廣田 浩章至誠館大学 女子硬式野球部 コーチ |
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基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
山口県萩市 |
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生年月日 |
(1964-02-26) 1964年2月26日(60歳) |
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身長 体重 |
175 cm 89 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投左打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1985年 ドラフト2位 |
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初出場 |
1987年6月6日 |
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最終出場 |
2000年8月25日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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監督・コーチ歴 |
|
|
廣田 浩章(ひろた ひろあき、1964年2月26日 - )は、山口県萩市出身の元プロ野球選手(投手)。旧登録名は広田 浩章。2021年より九州アジアリーグの大分B-リングスで指導者(2021年は初代監督)を務めた。
NPBで在籍した4球団全て戦力外通告、自由契約となった珍しい経歴を持つ選手である[注 1]。
来歴・人物
プロ入りまで
萩商業高から、社会人野球の電電中国に進む。1983年の都市対抗野球に日本鋼管福山の補強選手として出場。翌1984年の都市対抗野球も川崎製鉄水島に補強され、岩手銀行との1回戦ではリリーフで好投、初勝利を飾る。しかし、2回戦では北海道拓殖銀行に打ち込まれ敗戦投手となった。翌1985年は自チームで都市対抗野球出場を果たし、リリーフエースとして自身としては3年連続の出場となった[1]。
プロ野球選手時代
1985年のプロ野球ドラフト会議にて読売ジャイアンツ(巨人)から2位指名を受けて入団。当時の監督は、後にホークスでも共にプレーすることになる王貞治だった。
1987年から速球とナックルカーブなどを武器に中継ぎとして起用され、同年は30試合に登板[2]。
藤田元司監督復帰初年度1989年、8勝11セーブを記録した。しかしこの年以降は故障癖もあり登板数が激減していった。
長嶋茂雄監督復帰2年目1994年、前年に続き一軍未登板に終わり、オフに巨人から戦力外通告を受ける。
その後、阪神タイガースの入団テストを受けて合格したが、恩師の王監督から誘われ、ホークスに入団。移籍1年目は、開幕早々打球を足に受けて右膝の皿を骨折する[3]などの不運にも見舞われ、公式戦で登板機会は1995年と1996年の在籍2年間で18試合にとどまった。1996年オフに2度目の戦力外通告を受け、野村克也監督の率いるヤクルトスワローズの入団テストを受けて合格。
1997年は野村監督のもと中継ぎとして復活し、ヤクルトのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝および日本一に貢献した。
1998年も52試合に登板して、前年を上回る防御率2.56を記録した。前年に抑えを務めていた伊藤智仁が先発復帰したことや、抑えの高津臣吾が不調に陥ったことを受け、抑え投手としても起用され、チーム最多の7セーブをマークした。
若松勉新監督の下1999年も中継ぎとして、防御率2点台と結果を残したが、同年オフ、チームの若返りのため3度目の戦力外通告を受けた。横浜ベイスターズ[注 2]と大阪近鉄バファローズの入団テストを受け、近鉄のテストに合格。
2000年シーズンは近鉄(新監督:梨田昌孝)でプレーしたが、ヤクルト時代のような活躍はできず、同年オフに4度目の戦力外通告を受け、現役を引退した。
現役引退後
引退後はホークスで打撃投手(2001年 - 2011年)・スコアラー(2012年 - 2020年[4])を務めた。
2020年12月1日、2021年より発足する九州アジアリーグに加入する大分B-リングスの監督に就任することが発表された[5]。1シーズン務め、シーズン終了後の10月21日に2022年シーズンはGM兼投手コーチに変更となることが発表された[6]。2022年シーズン終了後の10月21日にコーチ退任が発表された[7]。GM職については言及されていなかったが、その後11月2日に岡崎郁がGMに就任することが発表されたため[8]、GM職も退任したとみられる。
2023年9月、至誠館大学の女子硬式野球部のコーチに就任した[9]。
選手としての特徴
現役通算成績では、468回3分の2を投げて、被本塁打が22本しかなく、被本塁打率0.42と非常に低い。これは、同時期に活躍した斎藤雅樹(被本塁打率0.75)、桑田真澄(同0.86)、槙原寛己(同0.88)、高津臣吾(同0.96)、佐々木主浩(同0.85)らと比べても格段に低い。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1987
|
巨人
|
30 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
2 |
0 |
-- |
.333 |
173 |
46.0 |
29 |
3 |
11 |
0 |
2 |
32 |
0 |
0 |
9 |
9 |
1.76 |
0.87
|
1988
|
33 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
1 |
-- |
.667 |
202 |
45.2 |
52 |
4 |
20 |
3 |
2 |
47 |
4 |
0 |
24 |
18 |
3.55 |
1.58
|
1989
|
36 |
0 |
0 |
0 |
0 |
8 |
1 |
11 |
-- |
.889 |
201 |
49.2 |
43 |
1 |
16 |
3 |
0 |
45 |
1 |
0 |
16 |
13 |
2.36 |
1.19
|
1990
|
15 |
1 |
0 |
0 |
0 |
3 |
1 |
2 |
-- |
.750 |
127 |
31.1 |
21 |
1 |
14 |
0 |
3 |
21 |
1 |
0 |
6 |
6 |
1.72 |
1.12
|
1991
|
12 |
2 |
1 |
0 |
0 |
1 |
2 |
2 |
-- |
.333 |
137 |
31.2 |
34 |
3 |
14 |
0 |
1 |
18 |
0 |
1 |
20 |
18 |
5.12 |
1.52
|
1992
|
30 |
3 |
0 |
0 |
0 |
3 |
2 |
3 |
-- |
.600 |
293 |
68.2 |
67 |
1 |
24 |
0 |
5 |
38 |
2 |
0 |
25 |
23 |
3.01 |
1.33
|
1995
|
ダイエー
|
16 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
-- |
.000 |
69 |
14.2 |
18 |
1 |
10 |
1 |
0 |
12 |
1 |
0 |
7 |
7 |
4.30 |
1.91
|
1996
|
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
4 |
1.0 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
1 |
9.00 |
1.00
|
1997
|
ヤクルト
|
59 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
3 |
-- |
1.000 |
267 |
63.0 |
58 |
3 |
27 |
1 |
3 |
37 |
3 |
1 |
19 |
19 |
2.71 |
1.35
|
1998
|
52 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
2 |
7 |
-- |
.667 |
230 |
56.1 |
53 |
2 |
12 |
0 |
2 |
22 |
2 |
3 |
19 |
16 |
2.56 |
1.15
|
1999
|
37 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
3 |
0 |
-- |
.500 |
171 |
40.1 |
44 |
2 |
14 |
1 |
0 |
14 |
1 |
1 |
17 |
13 |
2.90 |
1.44
|
2000
|
近鉄
|
20 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
4 |
0 |
-- |
.429 |
99 |
20.1 |
25 |
0 |
13 |
2 |
0 |
3 |
1 |
0 |
18 |
13 |
5.75 |
1.87
|
通算:12年
|
342 |
6 |
1 |
0 |
0 |
29 |
19 |
30 |
-- |
.604 |
1973 |
468.2 |
445 |
22 |
175 |
11 |
18 |
289 |
17 |
6 |
181 |
156 |
3.00 |
1.32
|
記録
- 初登板:1987年6月6日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、7回裏1死に3番手で救援登板、2/3回無失点
- 初奪三振:同上、7回裏に長内孝から
- 初勝利:1987年9月6日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(横浜スタジアム)、5回裏1死に3番手で救援登板、2回2/3を無失点
- 初セーブ:1988年6月18日、対中日ドラゴンズ12回戦(ナゴヤ球場)、9回裏1死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点
- 初先発:1990年4月12日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回1/3を2失点
- 初先発勝利:1991年8月18日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)、7回無失点
- 初完投:1991年8月27日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤ球場)、8回5失点(自責点3)で敗戦投手
背番号
- 28 (1986年 - 1994年)
- 45 (1995年 - 1996年)
- 14 (1997年 - 1999年)
- 51 (2000年)
- 105 (2001年 - 2011年)
- 77 (2021年 - 2022年)
登録名
- 広田 浩章 (1986年 - 1993年)
- 廣田 浩章 (1994年 - 2000年)
脚注
注釈
- ^ 同様のケースで近鉄 - 日本ハム - 阪神 - ダイエーでプレーした柴田佳主也がいるが、こちらは4年連続自由契約。移籍はすべてテスト入団。
- ^ 1996年オフにも横浜の入団テストを受け、当時監督の大矢明彦にシュートを評価されいったん合格が内定したが、既に広島から鈴木健の移籍獲得が決まっていた都合上、廣田とは契約できず、やむなく不合格としたことを後に大矢が明らかにしている[要出典]。
脚注
関連項目
外部リンク