油ヶ淵(あぶらがふち)は、愛知県碧南市と安城市の境にある湖沼。愛知県唯一の天然湖沼である[2]。二級河川に指定されている。
名称
「油ヶ淵」の名前は、かつて内海だった油ヶ淵の湖畔(碧南市油渕町)に住んでいた母子の伝説(息子の漁の安全を祈る母のために、淵の主である龍が娘の姿に化け、油を買いに来て岬を照らしたという伝説)に基づく[3]。
地理
周囲6.3 km、面積0.64 km2、平均水深は3 m。海水と淡水の混じり合った汽水湖である[2]。流入河川には長田川、半場川、朝鮮川、稗田川があり、高浜川および新川を通じて衣浦湾へ流出している[2]。湖畔(碧南市側)には油ヶ淵に接していることに由来した「油渕町」という地名がある。
周辺には日本モーターボート選手会常設訓練所・勤労青少年水上スポーツセンターや油ヶ渕遊園地(花しょうぶ園)がある。
ギャラリー
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1935年(
昭和11年)に流出河川として開削された高浜川
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安城市東端町
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油ヶ渕遊園地(花しょうぶ園)
歴史
油ヶ淵の成立
現在の油ヶ淵一帯はかつて、洪積台地の開析谷に連なる溺れ谷で、「北浦」と呼ばれる[2]入り江になっていた。
1605年(慶長10年)に本多康俊(西尾城主)が幕命を受け、米津清右衛門を奉行として、矢作新川の開削を行う[2]。木戸(安城市)から米津(現在の西尾市)の間に新たな堀割(長さ12町・幅20間・深さ8間)が築かれたが、矢作川上流から流れる土砂が南の入海を埋めるようになり、鷲塚は半島に変わった。また、湖面は矢作川の河床より低いことから、沿岸に洪水被害が相次ぐようになったため、江戸幕府は1644年(正保元年)に米津 - 鷲塚間に堤防を築き[2]、入海の一部を切断する形で油ヶ淵が誕生した。
排水路の開削
しかしその後、長田川や稗田川などの水が油ヶ淵に注ぐようになり、沿岸の村々が大雨の際に浸水被害を受けるようになったため[2]、江戸の商人である伏見屋又兵衛が新たな排水路建設を行い、油ヶ淵の周囲と矢作川沿いに新田(伏見屋新田)を築いたほか、1701年(元禄14年)に大浜村千福で排水する新しい水路を計画。1704年(宝永元年)までに現在の蜆川・新川に相当する排水路が建設された[2]。
1908年(明治41年)には油ヶ淵を水源とする平和用水が完成し、1975年(昭和50年)まで農業用水として用いられた。豪雨時に沿岸の水田への冠水被害が続いたため[2]、1935年(昭和10年)には新たな開削工事により、高浜川が完成した。1967年(昭和42年)以降は総合遊園地として整備が進み、釣り場・花ショウブ園などが設けられた。
公園の整備
高度経済成長期には工業排水や生活排水により汚濁が進み、東海地方では佐鳴湖(静岡県浜松市)と並んで汚い湖沼とされた。その後は近隣自治体により浄化が進められるとともに、県営都市公園の油ヶ淵水辺公園として整備された。
脚注
参考文献
関連項目
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油ヶ淵に関連するカテゴリがあります。