初のセルフ・プロデュースやセルフ・アレンジとなる3作目『ON THE CITY SHORE』をリリースし、本作からの先行シングル「スカイ・ハイ」は、初めてタイアップとしてSchickの男性用ひげ剃りのテレビCMソングに採用された。この曲は自身にとっても代表曲となり、ライブでも定番曲として取り上げられているほか、CMも以後3年にわたって使われた。角松自身も本作でプロとして自信がついたと語っている。学園祭やライブハウス出演など地道な活動も功を奏し、アルバムはオリコンチャート最高位21位を記録。それまでオリコンチャート圏外だった1・2作目以上に好調な売れ行きを示し、初のホールコンサートも敢行するなど活動が軌道に乗り始めていく。
それらの成功をバックに角松は、3枚目のアルバム発売直後、デビュー以来の夏や海といったリゾート感覚のシティ・ポップス路線から離れ、自身の音楽的趣向であったダンス・ミュージックやニューヨークのミュージック・シーンで流行る最先端のファンクに傾倒していく。その曲調に合わせて歌詞のテーマも次第に夜の街へと移り、1983年に12インチ・シングル「DO YOU WANNA DANCE」、続く1984年のアルバム『AFTER 5 CLASH』で、その世界を示した。商業的成功は続き、角松はこの路線に自信を深めて追求していく。
そして、杏里の仕事で得た印税を使い、過去に自身が影響を受けてきたものすべてと決別して誰もやっていない新しい音楽作りのため、ニューヨークへ長期滞在するようになり、現地での流行をいち早く取り入れた音楽活動を行うようになっていった。7&12インチ・シングル「GIRL IN THE BOX」や代表作となる1985年のアルバム『GOLD DIGGER』は、ターンテーブルによるスクラッチやラップがいち早く取り入れられた[注釈 12]。1980年代半ば、アルバムは発売ごとにチャート上位にランクされ、全国を縦断する大規模なコンサートツアーも出来るようになった(特に都市部では複数公演を敢行するも発売即ソールドアウトを引き起こすほどの人気となる)。しかし、商業的成功の黄金期とも言えるこの時期、アルバムやコンサートの動員の成功に比べ、シングル・ヒットには恵まれなかった。その一因として、コンスタントにシングル曲は出すものの、プロモーション戦略でテレビの歌番組に出演することを避けていたため、世間一般への浸透が進まなかった。
なかでも中山美穂へのプロデュースは、音楽プロデューサーとして成功をもたらした。中山が、杏里のアルバム『Bi・Ki・Ni』がお気に入りで愛聴盤だった為に角松に楽曲提供を依頼したのがきっかけで、1986年発表のアルバム『SUMMER BREEZE』に3曲提供し、その中のバラード曲「You're My Only Shinin' Star」が彼女本人が好んでいた曲であったことからライブでも頻繁に歌われるようになる。翌1987年、当時流行りのユーロビートを反映させたシングル曲「CATCH ME」は彼女にとって待望のオリコン1位を獲得。引き続いて角松のもはや看板であるダンス&ファンク・ミュージックを全面に押し出したアルバム『CATCH THE NITE』をフルプロデュース。その発売時、1988年2月22日付けのオリコンのアルバム・ランキングにて、このアルバム『CATCH THE NITE』が1位、同時期に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位にチャートインした。そして、『CATCH THE NITE』レコーディングと同時にリテイクされた「You're My Only Shinin' Star」はシングルとして発表され、「CATCH ME」に続いてオリコン1位を獲得し、この年の第30回日本レコード大賞金賞受賞曲となって彼女の代表曲となり、2001年には彼女がベストアルバム『YOUR SELECTION』をリリースするにあたり、収録曲を決める為にホームページ上で行った投票ではシングルA面曲で1位になっている。
また、この時期から歌ものの作品以外に、フュージョンを基調としたアルバム『SEA IS A LADY』を1987年に発表。このアルバムには、村上ポンタ秀一や斉藤ノブなどのスタジオ・ミュージシャンを起用した。アルバム参加メンバーでのライブ・ツアーも行われ、これがキッカケとなり、斉藤はNOBU CAINEを結成。そのデビューアルバムを角松がプロデュースすることにも至った。これらミュージシャンをクローズアップした活動により、自身のバックバンドのベーシストであり、NOBU CAINEにも参加した青木智仁が、1989年に角松プロデュースのもと、フュージョンを主体にした初のアルバム『DOUBLE FACE』を発表した。
^藤田浩一のほうもデュオを考えていた。想定されていた相方は、元レイジーの井上俊次。角松はソロデューを希望しており、結果RVCからのソロデビューとなった。(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』より)なお、井上俊次側も、1週間ほど共同生活をした上で、彼とは組めないと断った、と語っている。日本経済新聞社・日経BP社. “レイジー解散で新グループ 「ポッキー」から井上へ|出世ナビ|NIKKEI STYLE”. NIKKEI STYLE. 2021年10月2日閲覧。なお、テイチクレコードのプランはメンバーチェンジし、82年デビューの「STEP」として結実する。
^RVCには角松が憧れていた山下達郎がいて、所属レコード会社の選定においては、このことが決め手となった。しかし、角松は西城秀樹などアイドル歌手が所属していた歌謡曲専門の部署(第2制作セクション。ちなみに第1制作は演歌担当の部署)が担当で、一方の山下は当時ニューミュージック系の社内レーベル、エアー・レーベルを擁する部署(第3制作セクション)が担当していたことで、歌謡曲の部署が仕立てた“山下達郎のニセモノ”を巡っての社内政治の渦中に巻き込まれてしまう。そのため、自身が希望していたエアー・レーベル側との交流や協力はほとんど受けられなかったばかりか、反目の対象にまでされてしまった。レコード制作会社内の仕組みを知らなかった当時20歳そこそこの角松はプロデビューしたことを後悔することもあったという。これらの経緯は、後年に当時RVCの主査で、エアー・レーベルの創設者、チーフ・ディレクターだった小杉理宇造から直接聞いた(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。結局角松は、1982年秋に小杉がムーン・レコードを設立して山下とスタッフを引き連れ移籍した後、担当ディレクターだった岡村右(元パープル・シャドウズ)と共にエアー・レーベルを引き継ぐこととなった。
^当時スタジオミュージシャン・ディレクターとして活動し、デビュー準備段階でデモテープ製作を手伝った志熊研三に第1作のサウンドプロデュースを角松自身が依頼した。志熊は一部楽曲のアレンジを含めて引き受けたものの、志熊にとってメジャーでの初仕事だったため、先輩の大物ミュージシャンばかりを纏めるのが大変だったという。また志熊との間には編曲で意見の相違があり、一部楽曲では所属事務所の社長だった藤田浩一に判断を仰いだことを角松自身が振り返った。その一方では志熊に対して感謝していることも述べている(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。
^角松自身はライブ活動で力量を上げることを希望したが、事務所側は先ずメディアへの露出で知名度を上げる方が大事と考えていた。この手法を「以前トライアングルがレイジーで成功した手法だね。(トライアングル所属だった)杉山清貴とオメガトライブがいい例だけど…」と解説した(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』より)。
^RVC側はアミューズに入れたかったと角松は書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューで証言している。
^これは当時杏里への楽曲提供がきっかけで、アミューズ側からも杏里が所属していたマーマレードへ移籍したほうが角松は合っているのではないかと薦められたことによる。また、マーマレードの社長だった梶岡勝は、退社したトライアングルの社長・藤田浩一と仲が良かったという(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』のインタビューより)。
^第1弾は4月21日に、その年の2月5日に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT〜is the most darkness moment in a day』からリミックスした12インチシングル二枚とそれを統合したゴールドCDによる企画盤『VOICES FROM THE DAYLIGHT ~GOLD 12inch Items』ではあるが、自身以外の他アーティストとしては以前から角松の自身名義の作品やプロデュース作品に多数参加し、ブラス編曲も手掛けるスタジオ・ミュージシャンのトランペッター・数原晋を中心に結成されたビッグ・バンド、「TOKYO ENSEMBLE LAB」(トーキョー・アンサンブル・ラボ)が実質的な第1弾。デビュー・アルバムでもある『BREATH from THE SEASON』(1988年7月21日発売)に角松はプロデュースの他に、先行でシングルカットされた「LADY OCEAN」などの楽曲提供と演奏にも参加。ゆえに角松色は強く、絶頂期の作品だけに成功を収めた。なお、オーン・レーベルの名義による作品は1994年までリリースされることになり、その後は同じレコード会社内に新たに作った私設レーベル「iDEAK」に引き継がれる。
^同公演が収録された映像作品『TOSHIKI KADOMATSU 1993・1・27 FINAL CONCERT TOUR Vol.2』には、「ガタガタ言ってないで、続けりゃいいんだよ!」という観客からの罵声に苛立ち、モニタースピーカーを蹴りつける場面が映されている。