湯浅 治郎(ゆあさ じろう、1850年11月24日(嘉永3年10月21日) - 1932年(昭和7年)6月7日)は、日本の明治から昭和戦前期にかけての政治家・実業家・社会運動家。雅号は雲外。弟は詩人の湯浅吉郎(半月)。中村栄助、大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた。
経歴
初期
上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋[1]を経営する湯浅治郎吉・茂世の長子として生まれる。実家の有田屋は父・治郎吉の代に南京米や魚油の輸入・蚕紙の輸出・販売も手がけていた。元治元年(1864年)に有田屋3代目当主となる。
福澤諭吉の著書を読んで教育の重要性を認識した湯浅は、明治5年(1872年)に安中に私立図書館「便覧舎」を設置[2]し、図書館事業の先駆となった。
キリスト教入信
同郷の新島襄と親しく交わり、明治11年(1878年)彼を中心に安中教会が建設された時にキリスト教の洗礼を受けた[3]。
政治家時代
翌年、碓氷郡書記、さらに明治13年(1880年)には群馬県会議員となり、同16年(1893年)には県会議長に就任して廃娼運動の先導役となった。明治16年(1883年)5月に東京で行われた第三回全国基督教信徒大親睦会の幹部になる。明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙に群馬県第5区から立候補して当選、衆議院議員(自由党所属)となるも、明治27年(1894年)国政から引退する[4]。
社会・文化運動
その後は家業の発展と社会・文化運動に力を尽くす。安中小学校設立に関与し、新島の同志社や義弟・徳冨蘇峰の民友社を経済的に支援したほか、同志社・日本鉄道・日本組合基督教会などの理事を務めた。また、警醒社(後に警醒社書店)を設立して内村鑑三らの出版事業を助けた。警醒社では『六合雑誌』を刊行している。明治25年(1892年)には京都に移住し、新島後の同志社理事として立て直しに尽力した。
また文化人としても活動し、海老名弾正、山室軍平、深井英五などと親交があった。
晩年は家業を息子・三郎に譲って同志社のある京都や警醒社のある東京で過ごした。昭和7年(1932年)6月7日、肺炎で死去。83歳。墓所は多磨霊園(7-1-15)。
親族
大変な子だくさんで、最初の妻・登茂子との間に6人、後妻の初子(徳富蘇峰・蘆花の姉)との間に8人の子を儲けた。
注釈
- ^ 2009年現在も盛業中。有田屋オフィシャルページ
- ^ 中仙道を挟んで有田屋社屋の向いに「便覧舎跡」の石碑が残されている。
- ^ 後年、新島襄の没後30年を記念して建てられた新島襄記念会堂の建設にもかかわっているとされる。安中教会公式ページ
- ^ 『同志社山脈』 180-181頁
参考文献
外部リンク
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