ウェランド (Welland )は、ロールス・ロイス が製造した英国初の実用ターボジェットエンジン 。
ソルウェイ航空博物館で展示中の、ウェランド第183号機(外部リンク参照)
前史
技術的方向性の相違から、空軍の上官アラン・アーノルド・グリフィス (Alan Arnold Griffith )と対立したフランク・ホイットル が、自ら興したパワージェッツ で開発された W.1(Whittle Supercharger Type 1 )は、1941年 に連合国側初のジェット機グロスター E.28/39 を進空させた。
ウェランドの前身は、その W.1 の比例拡大版として計画された W.2 だったが、パワージェッツには量産能力がないため、軍需省 の仲介で自動車 製造大手ローバー が生産を担当することになった。
W.2 は両面式単板遠心式圧縮機 と、10本のカン型反転式燃焼器 を持つターボジェットエンジンで、ローバー版は W.2B ("B" は工場所在地バーノルズウィック (Barnoldswick ) を表す)と命名された。
しかし W.2B の開発は出力暴走、タービン入口温度過昇、サージング 等の問題に直面して難航し、後にランドローバー 開発主任として知られるモーリス・ウィルクス(Maurice Wilks )が、タービン 動翼を外部水冷から内部空冷に、静翼を低反動型に各々変更し、新しい耐熱合金を採用した結果、1942年 末には推力 5.6 kN(575 kg)で25時間の連続運転に成功した。
これらの改良作業と並行して、W.2B は同年夏からビッカース ウェリントン 、続いてグロスター E.28/39 にも搭載されて空中試験が開始されていたが、下請業者からの部品納入遅延や知見の薄さからローバー社における開発はなかなか進捗せず、事態を重く見た軍需省が W.2 の詳細データをエンジン技術者フランク・ハルフォード (Frank Halford )に托した結果、W.2 より簡素な構造を持つハルフォード H.1(後のデ・ハビランド ゴブリン )が先に実用段階に達してしまった。
更にホイットルの反対を押し切ってローバーが大幅な設計変更(全長短縮の意図で用いられていた反転式燃焼器を排し、噴流を迂回させずタービンに直接当てる改良型。後に W.2B/26 ~ロールス・ロイス ダーウェント へと発展)に着手したため、これに苛立ったホイットルはローバーを公然と批判するようになり、ロールス・ロイス の手を借りて独自改良版のパワージェット W.2/500~/700 の試作に着手するなど、両者の対立は修復不能に至った。しかしホイットル自ら注力した W.2/500~/700 もまた、数多の技術的課題を克服できぬ極めて不安定な物でしかなかった。
パワージェッツ W.2/700 遠心式ターボジェットエンジン
実用化
ホイットルとの軋轢に嫌気が差したローバーは W.2B プロジェクトに関する一切を、かねてからジェットエンジンに興味を示していたロールス・ロイスに工場・人員ごと譲渡することで合意し、航空機レシプロエンジン 用機械式過給器 の専門家スタンリー・フッカー (Stanley George Hooker )らのチームが W.2B の開発を引き継いだ。
シースルーモデルで気流解析を重ね W.2B の本質的欠陥を把握したフッカーらは、ローバーで半完成状態にあった W.2B/23 (B.23) 案に技術的洗練を加え、蒸発管式燃料噴射、反転型燃焼器、外部水冷タービン に固執するなど、経験論に拘泥し反進歩主義に陥ったホイットルへの皮肉 と、エンジン内の気流が「川の流れのようにスムーズ」という意味を込めて、工場の傍を流れるウェランド川 (River Welland ) の名を借り、この同社初のターボジェットに“Welland”の愛称を付した。その後ロールス・ロイス製ジェットエンジンの殆どにイングランド を流れる河川名の愛称 が与えられているのは、この故事に因む。なお、英仏合弁(ロールス・ロイスとチュルボメカ )で設計されたRB.172 / RT.172 / T260 アドーア がフランス南西部のアドゥール川 (英語読みでアドーア川)に由来するなど、他国企業と共同で開発を行った場合、その相手国の川に由来する名称を与える場合もある。
ロールス・ロイスが持てる要素技術とノウハウを注入したウェランド W.2B/23C (B.23C) は実戦に耐える水準にまで改良され、1943年 に英初のジェット戦闘機グロスター ミーティア F.1 向けに量産開始し、次作のダーウェント と交替するまで、総計167基が生産された。
メッサーシュミット Me262 に数週間遅れて、ミーティアに積まれ実戦配備されたウェランドは、推力7.1kN (730kg)、オーバーホール間隔180時間の性能を発揮して、速力・上昇力では全く太刀打ち出来なかったが、安定性と燃料消費率 でユンカース ユモ 004 を上回っていた。
また独で異色の遠心・軸流併用ターボジェットに傾注し、1939年 に世界初のジェット推進機 He 178 を進空させていたハインケル のハンス・フォン・オハイン らのチームは、1941年 には実用型 HeS 8 を搭載した戦闘機 He 280 を試作したものの、小予算で研究体勢が整わなかった事情も相俟って、実用段階未達のままウェランドより先に計画放棄されていた。
1944年 8月4日 には実験飛行隊 616th SQ 配備のミーティア F.1 (EE216) が、独から飛来した V-1 (Fi 103) 飛行爆弾 の撃墜に成功し、連合国側ジェット戦闘機による初戦果を記録した。ただしエンジン軸受能力の限界からミーティアの機動は±2G程度に制限されており、この段階で対戦闘機戦闘は事実上不可能だったと言える。
ミーティア F.1 の1号機 (EE210/G) は、米陸軍航空隊との技術交流で、ウェランドの前作パワージェッツ W.1 のライセンス版であるゼネラル・エレクトリック J31 を積んだベル XP-59A エアラコメット と交換され、各々でテストされた。
関連項目
外部リンク