| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "フランソワ" アンジュー公 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月) |
エルキュール・フランソワ・ド・フランス(フランス語: Hercule François de France、1555年3月18日 - 1584年6月19日)は、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、およびスペイン王妃エリザベート、ロレーヌ公妃クロード、ブルボン朝のアンリ4世妃マルグリットの弟である。1560年にエヴルー公、1566年にアランソン公、1576年にアンジュー公、トゥーレーヌ公、ベリー公に叙されたが、アランソン公の称号でしばしば呼ばれる。
生涯
長兄フランソワ2世以下、3人の兄は次々と若くして王位に就いては嗣子なしに早世しており、3番目の兄アンリ3世が1574年に即位した際には王位継承権者の筆頭(推定相続人)となったが、アンリ3世に先立って1584年に死去したため、成長した男子の兄弟のうち唯一王位に就かずじまいであった。アンリ3世は5年後の1589年に暗殺され、王家としてのヴァロワ家は断絶することとなる。
八十年戦争初期の指導者オラニエ公ウィレム1世はアンジュー公フランソワに対し、ネーデルラント連邦共和国の前身となるネーデルラント北部諸州連合の君主位に就くことを要請していた。
また、イングランド女王エリザベス1世との結婚の交渉が進められていたことがある。1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、 エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、「蛙 (frog)」の愛称をつけた[1]。エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている[2]。カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局この縁談は成立しなかった[3]。1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した[4]。ジョン・ダウランドのリュート曲「蛙のガリアルド」(Frog Galliard)のタイトルの蛙とは上述の仇名であり、この曲はアンジュー公フランソワとエリザベス女王の悲恋を題材にしている。
脚注
- ^ Frieda, 397.
- ^ Somerset, p. 408.
- ^ 石井 (2009), pp. 396-402, 410-412.
- ^ ヒバート (1998), p. 110.
参考文献