佐賀県基肄郡の位置
基肄郡(きいぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。
郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
- 鳥栖市の一部である(現在の概ね河内町、古賀町、萱方町、神辺町、田代外町、松原町、曽根崎町、酒井西町、水屋町より北東および土井町・鎗田町の各一部[1])
- 三養基郡基山町の全域
歴史
古代
基肄郡は、古くは[2]「肥前国風土記」「和名抄」などに見えて、「和名抄」では「木伊」と記す。
郡名の由来は[2]「肥前国風土記」に景行天皇が行幸の際に筑後の高良山から当地方を見て、霧のおおわれていて「霧の国」と呼んだことにちなむという。
白村江の戦いの後に、大宰府の防衛のために古代山城が築かれて、その一つが基肄城である。また、古代の軍隊である基肄軍団が置かれていた。
郷
「肥前国風土記」「延喜式」[2]によると、6郷であるが姫社(ひめこそ)・山田・基肄・川上・長谷の5郷であげる。残り1郷[2]は、基山町長野から鳥栖市永吉あたりにかけて存在したと推定される。
- 姫社郷…鳥栖市基里町姫方の姫古曽神社あたりに比定。
- 山田郷…鳥栖市酒井町山田あたりに比定。
- 基肄郷…基山町宮浦あたりに比定。
- 川上郷…鳥栖市神辺あたりに比定。
- 長谷郷…基山町園部に長谷川、葉瀬山の地名に比定。
姫社は、山道川(秋光川か山下川)[2]の西に住む荒ぶる神を鎮めるために女神(織姫)をまつった社(姫古曽神社)の名に基づいている。
式内社
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
中世
戦国時代には、少弐氏一族の筑紫氏が当郡を支配していた。
豊臣秀吉の九州平定後の天正15年(1587年)に、当郡と養父郡東半部は小早川隆景の所領となりました。その後、豊臣家の蔵入地を経て、対馬の宗氏の飛び地領として対馬藩田代領と呼ばれる。
近世
田代領の統治は、田代代官所が行っていた。田代領は三郷両町に分かれていて、3つの郷は基肄上郷、基肄下郷、養父郷(養父郡東半分)、2つの町は田代町、瓜生野町である。代官所の上役は、対馬藩府から派遣された役人であったが、下役は地元の武士である。三郷は、庄屋などが採用されて民政にあたっている。
近世以降の沿革
1.基山村 2.田代村 3.基里村(紫:鳥栖市 青:合併なし 11 - 15は養父郡 21 - 23は三根郡)
- 明治11年(1878年)10月28日 - 郡区町村編制法の長崎県での施行により、行政区画としての基肄郡が発足。「基肄養父三根郡役所」が養父郡轟木村に設置され、同郡・三根郡とともに管轄。
- 明治16年(1883年)5月9日 - 佐賀県(第3次)の管轄となる。
- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。特記以外は全域が現・鳥栖市。(3村)
- 基山村 ← 宮浦村、園部村、小倉村、長野村(現・三養基郡基山町)
- 田代村 ← 田代村、永吉村、柚比村、神辺村、萱方村
- 基里村 ← 酒井東村、酒井西村、姫方村、飯田村
- 明治29年(1896年)4月1日 - 「基肄養父三根郡役所」の管轄区域をもって三養基郡が発足。同日基肄郡廃止。
行政
- 長崎県基肄・養父・三根郡長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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1 |
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明治11年(1878年)10月28日 |
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明治16年(1883年)5月8日 |
佐賀県に移管
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- 佐賀県基肄・養父・三根郡長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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1 |
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明治16年(1883年)5月9日 |
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明治29年(1896年)3月31日 |
養父郡・三根郡との合併により基肄郡廃止
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脚注
- ^ 市街地の町名変更地域の境界は不詳。
- ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』角川書店、1982年、p.240~241。
- ^ 記載は永吉北村。
- ^ 記載は宮浦東村。
- ^ 記載は園部下村。
参考文献
関連項目