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山村暮鳥

山村暮鳥

山村 暮鳥(やまむら ぼちょう、1884年明治17年)1月10日 - 1924年大正13年)12月8日)は、明治大正期の日本詩人児童文学者である。本名、土田八九十(つちだ はくじゅう)、旧姓は志村。

自由詩社に入り詩壇に登場。情調的な象徴詩から前衛詩に転じ、晩年は平易な表現の人道主義的作風になった。詩集に『聖三稜玻璃』(1915年)、『風は草木にささやいた』(1918年)、『雲』(1925年)など。

生涯

詩碑(群馬県高崎市、上毛野はにわの里公園内)

1884年1月10日群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)に生まれる。父・木暮久七、母・志村シヤウの長男。父は、西群馬郡元総社村の農家・木暮巳之吉の二男で、暮鳥が生まれた当時まだ志村家に未入籍。母方の祖父・志村庄平の二男「志村八九十」(しむらはくじゅう)として、出生届け。弟妹にアサ、リウ、仁才、雪江、涼、百合子、明石。

1889年、父・久七が祖父・庄平との確執に耐えきれず千葉県佐原町に出奔、母もその後を追って志村家を出たので、八九十は叔父・木暮作衛に預けられる。後に父母が元総社村に戻り住むに及び、引き取られ、5月1日、父・久七の養子として入籍。貧困の中で少年期を過ごす。

1899年に堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となる。働きながら前橋聖マッテア教会の英語夜学校に通い、受洗。

1902年、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳秘書として青森に転任。

1903年東京府築地の聖三一神学校(後の聖公会神学院)に入学。神学校在学中より詩や短歌の創作をはじめ、前田林外らの雑誌「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表。卒業後はキリスト教日本聖公会伝道師として秋田仙台水戸などで布教活動に携わる。

1909年人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう。

1913年7月、萩原朔太郎室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立。

1914年3月、同社の機関誌「卓上噴水」創刊。

1913年12月、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成。機関誌「風景」には萩原朔太郎、室生犀星の他、三木露風らが参加。

1919年結核のため伝道師を休職。

1924年12月8日、肺結核に悪性腸結核を併発し、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」で死去[1]、40歳。

自然のあらゆるものに神を見いだす彼独特の神学は、しばしば熱狂的な信徒を怒らせ、異端として追放された事も数多くあったという。

萩原朔太郎は「彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない」と、追悼文『山村暮鳥のこと』で述べている。

山村暮鳥の墓

著書

詩集

  • 「三人の処女」1913年刊行
  • 「聖三稜玻璃」1915年刊行 NDL
  • 「風は草木にささやいた」1918年刊行
  • 「梢の巣にて」1922年刊行
  • 「雲」1925年刊行(生前に入稿し、死後に出版)

童謡・童話

  • 童話集「ちるちる・みちる」1920年刊行
  • 「鉄の靴」1922年刊行
  • 「萬物の世界」1922年刊行
  • 「よしきり」1925年刊行
  • 「聖フランシス」

随筆

  • 「小さな穀倉より」1917年刊行

小説

  • 「十字架」1922年刊行

翻訳

  • 「ドストイヱーフスキイ翻訳集」1918年刊行

教科書

山村暮鳥の書いた、「春の河」は、2023年(令和5年)度光村国語教科書に掲載された。[2][3]

脚注

  1. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)343頁
  2. ^ 『光村国語教科書(令和5年度)』光村教科書、2023年2月15日、14頁。 
  3. ^ 『雲』山村暮鳥、1925年。 

関連項目

外部リンク

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