牛久城(うしくじょう)は、茨城県牛久市城中にあった日本の城。
概要
牛久城は、城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に築造された。この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守を持たない典型的な遺構を残している。ここは、後北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られている。
天正年間、多賀谷氏と岡見氏の係争の舞台となり、多賀谷氏を支持する佐竹氏と、岡見氏を支持する北条氏の間での対立の地ともなり、堅城として知られた。
天正14年(1586年)から翌年にかけて、下妻の多賀谷氏によって、岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城させられたが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高城氏などの援軍を得て守りきった。その後防衛のため城主岡見治広は北条軍の駐留を許す事になる。しかしながら、牛久城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城に至った。
豊臣秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原の戦い後に由良氏は減封となり、元和9年(1623年)に牛久城は廃城になった。
その後、江戸時代に入り寛永5年(1628年)に山口重政が1万5千石で牛久に封じられ、牛久藩が成立する。そして、2代藩主山口弘隆によって寛文9年(1669年)に旧牛久城外郭内の西端、牛久沼に接する標高約20mの台地の端に新たに牛久陣屋が築かれ、以降幕末に至る。
現在は、外郭部は開発の手が入り保存状態はよくないが、一部に空堀および土塁が残る。また大手門跡は市の史跡に指定されている[1]。
沿革
- 牛久城は、天文後半(1550年前後)の佐竹氏の南進を契機に岡見氏によって築かれた。
- 永禄末から元亀(1570年前後)になると、佐竹氏と結んだ多賀谷氏からの攻撃が激しくなった。
- 元亀元年(1570年)谷田部城が破られ、城主の岡見主殿は牛久城へ逃れた。
- 天正5年(1577年)以降、北条氏が牛久城の防御と多賀谷氏との戦いに備え、井田氏、豊島氏、高城氏などの在番衆が牛久城に派遣された。
- 天正15年(1587年)多賀谷氏が牛久城と東林寺城の西隣に八崎城を築城し、程なく足高城が落城し、牛久城と東林寺城が侵攻された。
- 天正18年(1590年)豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城した。
- その後、豊臣秀吉によって由良国繁の母に牛久城が与えられ、由良国繁が城主になったが、元和9年(1623年)牛久城は、廃城になった。
- 寛永5年(1628年)に山口重政が一万五千石で牛久に封じられる。
- 寛文9年(1669年)に山口弘隆によって牛久陣屋が築かれる。
構造
- 牛久城惣構え
牛久城は東西約800m、南北約1kmにおよぶ城中全体を取り囲んだ惣構えをもっている。三方を牛久沼に囲まれた台地の上にあり、主郭を中心として中城と外郭の外郭部を取り囲む防禦ラインが築かれている。城のある台地は浸食谷によっていくつかの舌状台地になっており、城の東と西に牛久沼の水が入り込んでいて防御に適している。更に外部と連絡するのは北側の台地上を行くしかないのであるが、その台地がかなり細くなっているため、ここを切断すると台地全体が独立し、さらに防御が楽であったことが分かっている。
- 主郭の構造
牛久城の主郭部は、地名が城山とされている部分にある。南端の一部が土採りにより失われているが、主郭部に空堀、土塁が残っている。主郭はさらに郭で分けられている。一番北の郭は北と南に堀を入れ、東西に長くなっている。また、左右には土塁が残っていて、虎口の機能を持っていたことがうかがえる。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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