昭登親王(あきなりしんのう、長徳4年(998年) - 長元8年4月14日(1035年5月23日))は、平安時代中期の皇族。花山天皇の第1皇子。官位は四品・中務卿。
経歴
誕生時には父・花山法皇は既に出家しており、母・平子は出自が低かった。更に花山法皇は平子の実母(つまり昭登の祖母)の中務も同時に寵愛して第2皇子・清仁親王を儲けるなど余りにも複雑な事情があったために、異母弟の清仁親王ともども祖父冷泉上皇の子(第5・第6皇子)として育てられた。このため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼んで話題にしたという。
一条朝の寛弘元年(1004年)兄の清仁とともに親王宣下を受ける。執政の左大臣・藤原道長は複雑な背景を有する清仁・昭登への親王宣下に消極的であったが、花山法皇の意向を受けてやむなく従ったという。
寛弘8年(1011年)8月に藤原実資の加冠によって元服して、同年9月に三条天皇の即位に合わせて四品に叙せられる。その後、兵部卿・中務卿を歴任し、兵部卿在任中の万寿4年(1029年)四条油小路で火災が発生した際に親王邸が焼失している[1]。
後一条朝末の長元8年(1035年)4月14日薨去。享年38。最終官位は四品中務卿。
官歴
系譜
※ 『尊卑分脈』による。
脚注
- ^ 『小右記』万寿4年(1027年)2月28日条
- ^ 『御堂関白記』
- ^ a b 『小右記』
- ^ 『小記目録』第17「臨時七」「濫行事(付強姧)」
参考文献
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年(昭和62年)
- 赤坂恒明「冷泉源氏・花山王氏考:伯家成立前史」『埼玉学園大学紀要 人間学部篇 15』埼玉学園大学、2015年(平成27年)