「呂33」(1939.4.8、有明湾)
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艦歴
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計画 |
昭和6年度計画(第一次補充計画)
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起工 |
1933年8月8日
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進水 |
1934年10月10日
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就役 |
1935年10月7日
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その後 |
1942年8月29日戦没
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除籍 |
1942年10月5日
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性能諸元
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排水量 |
基準:700トン 常備:940トン 水中:1,200トン
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全長 |
73.00m
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全幅 |
6.70m
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吃水 |
3.25m
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機関 |
艦本式21号8型ディーゼル2基 電動機、2軸 水上:3,000馬力 水中:1,200馬力
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速力 |
水上:18.9kt 水中:8.2kt
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航続距離 |
水上:12ktで8,000海里 水中:3.5ktで90海里
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燃料 |
重油:108.7トン
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乗員 |
61名
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兵装 |
40口径八八式8cm高角砲1門 13mm機銃1挺 53cm魚雷発射管 艦首4門 魚雷10本
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備考 |
安全潜航深度:75m
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呂号第三十三潜水艦(ろごうだいさんじゅうさんせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十三型潜水艦(海中6型)の1番艦。
艦歴
撃沈総数1隻、撃沈トン数300トン。撃破総数1隻、撃破トン数3,310トン。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』448-449頁及び『官報』による。
艤装員長
- 石川信雄 少佐:1935年2月28日[8] - 1935年5月10日[9]
艦長
- 石川信雄 少佐:1935年5月10日[9] - 1936年2月15日
- 揚田清猪 少佐:1936年2月15日 - 1937年3月20日[10]
- 渋谷龍穉 少佐:1937年3月20日 - 1938年6月20日[11]
- 有泉龍之助 少佐:1938年6月20日[11] - 1939年10月15日[12]
- 市川旦 少佐:1939年10月15日 - 1940年3月20日[13]
- 大平政二郎 少佐:1940年3月20日 - 1940年10月30日[14]
- 渡辺勝次 少佐:1940年10月30日 - 1941年7月31日[15]
- 坂本栄一 少佐:1941年7月31日 -
- 栗山重志 少佐:1942年6月5日 - 1942年8月29日戦死
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k 『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』94頁。
- ^ a b c 『艦長たちの軍艦史』448-449頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
- ^ a b c 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』145頁。
- ^ 『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』94頁によれば、「英機の攻撃をうけ沈没」とされている。
- ^ 『日本海軍史』第7巻、372頁。
- ^ 『官報』第2446号、昭和10年3月1日。
- ^ a b 『官報』第2504号、昭和10年5月11日。
- ^ 『官報』第3063号、昭和12年3月22日。
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第198号 昭和13年6月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第391号 昭和14年10月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第549号 昭和15年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第681号 昭和16年7月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9