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この項目では、石見国(島根県益田市)の七尾城について説明しています。能登国(石川県七尾市)の七尾城については「七尾城」をご覧ください。 |
七尾城(ななおじょう)は、島根県益田市七尾町にあった日本の城。城跡は、同市三宅町にある三宅御土居跡とともに国の史跡「益田氏城館跡」に指定されている[1]。
概要
七尾城は、石見国の国司として鎌倉時代(建久年間)に益田荘を本拠とした益田氏の城。歴代の益田氏が居館とした三宅御土居など[注釈 1]の詰めの城として、標高約120メートルの七尾山に築かれた。山頂の本丸跡(標高約118メートル)からは益田平野から日本海までを一望できる。なお、三宅御土居跡とは、益田川を挟み870メートルの距離がある。
発掘調査により、大小40あまりの曲輪・空堀・土塁・井戸跡などが発掘された[2]。さらに、戦国時代後期のものとされる礎石建物や遺物が多く出土しており、毛利元就と対立した頃には益田藤兼と家臣たちが居城とするなど、戦時のみに使われる城郭という従来の山城のイメージを塗り替えるものである[3][4]。
歴史
築城時期は諸説あるが、通説では建久4年(1193年)に益田兼高が築城したとされる[5][6]。史料に登場するのは南北朝時代で、延元元年(1336年)に南朝方の三隅氏が「北尾崎木戸」(当時の大手口[7])を急襲したことが益田家文書に残る[5]。
戦国時代後期、益田氏は陶氏と縁戚関係にあり、大寧寺の変でも陶隆房(後の陶晴賢)に協力していたが、その陶晴賢が天文24年(1555年)の厳島の戦いで毛利元就に敗れると、当時の益田氏当主・益田藤兼は毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した[5]。この時、藤兼とその家臣たちは、三宅御土居を出て七尾城内に移住したとされる。その後、藤兼は元就の軍門に降って毛利氏の家臣となり、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に居館を戻した[8]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は周防国・長門国の2ヶ国へ減封されると、益田元祥も毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。
現在
廃城時に、城の大手門は医光寺に移築されて総門としてなって現存しており、「医光寺総門」として1961年(昭和36年)に島根県の指定文化財とされた[7]。
さらに、昭和40年代には三宅御土居跡と共に島根県の史跡として指定される[4]。そして、2004年(平成16年)9月30日、再び三宅御土居とセットで国の史跡「益田氏城館跡」となった[1]。
脚注
注釈
- ^ その他、上久々茂土居(益田市久々茂町)や大谷土居(益田市大谷町)が益田氏代々の居館跡と推定され、時代と共に移転(益田川の上流から下流へ)してきたと考えられている。
出典
関連項目
外部リンク