韓国鉄道日本製動車 各種表記 ハングル :
통근형디젤액압동차 漢字 :
通勤形디젤液壓動車 発音 :
トングンヒョン ディジェル エガプ トンチャ 日本語 読み:
つうきんがた ディーゼル ゆあつ どうしゃ RR式 :
Tonggeunhyeong Dijel Aegam Dongcha MR式 :
T'onggŭnhyŏng tijel aegam tongch'a テンプレートを表示
韓国鉄道日本製動車 (かんこくてつどうにほんせいどうしゃ)(朝鮮語 : 통근형 디젤 액압 동차 )は、かつて韓国鉄道庁 が所有していた、新潟鐵工所 を始めとする日本の鉄道車両メーカーが製造を手掛けた気動車 の総称。大韓民国 成立後初めて新製された気動車であり、製造メーカーにちなみ新潟動車 (朝鮮語 : 니가타 동차 漢字 :니가타 動車 )、川崎動車 (가와사키 동차 漢字: 朝鮮語 : 가와사키 動車 )とも呼ばれた[ 注釈 1] 。
導入までの経緯
1945年 8月15日 の第二次世界大戦終戦の時点で朝鮮半島には日本統治時代に導入された気動車が60両存在していたが、そのほとんどは戦時中の酷使により老朽化が進み、更に朝鮮戦争 による被害から1950年代末期には6両のみが使用可能という状態に陥った。それ以降はICA の支援を受けて既存車両の復旧が進んだ一方、1961年 から始まった動力近代化施策により短距離運転に適した気動車の需要が高まった。それを受け、1961年 12月 に導入された2両を皮切りに日本各地の鉄道車両メーカーによって製造・輸出が行われたのが一連の日本製気動車である。
概要
貫通扉 を中央に配する前面を持つ両運転台の車体を有する車両で、日本国有鉄道 向けに製造されたキハ52形気動車 を基に設計が行われた。座席 は車体中央部がボックスシート、運転台寄りがロングシートとなっており、満員時の立席定員の便が図られた。また、車内には便所 の他床下機器の配置の都合から水タンクも設置されていた。2箇所設置された乗降扉は折り戸式で、低床式プラットホーム に対応するため2段のステップが備わっていた。なお、1966年 以降製造された車両は扉が2枚折り戸から1枚引き戸に変更された他、乗降扉近くに設置されたクロスシートの一部がロングシートに改められた事で定員数が増加した。
機関や変速機、制御装置についてもキハ52形と同様の機器を用い、床下には新潟鐵工所 製のDMH17H が2基設置されそれぞれボギー台車のうち1軸を駆動させる構造となっていた。その一方で変速機 の変速-直結間への切り替えは自動変速装置により自動的に行われるようになっていた他、変速クラッチと直結クラッチが同時にかかるコンバータブレーキ、セルモーターの故障蓄電池の容量不足の際に他の車両からの機関で装置を動かすことができる逆起動装置など、韓国側の要望により製造当時の日本の鉄道車両で採用されていない最新技術が多数採用された。台車は日本国有鉄道で標準的に採用されていたDT22A形を基に標準軌向けに設計されたものを用いた。
通常の旅客営業に用いる車両に加え、最初に製造された2両(201・202)をはじめ11両は鉄道庁や政府の要員を輸送するVIP用特別車両として製造され、それらの一部は後年に旅客車両への格下げ改造が施された。また、韓国鉄道庁以外にも1975年 には浦項市 の浦項総合製鉄(現:ポスコ )の専用鉄道へ向けて新潟鐵工所製の車両が2両製造されたが、これらは片運転台・オールロングシートと仕様が異なっていた。
各車両の製造年、車両番号および製造所は以下の通りである。
付随車
動力車不足を補うため、1965年 から1968年 にかけて韓国鉄道庁が所有していた仁川工作廠で33両の付随車 が日本製動車への増結用車両として製造された。車体はピドゥルギ号向け客車と同じ構造で座席配置はオールロングシートであった。1965年 に製造された4両は両開きの乗降扉が両端に2箇所設置された一方、1966年 ・1968年 製の29両は中央部に乗降扉が増設された。主要諸元は以下の通りである。
車両番号(製造時)
製造年
全長
全幅
全高
自重
着席定員
軌間
備考
19401-19404
1965年
21,100mm
?
?
31t
69人
1,435mm
19411-19439
1966年 - 1968年
21,100mm
?
?
35t
70人
1,435mm
運用
1961年 に最初の車両が導入されて以降、浦項総合製鉄向けの2両を含め1975年 までに159両が製造された。当初はソウル 近郊の路線で活躍し、ソウル駅 - 東仁川駅 の所要時間をそれまでの客車列車の55分から10分短縮させたが、1974年 から電化 が始まって以降は韓国各地の地方路線へ転出していった。主に普通(ポトン) (1983年 12月23日 以降ピドゥルギ号 へ改称)で使用されたが、1985年 9月 以降9両(501 - 509)が座席を転換式クロスシートへ改造しトンイル号 へ転用された。1992年 10月1日 に実施された気動車の車号改正以降[ 注釈 2] 、トンイル号用車両は9501形[ 注釈 3] 、ピドゥルギ号用車両は9601形という形式名となっていた。
単行運転から連結運転まで様々な編成が組まれた他、1965年 以降は付随車を増結した列車も登場し、2両の気動車の間に3両の付随車を挟んだ最大5両編成による営業運転も行われた。しかし、付随車の連結などによる酷使に伴いトラブルが頻発したため1973年 以降エンジンがカミンズ 製のN855R(210HP)に交換された他、20両はエンジンを撤去し付随車 として使用された。
導入された全159両のうち49両は事故で廃車となり、うち8両は前述のエンジンの酷使による過熱から生じた火災が原因であった。残った車両は以降も韓国各地で活躍したが、1980年代以降は老朽化による廃車が進み1992年 時点で35両にまで減少した。トンイル号用の9501形は1995年 3月 をもって運用が消滅し、1両(9505)のみピトゥルギ号用に格下げされたが、それを含む残りの車両も1997年 初頭に引退した。最後の現役車両となった9654が廃車されたのは同年の1月31日 である。
保存
2019年 現在、鉄道博物館 に672(1963年 ・新潟鐵工所製)と9601(1966年 ・川崎重工業製)が保存されている。うち672はピドゥルギ号時代の塗装で静態保存されている一方9601は屋外で保存されており、2012年 の時点では動態保存運転が実施されていたが2019年現在保存運転は休止されている。なおこの9601はVIP用特別車両として製造された車両である[ 13] 。
関連項目
脚注
注釈
^ 川崎重工業 製造の5両(401-405)は"川崎動車"、それ以外の車両は製造メーカーを問わず"新潟動車"と呼ばれていた。
^ セマウル号 に車両番号の枠を明け渡すため(元番+9000)。当時の韓国鉄道庁では車両(殊に動力車)の改番は頻繁に行われた
^ 1996年 4月1日 に同一形式を有する気動車 が営業運転を開始したため、"9501形"としては初代にあたる。
出典
参考資料
中田廣、山田俊英『韓国の鉄道 100周年を迎える隣国の鉄道大百科』JTB、1997年12月。ISBN 4-533-02943-4 。
やまだトシヒデ『ポケット図解 韓国鉄道の今と昔をとことん楽しむ』秀和システム、2012年3月22日。ISBN 4798032735 。
石橋光伴 「韓国向ディーゼル動車」『車両技術 199号』第17巻第7号、日本鉄道車輌工業会、1962年7月1日、30-31頁、doi :10.11501/2248227 、ISSN 0288-2140 。
철도차량기술검정단 한국철도차량 100년사 편찬위원회 편찬 (1999-8). “1.5 내연동차 (INTERNAL COMBUSTION ENGINE RAIL CAR)”. 한국철도차량100년사 . 철도차량기술검정단. pp. 231-304