ブライアン・ジョンソン (Brian Johnson 、 1947年 10月5日 - )は、イギリス のロック ・シンガー で、ソングライター でもある。1980年 からオーストラリア のロック・バンドAC/DC のリード・シンガー。
1972年 、ブライアン・ジョンソンはグラムロック ・バンド、ジョーディー の結成に参加した。イギリスでトップ10に入った「君にすべてを (All Because Of You)」など、数曲のヒットを放った後、1978年 にバンドは解散してしまう。ジョンソンはバンドの再編を図り、1980年 にはその目処がつき、新たな契約を結んだのだが、カリスマ的なフロントマンだったボン・スコット を亡くしたばかりの(1980年2月19日 に死去)AC/DC から、オーディションを受けないかと打診された。あるファンが、AC/DCのマネジメントに、ジョンソンのジョーディーとしての演奏のテープを送っていたのである。ジョーディーの他のメンバーの賛同もあり、人気ラジオ番組司会者ジェイムズ・ホエール のアドバイスもあって、ジョンソンはAC/DCに参加することになった。
AC/DCに初参加したアルバム『バック・イン・ブラック 』は、イーグルズ の『イーグルス・グレイテスト・ヒッツ 1971-1975 』に次いで、史上3番目に売れたアルバムとなった[ 1] 。
1997年 、ジョンソンは、ジャッカル というバンドと「Locked and Loaded」という曲を録音した。また、2002年 には、このバンドのアルバム『Relentless 』に収められた「Kill the Sunshine」の作詞を担当した。
生い立ち
ブライアン・ジョンソンは、イングランド北部のニューカッスル・アポン・タイン に近いゲイツヘッド で生まれた。スコットランドとイタリアの血統を引き、4人兄弟の長子だった。父アランは、イギリス陸軍 ダラム軽歩兵隊 の曹長 を務めた炭坑夫であり、母エステル・デ・ルーカは、フラスカーティ 出身のイタリア人だった[ 2] 。ジョンソンは子どもの時からボーイスカウト 活動でいろいろなショーに出演し、テレビ放送された演劇に出演したり、地元の教会の聖歌隊 に参加したりしていた[ 3] 。
初期の活動
ジョンソンの最初のバンドは、The Gobi Desert Canoe Club(「ゴビ砂漠カヌー・クラブ」の意)といった[ 4] 。ジョンソンはまた、フレッシュ(Fresh)というバンドにも加わっていた[ 5] 。1970年 からは、キャバレーやクラブで演奏していたジャスパー・ハート・バンド(The Jasper Hart Band)に参加して、ミュージカル 『ヘアー 』の中の歌や、当時のソフト・ロックやポップ系の歌を歌っていた[ 6] 。ジョンソンは、このバンドの仲間と、ジョーディー を結成することになった。
ジョンソンが初めて、そして唯一、ソロ名義で出したシングルは、ジョーディーの一員であった1976年 に、レッド・バス(Red Bus)レーベルから出された「I Can't Forget You Now」であった。1982年 、MCA レーベルから、ジョーディーの1973年 から1976年 の10曲を収めたコンピレーションが、『Strange Man』というタイトルでジョンソンのソロ・アルバム扱いで発売された。アメリカ合衆国で1989年 に出たCD『Keep On Rocking』は、ジョーディーの曲として知られている全12曲の再録音盤で、「ブライアン・ジョンソン&ジョーディー」名義になっているが、1991年 オーストラリアで出されたコンピレーション『Rockin' With The Boys 1972-1976』でも、同じ名義が使われている。
AC/DCのメンバーとして
『地獄の鐘の音 』の演奏中に、大きな鐘にぶら下がるジョンソン
1980年 3月、ジョンソンは、ロンドンへ来てAC/DCのオーディションを受けないかという誘いの電話を受けた。前任者のボーカリスト、ボン・スコット は、2月19日 にアルコールが原因で嘔吐 物の誤嚥 を起こし窒息 死していたが、バンドは活動の継続を望んでいた。オーディションでジョンソンは、AC/DCの「ホール・ロッタ・ロージー (Whole Lotta Rosie )」と、アイク&ティナ・ターナー の「ナットブッシュ・シティ・リミッツ (Nutbush City Limits )」を歌った[ 7] 。4月はじめ、ジョンソンは正式に、AC/DCの新しいボーカリストとして公表された。
この年の7月、ジョンソンをフィーチャーした最初のAC/DCのアルバム『バック・イン・ブラック 』が発表された。このアルバムは、世界的な大成功を収め、史上有数の成功を収めたアルバムとなった。これに続いた1981年 の『悪魔の招待状 』も好調な売れ行きを見せた。その後、バンドのセルフ・プロデュースによるアルバム、1983年 の『征服者 (Flick of the Switch )』と1985年 の『フライ・オン・ザ・ウォール (Fly on the Wall )』は、さほどの商業的成功とはならなかった。1986年 の『フー・メイド・フー 』はホラー映画『地獄のデビルトラック 』のサウンドトラックで、AC/DCを再び人気の主流に押し上げた。
1988年 のアルバム『ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ 』は、ジョンソンの作詞による歌をフィーチャーしたAC/DCの最後のアルバムとなった。1990年 の『レイザーズ・エッジ 』以降は、ギターのアンガス・ヤング とマルコム・ヤング の兄弟2人が、AC/DCの作詞作曲を全面的に担うようになった。ラジオのインタビューで、ファンから、なぜ歌詞の提供を止めたのかと問われたジョンソンは、「言葉が在庫切れになっちゃって」と笑って答え、レコーディング中にアルバム一枚分の歌詞を生み出さなければならないというプレッシャーは楽しく思えないときもあったと説明し、『レイザーズ・エッジ』のレコーディング中にヤング兄弟が作詞をやってくれたときにはほっとした、と述べた。これ以降、すべてのアルバムは、すべての楽曲がヤング兄弟の作詞作曲となった。2008年 には、ボーカルがジョンソンに代わって10枚目のアルバム『悪魔の氷 』が発表された。
ジョンソンは、ステージではキャップを被って登場し、時々キャップを脱ぐというのが定番となっている。元々ジョンソンは、出身地であるタインサイド を象徴するものと見なされる「フラット・キャップ (ハンチング帽) 」を被っていたが、時々はベースボールキャップ を被ることもある。ジョンソンが帽子をかぶるのは、歌っている最中にカールした髪から汗が滴り落ちて目に入るのを防ぐために、弟が帽子を勧めたことがきっかけだった。「弟が『そいつをかぶってみな、そしたら何をやっているのか見えるようにはなるはずだぜ!』と言ったんだ。それで、被ってみて、2番目のセットで3曲やった後、弟の方を見て、親指を立ててやったんだ - 『こいつはすごいぞ!』ってね。弟はそれで帽子を返してもらえなくなっちまった訳だ」。
2009年 7月、ブライアン・ジョンソンは『Classic Rock』誌のインタビューで、引退を考えることもあるという発言をした[ 8] 。しかし、同11月には、このコメントの意図は、コンサートを通して歌えないくらいになったら引退したいという意味で、すぐに引退するということではないとした[ 9] 。
2010年 2月、ワールド・ツアー の最中、ジョンソンは、AC/DCにセットリスト の変更を求める公開状を書いた一部のファンについて、毒舌を浴びせた。「くたばりやがれ! これまでに聞いたことがないファンはどうなるんだ? 糞生意気な連中がいるもんだ。今じゃコンピュータ使って、どっかの自分ちにデカいケツで座り込んでいながら『あっ、連中また同じ曲を昨日の晩もやったよな、変えるのが当然だろ』と仰る。キンタマでも食らいやがれ。連中は、セットの中の曲を入れ替えるのが昔と大違いに大変だってこと分かっちゃないだろう」[ 10] 。
2016年 4月、AC/DCの16枚目のアルバムに伴う、『ロック・オア・バスト ワールドツアー』において、聴力問題によりドクターストップが掛かり途中降板。代役をはガンズ・アンド・ローゼズ のアクセル・ローズ が務めた。[ 11]
2018年 夏、長年悩まされていた難聴の問題が解決し、AC/DCのメンバーとスタジオで再会。復帰した、フィル・ラッド 、クリフ・ウィリアムズ 含むメンバーと17枚目のアルバム『パワーアップ 』のレコーディングを開始した。
2020年 11月、ニュー・アルバム『パワーアップ』がリリースされ、世界21カ国でチャート1位を記録。2023年 10月にはライブに復帰し、翌年5月からはツアーに参加。
ミュージカル企画
ブライアン・ジョンソンは「ミュージカルは大好き、特に古典的なロジャース&ハマースタイン 作品みたいなのがね」[ 12] と言っていたが、2003年 4月から、「サラソタ ・バレー団」の振付師ロバート・デ・ウォレン(Robert de Warren)とともに、『トロイのヘレン 』の話をミュージカル化する企画に携わった。このミュージカルは『レ・ミゼラブル 』のように、目覚ましい讃歌と優しいバラッドが盛り込まれ、台詞は最小限に抑えられていた。ジョンソンは、アンドルー・ロイド=ウェバー の『キャッツ 』を観て、脚本家のイアン・ラ・フレネス
、ディック・クレメント 、ブレンダン・ヒーリー(Brendan Healy)らとこの構想を練り始めた。
俳優のマルコム・マクダウェル は、ジョンソンのスタジオでサウンドトラック用の歌を1曲録音したのがレコーディング・デビューになったが、ゼウス 役を引き受けた。クランベリーズ のドロレス・オリオーダン も参加の予定とされた[ 13] 。
2005年 6月13日 、ニューヨーク ・ブロードウェイ のキャナル・ルーム で、米国のコメディアンブルース・ヴィランチ をゼウス役に、このミュージカルのために書かれた曲をフィーチャーした「ミュージカル・リーディング」の小規模な公演が行われた[ 12] 。
自動車愛好
ブライアン・ジョンソンは、自動車とレースにも熱心で、現在はおもにロイヤル・RP4とピルビーム ・MP84を駆って、アメリカ合衆国 の各地で行われる年代物のレーシングカー でのレースに参加している。
2009年 7月26日 、BBC のテレビ番組『トップ・ギア 』内の人気コーナー「Star in a Reasonably Priced Car 」に登場した。このときはシボレー・ラセッティ(日本ではシボレー・オプトラ )で1分45秒9のタイムを出し、サイモン・コーウェル 、ケヴィン・マクロード と同タイムで2位となり、1位となったジャミロクワイ のジェイ・ケイ には0.1秒及ばなかった。この番組で司会のジェレミー・クラークソン は、「ビートルズ よりたくさんアルバムを売ってきた男、だがきっと(視聴者の)どなたも名前を聞いたことはない……」とジョンソンを紹介した。なおこのタイムは結局2009年の同コーナーにおけるトップタイムとなり、2010年1月の放送ではジョンソンに最速ドライバーとしてトロフィーが渡されたが、トロフィーに記載された名前が「Brain Johnson」と誤植 されるというオチがついている。
2013年のシリーズ20-1において同番組のお値打ち車がボクスホール・アストラ に更新された際の最初のドライバーとなった。
2014年のF1 バーレーングランプリ では、表彰台インタビュアーとして登場した。
耳栓を忘れてレースを行ったことにより左耳の聴覚をほぼ失っている。長らくこれは音楽活動によるものと言われていたが2016年3月にある記事 で真相を語っている。
その他
2006年 11月、ジョンソンは、イギリスの衛星放送チャンネル「Sky1 」で放送されたリアリティ番組 『The Race 』に、男性チームの一員として出演した。
ジョンソンは、2005年 の映画『GOAL! 』に、カリフォルニア のバーでニューカッスル・ユナイテッドFC のゲームを観ているファンの役で、カメオ出演 している。
ジョンソンは、第二次世界大戦 を題材としたファーストパーソン・シューティングゲーム である『コール オブ デューティー ファイネストアワー 』で、イギリス軍のスターキー軍曹の声を担当している。
2009年 10月には、ジョンソンの自伝『Rockers and Rollers』が出版された。
ファンによるクラウドファンディング や地元ラジオ局「RTBF Classic 21」の協力により、ベルギー のナミュール にブライアンの銅像 が建立された。2023年 4月16日 に御披露目式が行われ、ブライアンは出席はしなかったものの、感謝の意を述べるビデオ・メッセージを送っている[ 14] 。
私生活
ジョンソンは、最初の妻キャロルと1968年 に結婚した[ 15] 。しかし、アルバム『レイザーズ・エッジ 』の制作中に離婚した。キャロルとの間には、2人の娘、ジョアンナとカーラがいる[ 16] 。その後、現在の妻ブレンダと再婚した[ 17] 。
現在は、米国フロリダ州 のサラソータ に住んでいる。
ディスコグラフィ
ジョーディー
邦題
原題
リリース
レーベル
ロック魂
Hope You Like It
1973年
EMI
ジョーディー2
Don't Be Fooled By The Name
1974年
EMI
セイヴ・ザ・ワールド
Save The World
1976年
EMI
No Good Woman
1978年
EMI
AC/DC
邦題
原題
リリース
レーベル
米国でのアルバム売り上げ
バック・イン・ブラック
Back in Black
1980年7月
Atlantic
25,000,000
悪魔の招待状
For Those About to Rock (We Salute You)
1981年11月
Atlantic
4,000,000
征服者
Flick of the Switch
1983年9月
Atlantic
1,000,000
フライ・オン・ザ・ウォール
Fly on the Wall
1985年6月
Atlantic
1,000,000
フー・メイド・フー
Who Made Who
1986年5月
Atlantic
5,000,000
ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ
Blow Up Your Video
1988年1月
Atlantic
2,000,000
レイザーズ・エッジ
The Razors Edge
1990年9月
Atco
5,000,000
ライヴ
Live
1992年10月
Atco
5,000,000
ボールブレイカー
Ballbreaker
1995年9月
Elektra
2,000,000
スティッフ・アッパー・リップ
Stiff Upper Lip
2000年2月
Elektra
1,000,000
悪魔の氷
Black Ice
2008年10月
Columbia
2,000,000 [ 18]
ロック・オア・バスト
Rock or Bust
2014年11月
Columbia
500,000
パワーアップ
Power Up
2020年11月
Columbia
114,000
ソロ
出典・脚注
参考文献
外部リンク
オーストラリア盤アルバム インターナショナル盤アルバム ライブアルバム サウンドトラック 関連項目
カテゴリ