有福温泉(ありふくおんせん)は、島根県江津市(旧国石見国)有福温泉町にある温泉。
泉質
皮膚病やリウマチなどに効果があるとされ、美人の湯として知られていてる[1]。
温泉街
山峡の斜面に雛壇の如く旅館や民家が建ち並び、石段が入り組んでいるその景観が伊香保温泉を彷彿とさせることからから「山陰の伊香保」や「石見伊香保」の異名を取る[2][3]。美しい景観である一方、急傾斜地の崩壊や土石流の恐れがあるとして島根県によって土砂災害特別警戒区域に指定されている[4]。
現在では御前湯、やよい湯、さつき湯の3軒の共同浴場が存在する[5][6]。中でも1928年(昭和3年)に作られた、タイル張りの外観の御前湯が有名である[7]。かつては旧湯や桜湯、女夫風呂という共同浴場も存在した[8][9]。
歴史
開湯は651年(白雉2年)頃で、天竺より入朝した法道という僧侶によって発見されたとされる[5][10][11]。霊湯山福泉寺が建立された建武年間以降は寺院が慈善的に無賃にて人々を宿泊させていた[12]。なお、建武年間以前に温泉がなかったと断言する資料はないものの、それ以前は無料寿仏を安置した小堂であったとされ、起源は建武年間の霊湯山福泉寺が建立された頃であろうとする説も存在する[12][13]。
永禄年間に福屋隆兼が毛利氏に敗北するまでは有福の地は福屋氏の根拠地であった。福屋氏滅亡後は毛利氏の支配下にはいり、吉川元春が支配する地域となった。1580年(天正8年)吉川元春が福泉寺の相続を巡った紛争の仲裁を行った際の寺領安堵状が福泉寺文書として残っている[14]。
元和の頃に盛んに湧出し、諸病に効果があることが知れ渡ったことで浴客が増え、次の寛永の頃には福泉寺を再興したが、徐々に遊山保養の浴客が増えた。そのため慶安中に福泉寺は俗界となった湯谷[注釈 1]を離れ有福集落[注釈 2]に移転した。これ以降有福温泉において宿屋が建てられるようになった[12]。なお、福泉寺においては慶安年間に山が崩れて温泉が溢れて往来困難のため本尊を善徳寺に移したとする説も存在する[13]。
宝暦の頃になると温泉は湯元河野氏の管理となり、このころより営利的に営業されることとなった[12]。1813年(天正10年)に当地を訪れた飯田篤老によると、当時の御前湯は平民が入ることは許されていなかったという[15]。
1889年(明治22年)に当時の村長らが村債を興して河野家から温泉を買い入れ、有福村営となる[16]。
大正の頃には16軒の旅館があり、そのいずれも内湯を有していなかった。当時の有福温泉は農村の人を華客としていたため土産物店が極めて少なく、3軒の飴屋と2軒の玩具屋のみであった[12]。
1950年代までは内湯を持たない小規模な旅館のみが立ち並んでいた当地であったが、徐々に近代的なホテルが建つようになり、1970年頃には半数の旅館が内湯を持つようになった[17][9]。広島からのアクセスの良さから広島の団塊の世代は一度は行ったことがあろうと言われるほどの温泉地へと成長し、1960年から1970年代には年間30万人を集客している[18][19]。1967年(昭和42年)6月には被爆者の保養施設である原爆被爆者有福温泉療養研究所が開設されている[20]。
療養者向きの湯治場としての側面がある一方で他の温泉と同様に有福温泉においても花街が形成されており、古くから温泉芸妓がいたほかヌードスタジオやトルコ風呂も存在した[21][22][23][24][25][26]。
その後、観光客の減少やニーズの変化などにより1990年代になると10万人にまで旅行客が減少。状況を打開すべく2008年頃より「旅館樋口」「小川屋旅館」「三階旅館」の3旅館の経営者が中心となり共同事業として衰退しつつある温泉街の再建に取り組んだ[19]。1億7千万の再建計画を作成し有福カフェや貸切風呂、有福神楽の神楽殿の新設などの整備を行ったほか、大学生のインターンシップの実施や「旅館ぬしや」を加えた有福温泉の旅館4軒の空室を一括検索できる共同ウェブサイトの構築も行った[19]。これによって若い女性とカップルが増え、中高年の利用が多かった有福温泉の客層は劇的な変化を遂げ、減少を続けていた入り込み客数も年間6万5千人で下げ止まった[27]。
しかし、2010年(平成22年)8月8日には旅館3棟と民家1棟が全焼する火災が発生し[28][注釈 3]、2013年(平成25年)には記録的豪雨[29][30][注釈 4]や原爆被爆者有福温泉療養研究所の閉鎖[注釈 5]などが相次いだ。2017年には温泉街再生への取り組みの中心を担っていた「旅館樋口」「小川屋旅館」が廃業し、共同事業の運営をしていた有福振興が倒産したことにより有福カフェも閉店した[31][32]。2010年まで約2万人いた観光客は2017年以降1万人を割った[10][33]。
その後2019年に「わたずや旅館」が廃業し[34]、有福温泉の旅館は「よしだや」「三階旅館」「旅館ぬしや」の3軒のみとなった。地元自治会の平均年齢も約67.5歳となり担い手不足も深刻の問題となっていた[33]。
2021年に市の再生計画が官公庁補助事業に採択され、官民一体となった再生事業が始動した。官公庁の補助金などで廃業した旅館3棟をゲストハウスや露天風呂付旅館、カフェ[35][注釈 6]に改装し[36]、共同だったトイレを部屋専用にするなど既存の旅館の修復にも取り組んだ[34][37]。その後もペットと泊まれる宿やガレージ付き宿などがオープンしている[38]。
ゆかりの人物
アクセス
山間部にあるために過去の災害時に孤立し、陸の孤島となったことがある[56]。特に旧旭町方面の島根県道50号田所国府線は有福温泉の公式ポータルサイトにおいて「大変危険ですのでご利用はお控えください」との案内がされている[57]。
かつては都野津駅からもバスが出ていた他、波子駅と川戸駅を結ぶ国鉄バス川本線[注釈 7]も有福温泉を経由していた[58][59][60]。また、広島からの直通のバスも運行されていた[61]。
周辺
- 上有福のイチョウ - 市指定天然記念物[62]
- 有福温泉・湯の町神楽殿
- 本明城跡 - 市指定史跡[63]
- 有福大仏[64]
脚注
注釈
- ^ 有福温泉のあるあたりの小字
- ^ 現在も福泉寺が存在している有福郵便局などがある集落のこと。
- ^ これによって「たじまや旅館」「寺部屋(てらへや)旅館」が全焼した。出火元となった「和田屋旅館」は火災当時にはすでに閉業していた。
- ^ この豪雨によって和食「大福」が廃業したほか、小川屋旅館では1階が浸水し半月ほどの営業休止を余儀なくされた。
- ^ 施設からの分湯料がなくなることによって共同管理組合の収入が減少するなどの影響があった。
- ^ このカフェは有福カフェの廃業に伴って有福を離れた有福カフェの元店長が再び有福に戻って開業した。
- ^ 1953年に運行を開始し、1969年11月に跡市から有福温泉および波子駅までの区間が廃止された。
出典
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、有福温泉に関するカテゴリがあります。
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