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召公奭(しょうこうせき)は、西周の政治家。姓は姫または姞[2]、諱は奭。太公望や周公旦と並ぶ、周建国の功臣の一人である。周初で最も長く活躍し、文王・武王・成王・康王の四代に仕えた。
略伝
召の地(現在の陝西省宝鶏市岐山県の南西)を食邑としたことから召公、周召公、召康公または召伯と呼ばれる。武王の殷打倒を補佐し、その功績により燕(現在の河北省北部)に封じられ、都城を薊(現在の北京市房山区)と定めた。燕には長男の克を赴かせ、 自らは鎬京(現在の陝西省西安市)に留まった。
成王の代に三公に列し、太保となった。周公旦と殷の旧域を陝塬(現在の河南省三門峡市陝州区)で二分[3]して、陝東を周公旦の、陝西を召公奭の管理とした。
慣用表現
- 甘棠の愛
- 立派な為政者に対し深い愛情と敬意を捧げること。召公は国内をくまなく歩いて甘棠の下で人々の訴えを聴き、争いごとを裁いた。人々は召公の仁徳と善政を思い、その甘棠を惜しんで木を切らなかったという故事から。
登場作品
参考文献
脚注
- ^ a b 『東洋歴史大事典』による。没年を康王26年とする説や生没年を前1046年(英語版)-前995年とする説もある。
- ^ 『史記』燕世家では周王家と同姓の姫姓としているが、殷墟から発掘された『卜辞』によれば、姓は姞(中国語版)である。
- ^ ただし、特定の地名を指すのではなく、国土を意味していたとする解釈もある(万縄楠『魏晋南北朝文化史』(東方出版中心、2007年、P15.)の説)。