第三十一号型哨戒艇[4](だいさんじゅういちごうがたしょうかいてい、旧字体:第三十一號型哨戒艇)は、日本海軍の哨戒艇。
正しくは、第四十六号哨戒艇は含まれないが、戦後の資料では合わせて同型艦10隻とされることもある[注釈 2]。
概要
二等駆逐艦の樅型駆逐艦9隻、若竹型駆逐艦1隻が1940年(昭和15年)4月に雷装のすべてと2番主砲を撤去し、新設された哨戒艇籍に編入された。
開戦直前[3]になって第三十二号から三十九号は旧2番主砲を復帰させ、甲板上に兵員室を設けて陸戦隊の居住区とし、旧3番主砲を撤去して後部甲板に大発1隻を搭載し艦尾には発進用のスロープを設けた。
開戦時、大発搭載設備を持たない2艇は佐伯防備隊に所属し、大発搭載艇は各地の攻略作戦に従事した。開戦直後のウェーク島攻略作戦で、第四艦隊所属の第三十二号哨戒艇(旧葵)、三十三号哨戒艇(旧萩)は自ら擱座して陸戦隊を揚陸させるなど活躍、2隻は山本五十六連合艦隊司令長官より感状を授与された[5]。
大戦後半には船団護衛任務が多くなり敵航空機や潜水艦により戦没、終戦時に残っていたのは第三十六号(旧「藤」)1隻だけだった。
艦番は四十から四十五が欠番になっており、太平洋戦争が無ければ他の若竹型駆逐艦も哨戒艇に編入する計画だったとされる[6]。
同型艇
哨戒艇への編入は全て1940年(昭和15年)4月1日[7]。
- 第三十一号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「菊」[7]。1944年3月30日、パラオ大空襲で戦没(パラオ)
- 第三十二号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「葵」[7]。1941年12月23日、ウェーク島攻略作戦時に第三十三号哨戒艇と共に擱座(ウェーク島)[5]。
- 第三十三号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「萩」[7]。1941年12月23日、ウェーク島攻略作戦時に第三十二号哨戒艇と共に擱座(ウェーク島)[5]。
- 第三十四号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「薄」[7]。1944年7月3日、トラック在泊中、空爆を受けて沈没[8]。[注釈 3]
- 第三十五号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「蔦」[7]。1942年9月2日、航空機の攻撃で戦没(ソロモン)
- 第三十六号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「藤」[7]。終戦時スラバヤで残存。戦後は復員輸送に従事。輸送中に一時インドネシア人民治安軍に奪取される。1947年オランダ海軍が接収し解体。
- 第三十七号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「菱」[7]。1942年1月24日、バリクパパン沖海戦で米駆逐艦4隻と交戦し沈没(バリクパパン)
- 第三十八号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「蓬」[7]。1944年11月25日1時15分頃、マニラから高雄への輸送作戦に従事するさんとす丸(戦艦「武蔵」生存者便乗)の護衛中、バシー海峡にて米潜「アトゥル」の攻撃で戦没した。艦橋および機械室付近に魚雷2本を受け、1分ほどで沈没。哨戒艇長高田又男大尉以下、145名が戦死した[9]。後年、高雄の道教霊廟、鳳山紅毛港保安堂にて神艦として祀られるようになる[10]。
- 第三十九号哨戒艇
- 旧樅型駆逐艦「蓼」[7]。1943年4月23日米潜「シーウルフ」の攻撃で戦没(台湾東方)
- 第四十六号哨戒艇
- 旧若竹型駆逐艦「夕顔」[7]。1944年11月10日米潜「グリーンリング」の攻撃で戦没(石室崎沖)
画像
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注釈
- ^ 『日本の軍艦 第13巻』p168によると非常時には25ノットまで可能。
- ^ 樅型駆逐艦からの編入9隻。若竹型駆逐艦から1隻。海軍の公式類別上では第四十六号哨戒艇に艦型名は存在しないが、樅型と若竹型の違いは全幅が異なる程度なので同型艦10隻として扱っている(『日本の軍艦 第13巻』p168による)。
- ^ 同艦は多くの資料で1943年3月6日、カビエン南方にて特務艦矢風と衝突し沈没したとされるが、実際は前部マスト直前の部分で船体が分断されて前部が沈没。後部は大破しながらも曳船により曳航されトラックに入港。同地にて仮設艦首が取り付けられ、停泊していたとされる。
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和11年12月1日現在10版内令提要追録第1号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071968200。
- 『昭和14年6月1日現在10版内令提要追録第5号原稿 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13071983400。
- 『昭和15年1月~12月達/4月(1)』。Ref.C12070106900。
脚注
関連項目