農学 (のうがく、英 : agricultural science 、または略称としてagriscience[1] )は、農業 ・林業 ・水産業 ・畜産業 などに関わる、応用的な学問 。農産物 の栽培 ・育種 、生産 技術 の向上、生産物の加工技術などや、生産に関わる社会 的な原理、環境 の保全など、第一次産業 に関わる幅広い事柄を研究し、産業の改良と発展を目指す。広義の自然科学 に属し、化学 、生物学 、地学 などを基礎とするが、社会科学 も基盤の一部を成す。
農学史
ドイツの農学史
ドイツでは三十年戦争 による国土の荒廃からの回復後、人口と食糧需要の増加から18世紀末に農業の技術的・社会経済的改革運動が盛り上がりをみせた[2] 。
1727年、ウィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I)によってハレ大学 とフランクフルト大学 に初めて農業と官房学 (Kameralwissenschaft)の講座が設立され、同世紀末までに多くの大学でもこのような講座が開かれた[2] 。
ゲッティンゲン大学官房学講座教授のベックマン(J.Beckmann)は、1769年に『ドイツ農業原理(Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』を著し、農学体系を一般農学(Allgemeine Theil)と特殊農学(Besondere Theil)に分け、特殊農学に耕種、養畜、施肥、一般農学に農場、農業物と雇人を分類した[2] 。ベックマンの二分割の農業体系は、その後の農学者に決定的な影響を与えたが、ベックマンの著書では一般農学は僅かに述べているのみで農学を官房学から自立させるのに成功するには至らなかった[2] 。
ドイツにおける近代農学の祖はテーヤ(A.D. Thaer)とされており、農学を官房学の体系から切り離して自立的学問として科学的に体系化した[2] 。テーヤは主著『合理的農業の原理』の最初の基礎論で、農業は動植物体の生産(またそれらの加工)によって収益(Gewinn)をあげることを目的とする一つの営業で、完全な農業とは出来るだけ高く持続的な収益を諸事情に応じて、その経営から引き出す農業であると「合理的農業の概念規定」を示した[2] 。テーヤにより、農業経営は家父学(Lehre von der Haushaltungskunst)の課題として扱われるにすぎなかった段階から、営業(Gewerb)として問われる段階に発展した[2] 。ただし、テーヤの経済論の大半は地力維持論(フムス説)を根幹としており、組織・管理論について経営管理能力を向上させるための農業教育の必要性を指摘しているが、具体的にはほとんど展開されていないという指摘がある[2] 。
19世紀のドイツでは農学が一つの体系を有する学問として成立しうると考えられるようになったが、テーヤの農学は農芸化学者が台頭した19世紀中葉の一時期影響力が薄れた[2] 。
農学史の通説ではテーヤ農学の批判の急先鋒をリービッヒ (Liebich)としている[2] 。ヨーロッパで進展した自然科学が農学の進展に与えた影響は大きく、その一つにリービッヒが植物の生長に、炭酸ガス、水、窒素 、リン 、カリ が重要であることを発見したことも挙げられている[3] 。一方でリービッヒは自然科学的合理性を無視した掠奪耕(地力収奪耕)こそが、国家の物質的・政治的・精神的基盤を弱体化させるもので、人類の存亡にかかわる回避すべき問題とみていた[2] 。また、当時最も合理的と考えられていた輪栽式農法もリービッヒは掠奪耕にあたると考えており、地力の均衡が農学において大きな議論となった[2] 。
リービッヒの農学思想は自然科学的認識の正しさと好景気を背景に受け入れられる向きもあったが、徐々に批判も出始めて大不況期に入ると批判が決定的となって急速に忘れ去られ、以後は単に化学者として位置づけられるようになった[2] 。
その後、カント哲学の影響を強く受けたシュルツェ(F.G. Schultze)がドイツ農学の主流派でテーヤにつぐ第一人者と評されるようになった[2] 。十九世紀前半からドイツ各地に農業アカデミーが開校したが、イェーナ大学の正教授になっていたシュルツェは1826年にイェーナに農学校を創設した[2] 。イェーナの農学校は他の農学校とは異なり、大学と有機的に強い結びつきをもち、その後のドイツの農業教育制度に決定的影響を及ぼした[2] 。
イギリスの農学史
イギリスはヨーロッパ で最も農書が著された国とされ、18世紀から19世紀の農業革命 期にイングランドで技術的側面の普及のために農書が必要とされていたことによる[4] 。農業革命による変化は、休閑の廃止、飼料作物の導入、農作物の組合せによる地力維持、家畜の舎飼との結合による穀草式農法、輪栽式農法などであり、中世における穀物の生産力が播種量の4倍だったが、18世紀には10倍に飛躍的に増加した[4] 。農作業の機械化はそれより遅く、19世紀の収穫作業の機械化に始まり、機械化が進んだのは20世紀初頭のことであった[4] 。
農業革命には新農法の導入による土地生産性の向上と、新農法を受け入れる農村社会の確立の2つが基本的要素になっているが、農書は新農法を普及させるための媒体となった[4] 。
イングランドの農書の歴史は、13世紀後半にウォルター・オブ・ヘンリー(Walter of Henley)が著した『農業論』に始まるといわれており、中世の農業生産技術の一端を知ることができる[4] 。
17世紀中頃には第1次の囲い込み が行われ、その個人有地で穀草式農法が普及しつつあったが、1652年にはブライス(W. Blith)がクローバー などの作付けを奨励する『イングランドの進歩的改良者』を著している[4] 。
18世紀に入り、タル(Tull)が『馬耨農法』を著し、休閑無用説と飼料用カブの中耕除草を説き、輪栽式農法の時代が始まったといわれているが、中耕除草機は土性により使用することができなかったため普及せず、農作業の機械化は19世紀後半まで待たねばならなかった[4] 。
18世紀後半から19世紀前半にかけて輪栽式農法が主にイングランド東部で普及したが、その提唱者の一人がアーサー・ヤングであり、資本主義的農業経営の萌芽がみられる[4] 。
19世紀、室内での科学実験からのアプローチが農業で信頼できるものになるには、圃場における検証実験の方法論が確立される必要があった[3] 。ドイツのリービッヒのもとに留学したことのあるイギリス人のギルバート(Gilbert,J. H.)は、ロザムステッド農事試験場で実験を行い、植物が大気中から窒素を獲得しているというリービッヒの説に反駁して窒素肥料の効果を実証した[3] 。
イギリス人のギルバート(Gilbert,J. H.)の実証実験やダラム大学 のジョンストン(Johnston,J. F. W.)による試験の厳密性や反復の必要性の主張から、近代農学では科学実験の知見を圃場での観察を通じて検証するスタイルが確立した[3] 。
アメリカの農業史
アメリカでは南北戦争 後に国有地を付与された大学が設置されたが、農学部が関心を持たれるようになったのは、1880年代に農学部に農事試験場が整備され研究成果が蓄積するようになってからである[3] 。
1890年代には農学部が積極的に構外教育活動を行う農業拡張事業を行うようになり、大学に通うことのできない大多数の農民に知的資源を提供する場になった[3] 。
18世紀後半には農業改良に関心を持つ人々が集まって議論することが盛んになっており、アメリカ合衆国の独立後、これらは各地の農事協会に発展した[3] 。
農学界ではイギリスのギルバート(Gilbert,J. H.)やジョンストン(Johnston,J. F. W.) のもとで学んだ留学生が研究を進め、特にノートン(Norton,J. P.)やポーター(Porter,J. A)が所属するイェール大学 は土壌分析など農芸化学で知られるようになった[3] 。
1853年にドイツに渡ったジョンソン(Johnson,s.w.)は、帰国後に化学肥料の研究のかたわら農事試験場の設立運動に取り組み、1870年代後半にはコネチカット州やニューヨーク州などに独自の農事試験場が設置された[3] 。
19世紀末から20世紀初頭にかけての農事試験場では、化学を中心に分析法に関する研究が進展し、土壌、肥料、植物、食糧、および飼料など農学の専門分野のそれぞれに応用され、学問の進展が加速化した[3] 。
中国の農学史
中国の農書の歴史は紀元前3世紀に著された『呂氏春秋 』が最初とされている[4] 。『呂氏春秋』は呂不韋 が抱える知識集団によって編纂され、十二紀、八覧、六論の26部で構成されており、六論中の「士容論」第三編の「上農」では農業政策、第四編の「任地」では土地利用の原則、第五編の「弁士」では土地改良の原則、第六編の「審時」では適時作業の原則について述べられている[4] 。
紀元前1世紀には『氾勝之書 』が著されたが現存しておらず、後代の農書にある引用から、耕作の原則、十数種の農作物の耕作法、種子の選別法と保存法が記されていたとみられる[4] 。
その後、後漢の崔寔が歳時記型の農書である『四民月令 』を著した[4] 。
540年頃には賈思勰 の『斉民要術 』全9巻が刊行され、内容は『呂氏春秋』の農本思想を受け継ぎ、第6巻までは『氾勝之書』の形式で各農産物ごとに乾地農法の技術を述べ、第7巻からはは『四民月令』に近い内容の生活の技術を述べている[4] 。
元代には中国最古の官撰農書『農桑輯要 』が編纂された[4] 。1313年には王禎の『農書』が著され、総論の「農桑通訣」、各論の「百穀譜」、農具を図解した「農器図譜」からなるが、記述の5分の4は農器図譜で300を超える農具を収録している[4] 。
明代末には徐光啓 によって『農政全書 』が著され(刊行は1639年)、屯田開墾,、大規模な水利土木,、備荒に重点を置いている[4] 。
清代には官撰農書の『授時通考』が編纂された[4] 。
日本の農学史
日本初の農学校、札幌農学校 (1876年設立、現在の北海道大学 )
明治維新後、明治政府は西洋の科学的な農業技術や知識の導入によって農業生産の拡大を図る方針をとった[5] 。また、明治政府の最重要課題は富国強兵と殖産興業であり、生糸や茶など主要輸出品の勧農政策が重視された[6] 。
1869年(明治2年)4月に民部官 が設置されると、5月には民部官に開墾局が置かれた[5] 。しかし、7月に民部官は廃止されて民部省が設置され、1870年(明治3年)9月に勧農局が設置され、開墾、種芸、養蚕、編集、雑務の5課が配置された(勧農局は12月に開墾局となり、翌1871年4月に勧業局となった)[5] 。さらに1871年(明治4年)7月、民部省は廃止され、大蔵省勧業司に引き継がれたが、大蔵卿に就任した大久保利通 により改革が行われ、8月に勧業寮さらに勧農寮に改められた[5] 。
1871年11月に派遣された岩倉使節団 (大久保は副使)の帰国後、日本では内藤新宿 試験場(現在の新宿御苑 )や三田育種場 の設置、札幌農学校 や駒場農学校 の設立、外国人教師の招聘などに取り組んだ[6] 。
内藤新宿試験場
1872年(明治5年)10月、大蔵省では勧農寮が廃止され、租税寮に勧農課を置くとともに、同月に内藤新宿試験場の設置が決定した[5] 。民部省や大蔵省は東京府 下の数箇所に西洋農具置場、植物試栽場、牧畜試験場を設置していたが、いずれも小規模で穀菜果樹の配布や各種試験、模範事業を行うには不適当だった[5] 。そこで内藤家 所有の9万5千坪を9千5百円で買収し、その隣接地も次々に買収して最終的に19万余坪を買収した[5] 。
内藤新宿試験場の拡大の過程で、1874年(明治7年)7月に三田四国町の旧島津邸の4万坪の土地を買収して内藤新宿勧業寮出張所附属試験地とした(後の三田育種場)[5] 。新たな土地の購入の背景には内藤新宿試験場の地味が良好でなかったためなどの理由があったとされる[5] 。この三田育種場の整備により、1879年(明治12年)5月に内藤新宿試験場は廃止された[5] 。
札幌農学校
明治政府は国防上の理由から1869年(明治2年)7月に蝦夷地(当時)に開拓使 を設置した[7] 。外国人の雇用などの必要性を説いていた開拓使の次官の黒田清隆 は、1871年(明治4年)1月に留学生とともに渡米し、駐米少弁務使の森有礼 の協力を得て、第18代大統領ユリシーズ・S・グラントの配慮でホーレス・ケプロン など推薦された外国人を連れて帰国した[7] 。
1872年(明治5年)1月、黒田は明治政府に開拓使仮学校の計画を上申した[7] 。校長には荒井郁之助 があてられ、同年3月10日に生徒募集の通達が出された[7] 。「開拓使仮学校規則」の第1条によると、学校は札幌に設置するが、それまで東京に仮学校を設置することとし、東京の芝 増上寺本坊に開設されることになった[7] 。
「開拓使仮学校規則」第15条の受講科目では、学科を普通2科と専門4科に分け、「普通学」の1では英語学、漢学、算数、手習、日本地理、歴史等の一般教養、「普通学」の2では舎密学、器械学、測量学、本草学、鉱山学、農学等の科目が配列された[7] 。また、「専門学」は、第1が舎密学、器械学、画学、第2が鉱山学、地質学、画学、第3が建築学、測量学、画学、第4が舎密学、本草及び禽獣学、農学、画学で、一部は「普通学」の2との連携が重視されていた[7] 。また、農学は専門学の第4に配置されており、必ずしも比重が高かったわけではない[7] 。
1875年(明治8年)8月、開拓使仮学校は予定通り札幌に移転したが、その際の名称は「札幌農学校」ではなく「札幌学校」で最初から「農学校」としなかった理由は不明である[7] 。1876年(明治9年)8月、札幌学校は札幌農学校に改称し、ウィリアム・スミス・クラーク が教頭に着任した(実質的な校長職で、名目上の校長は調所広丈 )[7] [8] 。
札幌農学校は日本で最初の高等農業教育機関であった[8] 。ただし、札幌農学校は駒場農学校と同様に「農学」の看板を掲げたが、駒場農学校とは異なり「農学とは異質とも思われる領域」もカリキュラムには含まれていた[7] 。札幌農学校の卒業生には、佐藤昌介(農学博士)、新渡戸稲造 (農学博士・法学博士)、南鷹次郎 (農学博士)、広井勇 (工学博士 )、宮部金吾 (理学博士)、渡瀬庄三郎 (理学博士)、高岡熊雄 (法学博士・農学博士)らがいる[7] 。
駒場農学校
1870年代、北海道の開拓使が招聘したアメリカ人教師とは別に、開校予定の農事修学場に農学教師として招聘されたイギリス人教師たちがいた[9] 。新しい農学校の開設を担当したのは内務省勧業寮内藤新宿出張所内の農学掛(まもなく第6課に改称)で、課長は田中芳男 が務めており、1875年12月に内務卿の大久保利通に農学校設立の必要性を述べた『農学校設立生徒教育教師僦用順序之儀伺』を提出した[9] 。
この伺が裁可され、1876年2月、勧業寮第6課の富田禎次郎が渡英し、王立サイレンセスター農学校(Royal Agricultural in Cirencester)の教官やその関係者である農芸化学(無機・有機化学)担当のキンチ、獣医学 (解剖学・家畜内外科)担当のマックブライト、試業科教師のベグビー、予科教師のコックス、農学(農学諸科・農場実践)担当のカスタンスの5人が来日した[9] 。このうちベグビーが途中で不祥事により解任されたほかは、契約期間の3年以上勤務して帰国している[9] 。
最も長く日本に滞在したのはキンチで、任期をさらに2年延長し、王立サイレンセスター農学校の化学教授に招かれたため急遽4年半で帰国したが、横井時敬 や恩田鉄弥 などの教え子が渡英時にキンチを訪ねており慕われていた[9] 。しかし、イギリス人教師の評価は芳しくなく、特に農学教師のカスタンスの講義は不評で、受講していた玉利喜造 や酒匂常明 などは英国の大規模な農業をそのまま教えていると苦言を述べている[9] 。この時期は秩禄処分 (1876年)などにより明治政府は旧士族の授産問題を抱えており、駒場では東北地方などの内地に旧士族を送ってイギリスの大規模農法を導入したい意図があったため、日本の事情の説明を受けていたカスタンスらも母国の畑作農法の伝導に努めたことが背景にあるといわれている[9] 。また、コックスの講義を受けた新渡戸稲造 も、旧式の文章構成法に忠実なだけの文法講師にすぎず、あまり尊敬できないと評している[10] 。
1878年(明治11)年、農事修学場は駒場農学校に改称された[9] 。
イギリス人教師の後任として、ドイツから1881年にオスカル・ケルネル 、1882年にマックス・フェスカ が来日した[9] 。ケルネルは日本の農芸化学の基礎を築き、フェスカは『日本地産要覧図』や『日本地産論』などの名著を残した[9] 。
年表
紀元前3世紀 - 中国で『呂氏春秋 』が編纂される[4] 。
紀元前1世紀 - 中国で『氾勝之書 』が著される[4] 。
540年頃 - 中国で賈思勰 の『斉民要術 』が刊行される[4] 。
1313年 - 中国で王禎の『農書』が著れる[4] 。
1639年 - 中国で『農政全書 』刊行[6] 。
1697年 - 宮崎安貞 『農業全書 』[6]
1727年 - ウィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I)がハレ大学とフランクフルト大学に初めて農業と官房学(Kameralwissenschaft)の講座を設立[2] 。
1769年 - ベックマン(J.Beckmann)『ドイツ農業原理(Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』[2]
1815年 - テーヤ(A.D. Thaer)『農業営業学汎論入門(Leitfadenzur allgemeinen landwirtschaftlichen Gewerbslehre)』[2]
1853年 - フルベック(F.X. W. Hlubeck)『農学全書(DieLandwirtschaftslehre in ihrem ganzen Umfang)』[6]
1876年 - 津田仙 が学農社 を設立[6] 。
1898年 - 新渡戸稲造が『農業本論』『農業発達史』を発表[6] 。
農学の分野
日本農学会 の資料[11] 文部科学省 学科系統分類表/農学[12] などをもとに分類した。
脚注
出典
関連項目
外部リンク
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