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藤原公信

 
藤原公信
時代 平安時代中期
生誕 貞元2年(977年
死没 万寿3年5月15日1026年6月2日
官位 従二位権中納言
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原為光、母:藤原伊尹の娘
養父:藤原斉信
兄弟 誠信斉信藤原義懐室、忯子、長信、尋光道信公信、寝殿の御方、儼子、穠子、良光、藤原隆家室、安芸守家平室
養兄弟:永慶良斉源頼清
源宗家室藤原長家源定宗室
経任斉長
藤原光子(藤原正光の娘)
藤原泰兼の娘
実康、男子、保家、季貞、公覚、源良宗
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藤原 公信(ふじわら の きみのぶ/きんのぶ)は、平安時代中期の公卿藤原北家太政大臣藤原為光の四男。官位従二位権中納言。兄で大納言藤原斉信の養子となる。

経歴

一条朝正暦6年(995年従五位下叙爵し、翌長徳2年(996年侍従に任ぜられる。長徳4年(998年右兵衛佐を経て、長徳5年(999年)従五位上・右近衛少将に叙任される。その後も、長保3年(1001年正五位下、長保5年(1003年従四位下、長保6年(1004年)右近衛中将、寛弘5年(1008年)従四位上と、近衛次将を務めながら昇進する。

寛弘6年(1009年蔵人頭に補せられると、寛弘7年(1010年)左近衛中将、寛弘8年(1011年正四位下と昇進を続ける。同年6月に一条天皇が崩御して蔵人頭を止められるが、同年12月に今度は新帝・三条天皇の蔵人頭となり、長和2年(1013年参議に任ぜられ公卿に列した。

議政官の傍らで、春宮敦良親王春宮権大夫兵衛督を兼帯し、この間に長和4年(1015年従三位寛仁元年(1017年正三位、寛仁5年(1021年従二位と昇進している。治安3年(1023年権中納言に至る。

万寿3年(1026年)正月に室の藤原光子が没すると、公信も5月8日頃より流行の病に罹り、15日に薨去享年50。養父・藤原斉信は「この君にさへ後れぬること」と嘆いて、泣きながら葬送の準備を指示したという。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原為光
  • 母:藤原伊尹の娘
  • 妻:藤原光子(?-1026) - 藤原正光の娘、藤原妍子女房御匣殿
    • 男子:藤原実康
    • 男子:[4]
  • 妻:藤原泰兼の娘
    • 男子:藤原保家(?-1064)
  • 妻:藤原賢子  

  ・女子:源良宗室(1013?-?)[5]

  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原季貞
    • 男子:公覚

今鏡』では良宗の子の知房を大弐三位の外孫としており、良宗の妻の母親は紫式部の娘・藤原賢子となる。したがって良宗室となった女子は藤原公信と藤原宣孝の娘大弐三位が両親と推測される。『栄花物語』「楚王の夢」に見える大弐三位の配偶者の官職名が「左衛門督」とあるために、同じような官職にあった藤原兼隆と混同したものと考えられる。公信なら「左兵衛督」とあるべきところである。

脚注

  1. ^ 「長徳2年大間書」『続群書類従』10下702
  2. ^ a b c d 『近衛府補任』
  3. ^ 『権記』長保2年正月29日条
  4. ^ 栄花物語』第二十七「ころものたま」。
  5. ^ 栄花物語』二十七「ころものたま」によれば、藤原正光の娘光子所生の子女には実康とその弟、女子が一人いたといい、その女子を山中裕らはこの源良宗室である可能性を指摘している(『日本古典文学全集』)。

出典

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