童子切 |
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太刀 銘安綱(名物童子切安綱)刀身 |
指定情報 |
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種別 |
国宝 |
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名称 |
太刀銘安綱(名物童子切安綱)
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附 糸巻太刀、梨子地葵紋散太刀箱 |
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基本情報 |
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種類 |
太刀 |
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時代 |
平安時代 |
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刀工 |
安綱 |
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全長 |
99.99 cm[1] |
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刃長 |
80.3 cm |
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反り |
2.7 cm[1] |
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先幅 |
1.91 cm[1] |
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元幅 |
2.91 cm[1] |
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所蔵 |
東京国立博物館(東京都台東区) |
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所有 |
独立行政法人国立文化財機構 |
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番号 |
F-19931[2] |
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童子切(どうじぎり[注 1])は、平安時代の伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀(太刀)。童子切安綱(どうじぎりやすつな)とも呼ばれる。日本の国宝に指定されている。
概要
国宝指定名称は「太刀銘安綱(名物童子切安綱)
」で、附(つけたり)として「糸巻太刀、梨子地葵紋散太刀箱」も指定されている。附指定まで含めた訓みは「たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしたちばこ」。
天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている。
清和源氏の嫡流である源頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で斬り落としたという伝承から「童子切」の名がついた。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には、「名物 童子切」として由来と共に記載されている。
現在では制作年代は酒呑童子伝説(10 - 11世紀)の時期よりも後なのではないかとの見解もある。刀剣研究家の佐藤寒山は、「大江山物語はフィクションが多く含まれていることは否めないだろう。しかし童子切は享保名物帳にあることでも、同作の安綱在銘の太刀が比較的に多く現存する中で、安綱中第一等の作であるのは明らか」と記している。
伝来
伝承
慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』には『太平記』からの引用が見られる[9]。『太平記』によると、伯耆国大原五郎大夫安綱が打った太刀であり、坂上田村麻呂が鈴鹿御前との戦いに用いた後に伊勢神宮に納められ、頼光が参宮した際に夢中で託宣があり伊勢神宮より下賜った源氏累代の太刀とされる。しかし、その後の渡辺綱が牛鬼を切ったという逸話は綱の持つ鬼切に引用されている。また酒呑童子絵巻の中には酒呑童子の首を絶つに用いた太刀をすでに鬼切丸と称すものもある[原 1]。
かつて伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂にこれを奉じたものだという。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したという。
源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された。
大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。
そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという。
— 『太平記』より大意
また、酒呑童子の説話を書いた絵巻や絵詞などの諸本では、源頼光が酒呑童子を斬った太刀として「血吸」(血すい、ちすい)の名前が登場する[原 2][原 3][原 4]。
来歴
室町時代には足利将軍家が所蔵していたとされている。
足利義昭から豊臣秀吉に贈られたとされ、さらに徳川家康とその子である徳川秀忠へと受け継がれた。忠直から松平光長を経て津山藩の松平家に継承された。
光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている。
江戸時代に町田長太夫という試し斬りの達人が、6人の罪人の死体を積み重ねて童子切安綱を振り下ろしたところ、6つの死体を切断しただけではなく刃が土台まで達した、という逸話が残っている。
明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されている。文化財保護法に基づく国宝に指定されたのは1951年(昭和26年)である。
太平洋戦争終戦後、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となった。1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されている[12][13]。
作風
刀身
刃長2尺6寸5分(約80.3 cm)、反りハバキ元にて約1寸(3.03 cm)、横手にて約6分半(1.97 cm)、重ね(刀身の厚さ)2分(約0.6 cm)。造り込みは鎬造、庵棟。腰反り高く小切先。地鉄は小板目が肌立ちごころとなり、地沸が厚くつき、地斑まじり、地景しきりに入る。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し、金筋入り、匂口深く小沸つく。帽子は小丸ごころに返り、掃き掛ける。茎は生ぶ。先は栗尻。鑢目は切。目釘孔1つ。佩表に「安綱」二字銘を切る。制作は平安時代後期とされる[14]。
外装
刀身と共に金梨地鞘糸巻拵えの陣太刀様式の外装が現存しているが、この拵えは桃山時代に製作されたものであり、それ以前に収められていた拵えがどのようなものであったのかは判然としていない。
解説
鬼切との関係
源氏重代とする太刀は童子切の他にも存在が確認される。京都の北野天満宮の鬼切安綱(鬼切丸・髭切とも呼ばれる)[15]や、多田満仲を祀った兵庫県川西市の多田神社の鬼切丸である[16]。
鬼切安綱の銘は、安の字が国に見えるよう改竄してある。布施幸一は、鬼切安綱の銘の改竄の背景には童子切安綱や鬼丸国綱の存在が影響したことは否定できないだろうとしている。豊臣秀吉が名刀を蒐集していく過程で類いまれな安綱の太刀を入手し、有力な鑑定家であった本阿弥光徳が関与して『太平記』の鬼切が安綱作であったことや、大江山の酒呑童子の説話が加味されて童子切安綱という新たな名物を誕生させたのでないかと仮説を立てて推測している。桃山時代から江戸時代初期にかけて童子切安綱が世に知られたことで、最上家では鬼切安綱に気後れを感じ、安綱銘を国綱銘に改竄して、敢えて鬼切丸と呼称したのではないかとする説である。
最上義光の時代には、名刀や名物刀剣の存在が大名の間で知れ渡っていたと思われ、安綱の名を見出すことができないが国綱の名があり、国綱の太刀は希少価値があり優秀な作品の一つとして選定されていた。最上家では童子切安綱という新たな名物が生み出されたのと相まって鬼丸国綱に紛れるような「鬼切丸国綱」を創出したのではなかろうかと私見を述べている。
天光丸との関係
『河内名所図会』によると、天光丸は同じ安綱作の鬼切丸[注 6]と同鉄で作られた「雌雄の太刀」という。
脚注
原典
注釈
- ^ 「童子切」の訓み方については、文化庁[3]・東京国立博物館[4]・『日本刀大百科事典』いずれも「どうじぎり」としている。一方、佐藤寒山は「どうじきり」としている。
- ^ 『室町時代物語大成』第2巻(あめ-うり)
- ^ 『室町時代物語大成』第2巻(あめ-うり)
- ^ 『室町時代物語大成』第3巻(えし-きさ)
- ^ 布施幸一『歴史館だより No.13』最上家伝来の宝刀「鬼切丸」の謎
- ^ 『羽曳野市史』第4巻によると、この鬼切丸は「源家重宝鬼切丸 一名童子切」であると記述がある
刀剣用語の説明
- 肌立つ - 「肌約(つ)む」の反対語で、地鉄の鍛え肌が目立つものをいう。
- 地沸 - 刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で1粒1粒見分けられる程度に荒いものを沸(にえ)、1粒1粒見分けられず、ぼうっと霞んだように見えるものを匂(におい)と称する。沸も匂も冶金学上は同じ組織である。沸と同様のものが地の部分に見えるものを地沸と称する。
- 足 - 地と刃の境から刃縁に向かって延びる短い線状のものを足、同様のものが刃中に孤立しているものを葉(よう)という。
- 金筋、地景、地斑 - 刃中の沸がつらなって線状となり、光って見えるものを指す。同質のものが地の部分に現れるのを地景といい、地鉄の鍛え目に沿って斑紋状に見えるのを地斑という。
- 匂口 - 地と刃の境目。これが線状に細く締まっているものを「匂口締まる」と言い、その他作風によって「匂口深い」「匂口冴える」「匂口うるむ」等と表現する。
- 帽子 - 切先部分の刃文のことで、流派や刀工の個性が現れやすく、鑑賞、鑑定上も見所となる。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク