献公(けんこう)は、秦の第24代公。姓は嬴(えい)、諱は師隰(ししつ)。霊公の子。
生涯
出公2年(紀元前385年)、庶長が霊公の子である献公を河西から迎えて秦公に就かせ、出公とその母を殺して深淵に沈めた。また、晋がこの混乱に乗じて河西の地を奪っていった。
献公元年(紀元前384年)、献公は殉死を禁じ、翌年(紀元前383年)には、櫟陽(れきよう)に都を遷した。
献公4年正月庚寅(紀元前382年12月6日)、子の渠梁(のちの孝公)が生まれる。
献公11年(紀元前374年)、周から太史儋がまみえ、「17年経つと秦から覇王が出ましょう」と告げてきた。
献公21年(紀元前364年)、章蟜は晋と石門で戦い、6万人を斬首し、周の天子から黼黻(ほふつ)の衣服[2]を賜った。
献公23年(紀元前362年)、魏・晋と少梁で戦い、その将の公孫痤を捕虜とした。同年、献公が薨去し、子の渠梁が立って秦公(孝公)となった。
脚注
- ^ 『史記』秦本紀では在位24年としているが、秦始皇本紀では在位23年としている。
- ^ 古代中国の礼服。
参考資料
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君 |
- 非子 前900-前858
- 秦侯 前857-前848
- 公伯 前847-前845
- 秦仲 前844-前822
- 荘公 前821-前778
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公 |
- 襄公 前777-前766
- 文公 前765-前716
- 憲公 前715-前704
- 出子 前703-前698
- 武公 前697-前678
- 徳公 前677-前676
- 宣公 前675-前664
- 成公 前663-前660
- 穆公 前659-前621
- 康公 前620-前609
- 共公 前608-前604
- 桓公 前603-前577
- 景公 前576-前537
- 哀公 前536-前501
- 恵公 前500-前491
- 悼公 前490-前477
- 厲共公 前476-前443
- 躁公 前442-前429
- 懐公 前428-前425
- 霊公 前424-前415
- 簡公 前414-前400
- 恵公 前399-前387
- 出公 前386-前385
- 献公 前384-前362
- 孝公 前361-前338
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