喜界島地震 (きかいじまじしん)は、1911年 (明治 44年)6月15日 23時26分、鹿児島県 喜界島 南方(北緯28度、東経130度付近と推定)で発生した巨大地震 。規模はマグニチュード 8.0(Mw8.1)。名瀬 測候所で震度6に相当する揺れ(烈)を観測したほか、那覇 測候所などでも震度5相当(強)の揺れがあった[ 1] 。明治喜界島近海地震、明治奄美大島近海地震とも呼ばれる。
特徴
この地震 は南西諸島 で発生した地震としては有史以来最大規模のものである[ 2] 。フィリピン海プレート がユーラシアプレート (沖縄マイクロプレート )に沈み込む南西諸島海溝 で発生した海溝型地震 と推定されているが詳細は不明である。1995年に同じ付近を震源として発生した地震の観測結果から、1911年の地震は逆断層型と考えられる[ 3] 。
震源と規模
震源
震源は奄美大島の東北東の琉球海溝付近とする説(宇津)と琉球列島の西側(G-R)とする説があり、2011年現在でも決着は付いていない。今村(1913)による報告書では、名瀬、東京、京都、恒春の観測結果より大森公式 を用いて決定されたとされている[ 1] が、震源の位置と深さは、資料編纂者によって異なる。代表的な2つの資料を比較すると、
中央気象台[観測要覧]では『余震190回』との記載もあるが、別な資料では『余震極めて寡少なるは-異例とすべき』とされ、余震の多い浅発地震とも余震の少ない深発地震どちらの解釈も可能である。現在の観測では、沖縄本島 、奄美大島 直下のプレートの深さは、約50km、想定震源域付近でも約80km とされており[ 3] 、従来の震源深さを 100km または 160km とする説には矛盾が生じるとの見解もある。なお、震源深さを 100km と考えた根拠は、津波が小さかった事とされている。
後藤(2012)は、当時の観測精度が低かったことに注意しつつ震源を再決定したところ、北緯28度40分 東経130度33分 / 北緯28.67度 東経130.55度 / 28.67; 130.55 、深さ60km(周辺の地震活動を勘案すると10km程度か)に求められた。この結果から、本地震はプレート境界型地震であった可能性が大きいとしている[ 4] [ 5] 。
規模
地震の規模は、資料編纂者によって異なる。
日本国内27箇所の観測点の最大震幅データを、現在の気象庁の方法により評価を行った場合のマグニチュードは、7.8。
震度
報告された震度は以下の通り[ 1] 。
津波
都司嘉宣 らの研究でも、津波は1m程度よりも有意に大きかったことが示されていることから、津波の発生は震源が浅いことを示唆している[ 6] 。
津波に関する口頭伝承の調査が2011年から2012年にかけて行われた[ 7] 。調査結果によれば喜界島で34件、奄美大島で19件、加計呂間島で2件の得られた伝承をまとめると、
喜界島の西海岸では5m 以上の津波が到来している。
東海岸では津波はあったものの小規模。(しかし、津波高に関する情報は得られず)
奄美大島では5m 以上の津波が到来。概して東海岸の方が西海岸より大きかった。
奄美大島の南に位置する島々(加計呂麻島・請島・与路島)での津波の規模は小さかった。
喜界島および奄美大島の少なくとも中部以北での津波は引きで始まった(奄美大島南部以南では押し引きの情報は得られていない)。
聞き取り調査から推定された津波高の最大値は喜界島中里での10m。
この聞き取り調査の結果から、M 8.0 とされる地震が発生させた津波としては標準的な規模である。また、津波高の地域差や津波の押し引きに関する情報が得られたことで、波源域 の推定が可能となり、波源域は喜界島の北~北東方向、低角逆断層運動と推定された[ 7] 。
被害
この地震で喜界島で1人が死亡するなど、計12人が犠牲となった。家屋の損壊も多く、沖縄本島 まで被害が及んだ[ 8] 。また加計呂麻島 鎮西村 (現瀬戸内町 )には津波 が押し寄せたという。ただし今村 ・飯田 の津波等級では0(1m程度)にとどまる[ 9] 。
再来周期
この付近を震源とする地震の再来周期や活動歴は不明である。
喜界島では、珊瑚礁 に残された海岸段丘の痕跡から、過去7000年間に4回の隆起が記録されていて6300年前(5m),4100年前(1m),3100年前(1m),1400年前(2m) 括弧内は隆起量である[ 10] 。この海岸段丘の形成原因としては、Shikakura (2014)はプレート境界における巨大地震のほか、定常的な隆起と小規模な局地的な隆起でも説明できるとしている[ 11] 。
1995(平成7)年の地震
今村(1913)により求められた震源の近くでは、1995年(平成7年)10月18日19時27分に北緯28度02分、東経130度28分、深さ38km(喜界島南東約54km)で気象庁マグニチュード 6.9(Mw 7.3)の本震と、翌日の10月19日11時41分 気象庁マグニチュード 6.7(Mw 6.9) の余震が発生した。正断層 型のプレート内地震と考えられている。この2つの地震では、斜面及び石垣の崩壊や津波を観測している。津波は、18日の地震では地震から11分から12分後に引き波の第一波が、1時間20分後に浦原で水位上昇値 3mの津波を観測しているが津波の高さは地震の規模に比べ特に高かった[ 12] 。なお、津波の到達に先立ち、本震の4分後に断層面が破壊された時に発せられたと考えられる鳴動音が約10秒間聞こえた[ 13] 。前兆活動は、5月19日 M3.8 から始まり断続的に有感地震を記録していた。
参考文献
^ a b c 今村明恒 、明治四十四年ノ喜界島地震 今村明恒 震災豫防調査會報告. 第77號, 1913年10月 pp.88-102
^ 宇津徳治 、世界の被害地震の表
^ a b 角田寿喜,後藤和彦,宮町宏樹 ほか、「1995年奄美大島近海地震 活動と被害の概況 地學雜誌 1997年 106巻 4号 p.476-485, doi :10.5026/jgeography.106.4_476
^ 後藤和彦(2012), 1911年に喜界島近海で発生した巨大地震の震源位置の再評価 地震 第2輯 2013年 65巻 3号 p.231-242, doi :10.4294/zisin.65.231
^ 後藤和彦, 1911年に喜界島近海で発生した巨大地震の震源について, 日本地球惑星科学連合2012年大会, SSS30-P07 (PDF )
^ 20世紀初頭に九州・南西諸島のサブダクション帯で 発生した2つの地震の震度分布と地震規模 (PDF ) 歴史地震 第24号(2009)7-31頁
^ a b 岩本健吾、後藤和彦:1911年に喜界島近海で発生した巨大地震(M8.0)に伴う津波の聞き取り調査 日本地球惑星科学連合2013年資料 (PDF )
^ 宇佐美龍夫『最新版 日本被害地震総覧』、東京大学出版会、2003年
^ 国立天文台『理科年表』、丸善、2009年
^ 喜界島で過去7000年間に1000年から2000年周期で起こったとされる4回の隆起イベントの原因について (周期性の原因も含めて)教えてください。 日本第四紀学会|Q&A
^ Yosuke Shikakura (2014). “Marine terraces caused by fast steady uplift and small coseismic uplift and the time-predictable model: Case of Kikai Island, Ryukyu Islands, Japan” (英語). Earth and Planetary Science Letters 404 : 232-237. doi :10.1016/j.epsl.2014.08.003 .
^ 笠原順三、佐藤利典:沈み込む海山と1995年奄美大島近海地震のテクトニクス的解釈 地學雜誌 1997年 106巻 4号 p.557-566, doi :10.5026/jgeography.106.4_557
^ 都司嘉宣、「1995年奄美大島近海地震による地震および津波被害について 」 地學雜誌 1997年 106巻 4号 p.486-502, doi :10.5026/jgeography.106.4_486
関連項目
外部リンク
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1900年 - 1949年
1900年 - 1909年 1910年 - 1919年
喜界島 (1911年、M8.0)
日高沖 (1913年、M7.0)
桜島 (1914年、M7.1)
秋田仙北 (1914年、M7.1)
石垣島北西沖 (1915年、M7.4)
十勝沖 (1915年、M7.0)
宮城県沖 (1915年、M7.5)
明石海峡 (1916年、M6.1)
静岡 (1917年、M6.3)
択捉島沖 (1918年、M8.0)
大町 (1918年、M6.1+M6.5) )
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