1960年フランスグランプリ(XLVI Grand Prix de l’ACF )は、1960年F1世界選手権の第6戦として、1960年7月3日にランス・グーで開催された。
レース概要
背景
ランス・グーで行われたフランスグランプリでは、リアエンジン車とフロントエンジン車の両方が走行した。フロントエンジン車のフェラーリ・ディーノ246F1は依然として競争力を保持しており、長いストレートでは優れたトップスピードを発揮した。フェラーリは前戦ベルギーからフィル・ヒル、ヴォルフガング・フォン・トリップス、ウィリー・メレスのラインナップでエントリーしたが、次戦のイギリスと続くポルトガルではメレスが欠場、2台体制となり、第9戦のイタリアでメレスとリッチー・ギンサーが復帰して4台体制となった。ロータスは前戦で事故死したアラン・ステイシーに代えてロン・フロックハートを起用、イネス・アイルランド、ジム・クラークとの3台体制で参戦した。フロックハートはシーズン初かつロータスでの唯一のレースであった。ロータスは次戦イギリスでは再びジョン・サーティースを起用している。
ヴァンウォールはF1世界選手権での最後のレースとなった。チームは1958年に初のコンストラクターズタイトルを獲得したが、今シーズンは新車のヴァンウォール・VW11を投入した本GPのみの参戦であった。フロントエンジンのVW11には競争力が無く、これはチームがレース後に選手権から撤退し、一年後に解散した理由となった。ドライバーはトニー・ブルックスが起用されたが、ヴァンウォール撤退後は再びヨーマン・クレジット・レーシングチームでクーパーをドライブしている。また、スカラブは勝利の可能性が無かったことから、本GP以降の参戦を取りやめた。チームオーナーのランス・リヴェントロウは本GPには参加せず、リッチー・ギンサーにシートを与えたが、ギンサーがスカラブをドライブしたのはこの1戦のみで、後にフェラーリに復帰している。ギンサーのチームメイトはチャック・デイであった。スカラブが2台体制で参加した最後のGPで、この後はアメリカグランプリに1台体制で参加しただけであった。
多くのドライバーとチームがプライベーターとして参加した。スクーデリア・セントロ・スッドはモーリス・トランティニアン、マステン・グレゴリー、イアン・バージェスの3人にクーパー・T51を用意した。また、ヨーマン・クレジット・レーシングチームのオリヴィエ・ジャンドビアン、ヘンリー・テイラー、ブルース・ハルフォードもクーパーをドライブした。ハルフォードは本GPが最後のレースとなった。フェラーリから購入したクーパーをドライブしたのはスクーデリア・エウジェニオ・カステロッティのジーノ・ムナロンであった。ルシアン・ビアンキもクーパーでフレッド・タック・カーズから参戦した。また、デヴィッド・パイパーはロータス・16で今シーズン初のレースに参戦した。
ランス・グーでのフランスGPではフェラーリが4度優勝しており、参加ドライバーではブルックスのみが本サーキットでの優勝経験者であった。本GPまでのドライバーズランキングはクーパーのブルース・マクラーレンがチームメイトのジャック・ブラバムを抑えてトップに立っていた。3位のスターリング・モスは負傷のため本GPには参加していない。全てのドライバーに理論的にはチャンピオンの可能性があった。コンストラクターズランキングではクーパーがロータス、フェラーリに対して大きなリードを保っていた。コンストラクターでもこの段階では全てのチームがタイトルの可能性を持っていた。
予選
前戦同様にブラバムが予選を支配し、2番手に大きな差を付けた。ブラバムは2戦連続のポールポジションを獲得した。クーパーにとっては今シーズン3度目のポールポジションであった。2番手はフェラーリのフィル・ヒル、その後にBRMのグラハム・ヒル、ロータスのイネス・アイルランドが続き、異なるコンストラクターの4台が上位4グリッドを占めた。フェラーリは前戦同様本GPでも競争力を保っていた。チームメイトのメレスとフォン・トリップスも5番手、6番手グリッドに付けていた。グラハム・ヒルのチームメイト、ダン・ガーニーとヨー・ボニエは7番手と10番手に付けた。ドライバーズランキングをリードするマクラーレンは9番手となった。プライベーターの最高位はジャンドビアンの11位であった。ヴァンウォールの新車をドライブしたブルックスは14位であった。
スカラブの2台はエンジンにトラブルが生じ、レースに参加することはできなかった。パイパーのロータスも予選でのエンジントラブルで決勝には参加できなかった。
決勝
決勝は2つの事故で始まった。技術的トラブルでグラハム・ヒルが立ち止まったところにトランティニアンが追突した。ヒルのBRMは大きく損傷し、レースを終えることとなった。トランティニアンは数メートル進んだが、こちらもリタイアとなった。ブルックスとビアンキも衝突したが、両名ともレースを継続した。ブラバムはレースをリードし、序盤3周でトップを走行した。フィル・ヒルがブラバムにアタックし、4周目でトップに立つ。今シーズンフェラーリがトップに立ったのはこれが初めてであった。また、フロントエンジン車がサーキットの特性のため勝利争いに絡んだ最後から二番目のレースであった。
ブラバムとフィル・ヒルは激しくトップを争った。2人は18周目までに合計11回順位を入れ替えた。4周目から9周目まで2人は交互にトップに立ち、ブラバムはトップを2周維持した後、フィル・ヒルも2周トップに立った。その後15周目まで交互にトップに立った。2人はストレートではサイドバイサイドで争い、幾度となくホイールが接触するほどの接戦を繰り広げた。15周目にフィル・ヒルがトップとなり、その座を3周維持したが、トランスミッションのトラブルでパワーが低下した。彼はまた、コースバリアに接触したことでフロントアクスルにもダメージを負っていた。ブルックスは7周目にバイブレーションのためにリタイアした。メレス、ビアンキ、ムナロンはトランスミッションのトラブルでリタイアした。BRM・P48は再び信頼性の欠乏を示し、ガーニーとボニエはエンジントラブルでリタイア、BRMは再び完走を果たせなかった。
フィル・ヒルが順位を下げた後、フォン・トリップスがブラバムに挑んだが、チームメイトのフィル・ヒル同様数周後に後退した。フェラーリは両名とも途中でトラブルに見舞われたが、規定の走行距離を走行していたとして完走扱いになった。フェラーリとの争いが無くなると、クーパーがレースを支配した。ジャンドビアンとマクラーレンが2位争いをしている間にトップのブラバムはその差を広げていった。いくつかの場面で両名は他のドライバーを追い抜いたが、当時はオーバーテイクを希望するドライバーを追い抜かせることに関するルールは無かったため、マクラーレンは追い越しに手こずり多くの時間を費やし、結局ジャンドビアンが2位となった。これはジャンドビアンにとって2回目かつ最後の表彰台となった。ブラバムは3連勝での3勝目を挙げ、クーパーにとっても3連勝、シーズン4勝目となった。ファステストラップもブラバムが3連続で記録した。ドライバーズランキングはブラバムとマクラーレンが24ポイントと同点になり、勝利数でブラバムがトップとなった。ジャンドビアンはモスに次ぐ4位に浮上した。依然として全てのドライバーがチャンピオンになる可能性があった。コンストラクターズランキングではクーパーがロータスに対してポイント差を19に広げ、タイトルが目前に迫っていた。クーパーは次戦で勝利するとタイトルを獲得する。加えて、ロータスとフェラーリにはタイトルの可能性が残されたが、BRMはタイトルの可能性が無くなった。
テイラーは4位に入り、その経歴で唯一のポイントを獲得した。クラークは前戦に続いて5位に入賞した。フロックハートも6位に入りポイントを獲得した。彼にとっては1956年イタリアグランプリ以来のポイントであったが、経歴上最後のポイントとなった。アイルランドが7位に入り、ハルフォード、グレゴリー、バージェスと続いた。トリップスが11位、フィル・ヒルが12位に入り、以上が完走者であった。
エントリーリスト
結果
予選
決勝
第6戦終了時点でのランキング
- ドライバーズランキング
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- コンストラクターズランキング
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- 注: ドライバー、コンストラクター共にトップ5のみ表示。
参照