盤の硬い、乾燥した丘の上の尾根やそれに並行した斜面を通っていた。そのルートは固定されておらず、道がなくなるとそのすぐ隣から数百 m 程度離れた場所に新たな道ができた。
谷を通るそれほど重要でない枝道にオーバーゲリヒツヴェクがある。この街道はマールブルクとヘルボルン/ディレンブルク方面とを結ぶ、通商・伝達路であった。この街道は、現在の州道 L3050号線が建設された1865年頃まで、いくつかの集落を通る連絡路として使われていた。オーバーゲリヒツヴェクのルートはグラーデンバッハ/ブランケンシュタイン城から Schloog vier de Lache 付近のインナーヘーゲの関所を通り、ハルテンロートを経由してアウサーヘーゲの関所で二手に分岐する。一方はヘルボルン方面、もう一方はディレンブルクへ至る。方伯の城であるブランケンシュタイン城、デルンバッハ城、ヴァレンフェルス城の城代は、14世紀にヘッセン方伯から街道を保護するよう文書で命じられた。
モルンスハウゼン・アン・デア・ザルツベーデ(グラーデンバッハ)出身のヨハネス・ベッカーは1890年にザルツベーデ谷のマッペスミューレの北西で 150 m 深さのボーリングを行い、数年後にゲッツェンミューレの北西で再びボーリング調査を行った。どちらのボーリングでも、温泉経営に必要となるナトリウム・塩化物泉を掘り当てた。その拡充に関して何年にもわたる議論が行われたが、1920年代の半ばに結論のでないまま議論は打ち切られた。州指定温泉地バート・ナウハイムが、競合することを察知し、すべての拡張計画を阻止したのである。
2001年11月22日からヘッセン州とマールブルク=ビーデンコプフ郡の支援を受けて、バート・エントバッハの西、ザルツベーデ谷でボーリングが行われ、深さ 942 m から、温度に関しても、内容物(塩分)に関しても期待された通りの成功がもたらされた。良質の温泉が開発されたのである。この塩分の由来が、苦灰統であるのか、第三紀のオーバーラインシステムの岩塩鉱床であるのかは、はっきりと解明されていない。温泉量は期待されたほど多くはなかったが、温泉を満たし、需要に応えるには十分な量であった。さらに余剰分を他の治療目的に使えるほどの量があった。
本堂内部は、幅約 6.95 m、長さ 10.15 m で、壁の厚さは約 1.20 m である。建築の基本計画は、1フィート平均 33 cm で設計されている。すべての計画は7という数字に関わる独自の象徴性を示している。内部は、平天井のホール建築であり、最初期の2階席が総合的な改築がなされたことを示している。この礼拝堂は、鐘楼として屋根の上の小塔を有している。この地域の他の教会のような内陣塔は有していない。この点では、この礼拝堂の建築様式は、この周辺ではユニークなものである。
アール=ザルツベーデ鉄道は、ヴォンメルスハウゼン=ヒュッテ、エントバッハ、ハルテンロート近郊で3つの高架橋を渡り、ハルテンロートとアイゼムロートとの間でトンネルを通っていた。エントバッハ近郊のいわゆるザルツベーデ高架橋(里程 16.9 km)は、9つのアーチを持つ、長さ 165 m、高さ 15 m である。この高架橋は現在、バート・エントバッハの象徴的建造物であり、夜はライトアップされる。同種の建造物としては、ハルテンロート近郊のシュリーアバッハ谷に架かる長さ約 150 m、高さ 13 m の高架橋(里程 20.1 km)があり、やはり9つのアーチからなる。ヴォンメルスハウゼン=ヒュッテの高架橋(里程 16.5 km)は長さ約 25 m、高さ 11 m で、3つのアーチからなる。ハルテンロートとアイゼムロートとの間(里程 21.6 km から 22.3 km)、ザルツベーデ川/アール川、すなわちラーン川/ディル川の分水界の下を通る大きく曲がったトンネルは長さ約 700 m である[16]。
公園
クナイプ=クールパーク: バート・エントバッハのクナイプ=クールパークは、西の健康センターからグルントヴェクおよびザルツベーデ川沿いに東のビュルガーハウス(公民館)にまで伸びている。ここには、池、長さ 550 m 裸足の径、近代的なクナイプ式水浴場、クロイターガルテン(キャベツの庭)、ローラースケートコース、遊戯広場がある。
展望台は、エントバッヒャー・プラッテ(森のレストランは 2006年に閉店した)、ギュンテロート近郊シェーンシャイト、ヴォンメルスハウゼンとエントバッハの間のヴァーデ、デルンバッハ近郊のグユーネ・シュタイン(オミッセベルク)などにある。また、ヴォンメルスハウゼンとヒュスホーフ/デルンバッハとの間の高地には、たとえばヴォンメルスハウゼンの北にある山小屋「アム・シュタイン」やボッテンホルンの東 1 km のシャイト (538.7 m) といった展望台がある。
アール=ザルツベーデ鉄道が建設されるまで最寄り駅はフロンハウゼン・アン・デア・ラーンとディレンブルクにあった。1890年から新たな鉄道路線の建設が行われ、1894年5月12日に最初の区間であるニーダーヴァルゲルン - ヴァイデイデンハウゼン間が開通した。この路線は1898年から1902年までにヘルボルンまで延長された。ヴォンメルスハウゼンからアイゼムロートまでの間は、ヴォンメルスハウゼン=ヒュッテ、エントバッハ、ハルテンロートの3つの高架橋とハルテンロート - アイゼムロート間の長さ 700 m のトンネルが設けられた、大変に経費のかさむ区間であった。
1899年7月24日にエントバッハ近郊のザルツベーデ高架橋の定礎がなされた。「掘削作業はほとんどポーランド人労働者ばかりで、レンガ積みやその他の仕事はほとんどイタリア人ばかりである。労働者が話す言葉は異なる言語であったにもかかわらず、仕事はこれまで一体感を持って、混乱なく行われている。」[21] この高架橋は9つのアーチを持ち、長さ 175 m、高さ 18 m である。このカーブを描く建造物は、鉄道監査官のヘンツェンとピーティヒによって計画された。この高架橋は、現在、バート・エントバッハの象徴的建造物である。同様の建造物としては、ハルテンロート近郊のシュリーアバッハ谷に長さ約 155 m の堂々たる高架橋がある。さらに長さ約 25 m の高架橋がヴォンメルスハウゼン=ヒュッテ近郊に建設された。また、ハルテンロートとアイゼムロートとの間の、ザルツベーデ川/アール川分水界、すなわちラーン川/ディル川分水界の下に長さ 700 m のトンネルが掘られた。
Alfred Bastian: Auf Spurensuche in der Geschichte von Günterod. Hrsg. Festausschuß „700 Jahre Günterod“, 1998.
Heimatfest 675 Jahre Schlierbach 1318–1983. Hrsg. Festausschuß 675 Jahre Schlierbach GBR, Bad Endbach 1983
Horst W. Müller: Wommelshausen 1336–1986 Ein Dorfbuch. Hrsg. Heimat- und Verschönerungsverein Wommelshausen e. V. Bad Endbach, 2. Auflage, Marburg 1995.
Karl Heinrich Staus und Hannelore Kautzsch: Bottenhorn 1253–2003. Hrsg. Verein zur Förderung gemeinnütziger Aufgaben Bottenhorn e. V. 2003.
Walter Zimmermann: 700 Jahre Hülshof. Festvortrag am 7. Juli 1984, veröffentl. im Gemeindeblatt der Gemeinde Bad Endbach Nr. 30, pp. 2 - 4, Bad Endbach 1984
675 Jahre Wommelshausen 1336 - 2011, Geschichtlicher Überblick und Lebensbilder aus der Mitte des vorigen Jahrhunderts, Hrsg. Dorfgemeinschaft Wommelshausen e.V., Arbeitsgruppe "Chronik", L&W Druck Bad Endbach 2011
Hartenrod, Im Wandel der Zeit 1311 - 2011, Hrsg. Festausschuss 700 Jahre Hartenrod, L&W Druck Bad Endbach 2011
Ulrich Stork; 750 Jahre Bad Endbach, Vom kleinen Dörfchen zum angesehenen Kurort, Hrsg. Förderverein Bad Endbach e.V., L&W Druck Bad Endbach 2011
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町の歴史
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Horst W. Müller: Evangelische Kirche Wommelshausen, Baubeschreibung und Geschichte der Neuen Kirche, Hrsg. Kirchenvorstand der Kirchengemeinde Wommelshausen, Wommelshausen 2008.
町の広がりに関する出典
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Dieter Blume und Jürgen Runzheimer: Gladenbach und Schloß Blankenstein, Hrsg. Kur- und Verkehrsgesellschaft Gladenbach mbH, Dr. W. Hitzeroth Verlag, Marburg 1987
Hans Friebertshäuser: Die Frauentracht des alten Amtes Blankenstein, Beiträge zur Volkskunde Hessens, Band 5, N.G. Elwert Verlag, Marburg 1966.
Ute Gerst und Brigitte Bieber-Burk: 700 Jahre Bischoffen 1299–1999, Hrsg. Festausschuß „700 Jahre Bischoffen“, 1999.
Hans Werner Koob und Margot Lipp: Weidbach 1200 Jahre 802–2002, Hrsg. Interessengemeinschaft Weidbacher Vereine e. V., Marburg 2002.
Ulrich Lennarz: Die Territorialgeschichte des hessischen Hinterlandes, Hrsg. Hessisches Landesamt für geschichtliche Landeskunde in Verbindung mit dem Hinterländer Geschichtsverein, Marburg 1973.
Dieter Stoppel: Auf Erzsuche, Zur Geschichte des Silber-, Kupfer- und Schewerspatbergbaues im Raum Biedenkopf-Dillenburg, D. Bode Verlag, Haltern 1988, ISBN 3-925094-19-9
^Hessisches Statistisches Landesamt: Bevölkerung in Hessen am 31.12.2023 (Landkreise, kreisfreie Städte und Gemeinden, Einwohnerzahlen auf Grundlage des Zensus 2011)]
^E. Klippstein: Mineralogische Briefe. Gießen 1781, p. 57
^Horst W. Müller, Die mittelhessischen Landheegen, Hinterländer Geschichtsblätter, 89. Jahrgang, Nr. 4. Dezember 2010, Biedenkopf
^Horst W. Müller: Dernbach und die ‚von Dernbach‘,Hinterländer Geschichtsblätter, Biedenkopf, Nr. 3, Oktober 2005, Nr. 4, Dezember 2005, Nr. 1, März 2006 und Nr. 2, Juni 2006
^Horst W. Müller: Wommelshausen – ein Dorfbuch, Hrsg. Heimat- u. Verschönerungsverein Wommelshausen e.V., Marburg 1995, pp. 5-8, Auszug aus Bioklimatisches Gutachten des Deutschen Wetterdienst 1962
^Norbert Gebauer: Das Fragment einer Doppelaxt der norddeutschen Trichterbecherkultur bei Bad Endbach-Wommelshausen. Hinterländer Geschichtsblätter Nr. 1, März 1991, pp. 58 - 59, Geschichtsbeilage des Hinterländer Anzeigers
^ abGeorg Dehio: Handbuch der Deutschen Kunstdenkmäler, Hessen I, S. 986, Deutscher Kunstverlag, München Berlin 2008, ISBN 978-3-422-03092-3
^Freies Institut für Bauforschung und Dokumentation, „Bauhistorischer Untersuchungsbericht – Wommelshausen, Alte Kirche“, Marburg, Juni 1995 und „Archäologische Bodenuntersuchung – Wommelshausen, Alte Kirche“, Marburg, August 1997(未公刊)