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『宋会要輯稿』(そうかいようしゅうこう)は、中国の宋代の制度書の輯本。清の徐松が『永楽大典』中の宋代の官が編纂した会要の逸文を集めた。全800万字、500巻。
『宋会要(中国語版)』の原本は明代に逸失したが、大部分は『永楽大典』に残っていた。清の嘉慶年間、学者の徐松の命により『永楽大典』からその逸文を蒐集して『宋会要輯稿』が出来上がった。全部で500巻近くあり、「帝系」・「后妃」・「楽」・「礼」・「輿服」・「儀制」・「瑞異」・「運暦」・「崇儒」・「職官」・「選挙」・「食貨」・「刑法」・「兵」・「方域」・「蕃夷」・「道釈」の17分野に分けられた。同書の中には多くの詔令・法令・奏議といった宋代の法制の内容が残されており、十中八九は『宋史』の志にないものであるため、宋代の法制を研究する上で重要な資料である。
編纂過程
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宋代に作られた会要は以下の12書があり、あわせて約3000巻ある。
以上の会要は『経進総類国朝会要』の刊本があるほかは刊本がなく、僅かな抄本のみが伝世した。元が宋を滅ぼした後、その書は元の大都に運ばれた。明の『宋会要』にはすでに欠落が生じていた。
明の永楽帝が『永楽大典』を編纂させた際、『宋会要』は韻によって分類され、『国朝会要』・『続会要』・『乾道会要』・『寧宗会要』・『政和会要』の各巻の中に組み入れられたが、当時すでに散逸してた部分も多くあった。
清の嘉慶年間に徐松が『全唐文』を編纂した際、宮中所蔵の『永楽大典』を読み、『宋会要』の原稿を見つけるたびに、書記に命じて書き写させ、整理したところ、500~600巻ほどとなった[1]。道光28年(1848年)に徐松が死去し、同治元年(1862年)には、その書は流出していた[2]。
『宋会要』の稿本は巡り巡って北京琉璃厰の書店に辿り着き、繆荃孫に購入された。繆荃孫は稿本を、両広総督張之洞が広州で創設した広雅書局に引き渡し、屠寄が校勘を担当した。辛亥革命以後、稿本は劉楽の嘉業堂の所有となった。併せて劉富曽・費有容らを招聘し整理を進めた。劉富曽・費有容の2人は徐松の原稿に基づき、初編291巻・続編75巻の整理を進めた。劉富曽はさらに様々な書を参照して新たな資料を加えたところ、460巻となった。
1933年、国立北平図書館は嘉業堂から劉富曽が整理した稿本を借り、徐松の原稿と対照したところ、劉富曽が「『宋志』・『通考』・『玉海』の引用にあたり、旧文を改めて新たな内容を加えており」、かつ「分類の辻褄が合わず、他書からの引用が入り交じり、典拠を記していない。『蘭台漆書』の剽窃が疑われる箇所さえある。原稿と読み比べて使えるだけで、基準とすることはできない」ことに気づいた[3]。最終的に徐松の原稿を影印することに決め、陳垣・傅増湘といった名家を責任者として招聘した。当時は資金に限りがあったが、後にアメリカの在中ハーバード燕京研究所から印刷費2500ドルの援助があり、ようやく出版に至った。現在出回っている版本は1936年10月に出版された影印本である。
版本
- 原稿本(徐松) - 全500巻。
- 整理本(劉富曽・費有容) - 初編291巻、続編75巻の計366巻。四川大学古籍整理研究所はこの版本に拠って点校本を出版した。
- 清本(劉富曽) - 全460巻。
脚注
- ^ 繆荃孫『芸風堂文集続集』巻四『永楽大典考』「而修全唐文時、大興徐星伯先生松、曽抄出宋会要五百巻、中興礼書一百五十巻、元修河南志三巻、秘書省続到闕書二巻。」
- ^ 繆荃孫『芸風堂文続集』巻六『宋太宗実録跋』
- ^ 北平図書館『影印宋会要輯稿縁起』
参考文献