藤原 資平(ふじわら の すけひら)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小野宮流、権中納言・藤原懐平の次男。右大臣・実資の養子。官位は正二位・大納言。
経歴
時期は不明ながら、叔父で後の右大臣・実資の養子となる。実資は小野宮流の嫡流を継いでいたため、資平は三歳上の実兄経通と並んで官途を昇ることとなった。
一条朝の長徳3年(997年)従五位下に叙爵し、翌長徳4年(998年)侍従に任官する。のち、左兵衛佐・少納言を歴任する一方、養父の引き上げもあり順調に昇進し、寛弘4年(1007年)正五位下、寛弘6年(1009年)従四位下、寛弘9年(1012年)従四位上に叙せられている。
三条朝に入ると、長和2年(1013年)左近衛権中将に遷り、長和4年(1015年)正四位下・蔵人頭に叙任される。三条天皇は廟堂の首班である左大臣・藤原道長とは疎遠であった関係から実資を相談相手とすることが多く、資平の蔵人頭補任も道長との押し問答のようなやり取りの挙句に、天皇が強行したものであった。この頃は三条天皇の眼病が進行し、その譲位が予想されていた時期でもあったため、天皇に近侍する蔵人頭の職であった資平も、重大な場面に立ち会うこともあった。『小右記』によると、同年4月29日には、資平の見たこととして、道長が三条天皇に譲位を要求したが天皇は断ったことをうかがわせる一文が記されている。
長和5年(1016年) 三条天皇の譲位によって後一条天皇が即位するが、資平は引き続き蔵人頭を務め、翌長和6年(1017年)には参議に任官し公卿となった。しかし、三条上皇との関係に基づく活動はその後もあったらしく、寛仁5年(1021年)に中宮・妍子が皇太后となると、皇太后宮権大夫となって近侍している。ほかに議政官として侍従や左近衛中将を兼帯し、寛仁5年(1021年)従三位、治安2年(1022年)正三位と昇進している。
長元2年(1029年)に権中納言となって以降、後一条・後朱雀・後冷泉の三朝30年以上これに留まり、その間の寛徳3年(1046年)右大臣となっていた養父実資が、次いで兄の経通も永承6年(1051年)に没するなどし、小野宮流の嫡流としての重責は資平が担うこととなっていった。長男の資房は長久3年(1042年)には参議となっていたが、天喜5年(1057年)に先立たれるという悲劇もあった。
また、衰えたとはいえ、資平の頃までは小野宮流は上流貴族の一端を占める権勢家として認識されていたらしく、天喜元年(1053年)の伊賀国で本家の威光を背景に、税を納めない荘園の立券を停止することを命じている官宣旨では、藤原教通・能信・信長らの道長の子孫(御堂流)と並んで、資平の荘園も挙げられており、寄進によって税を逃れることができる家格を持っていたことが窺える。
康平3年(1060年)関白左大臣・藤原頼通が子息の師実を内大臣に引き上げるため、太政大臣に移ったことに伴い、翌康平4年(1061年)資平は76歳にして権大納言に昇進する。康平8年(1065年)には大納言に至った。
治暦3年(1068年)12月5日薨去。享年82または83。最終官位は大納言正二位兼皇太后宮大夫。養父実資と同様に長寿であったのは、実資が『小右記』で記しているように健康に関心があり、資平にもそれを守らせていたためと思われる。
官歴
『公卿補任』による。
系譜
脚注
- ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
- ^ 朝日新聞社 編『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年。
参考文献