エストニアの歴史 (エストニアのれきし)ではバルト三国 の一つ、エストニア の歴史について記述する。
エストニアはドイツ人 、スウェーデン 、ロシア などの支配を経て、1917年 の2月革命 後にエストニア人の住む地域ははじめて一つに統合される[ 1] 。
先史時代、古代
紀元前9500年から紀元前7500年ごろの旧石器時代 からバルト三国 で含まれる地域に人類が生活を営むようになったと考えられており、紀元前3000年頃にエストニア人 などのフィン・ウゴル語派 に分類される民族がヴォルガ川 中流域から移住したと考えられている[ 2] 。エストニアを含むバルト地方は古代ヨーロッパ世界の中心だったギリシャ 、ローマ から隔たれており、外部からの影響は少なかった[ 3] 。7世紀 から8世紀 にかけてバルト地方にヴァイキング が訪れ、エストニアのタリン 、タルトゥ などの都市では東西交易が営まれていたと思われる痕跡が確認されている[ 3] 。バルト海 進出を試みるキエフ大公 ヤロスラフ1世 は1030年 にリーヴ人 の居住地であるユリエフ(タルトゥの古称)に城を築くが、ヤロスラフ1世の支配は30年程度にとどまった[ 4] 。
ドイツ人 の入植が進められる13世紀 以前のエストニアは統一されておらず、キヘルコント(Kihelkond)と呼ばれる共同体に分かれていた[ 1] 。単独、あるいは複数集まったキヘルコントが一つの地域単位を形成し、歴史的地位の名称はラトビア語 でエストニアを指す「イガウニヤ」、フィンランド語 でエストニアを指す「ヴィロ」に跡をとどめている[ 1] 。
ドイツ人の進出
テッラ・マリアナ
12世紀 のバルト地方はキリスト教化されていない「異教の地」であり、キリスト教世界はバルト地方での布教を試みるが活動は難航する[ 5] 。1199年 に教皇 インノケンティウス3世 はリヴォニア (現在のエストニア南部からラトビア にかけて広がる歴史的地域)に十字軍 を派遣し、翌1200年 にユクスキュル司教アルベルト が率いる500人の兵士がリヴォニアに進軍した[ 6] 。アルベルトの進言によって1202年 に設立されたリヴォニア帯剣騎士団 は武力による改宗を行い、1207年 までにリヴォニアのキリスト教化が大きく進展した[ 5] [ 7] 。リヴォニアを制圧した帯剣騎士団はエストニア北部への進出を試みるが、ロシア諸侯の支援を受けたキヘルコントは頑強に抵抗し、エストニア南部ではサカラの首長レンピトゥ (レムビト)が抵抗を続けていた[ 5] 。1217年 にレンピトゥは戦死し、エストニア北部の南半分が帯剣騎士団の支配下に入るが、ロシア諸侯の援助を受ける北側の地域はキリスト教勢力の進出を拒み続けていた[ 8] 。エストニア人の抵抗に直面した帯剣騎士団は1218年 にデンマーク国王 ヴァルデマー2世 に支援を求め、1219年 に60,000のデンマーク軍がバルト海東岸に上陸し、1220年 冬までに帯剣騎士団はエストニア本土を制圧する[ 9] 。1219年にデンマークによって「トーンペア」と呼ばれるエストニア人の集落に城塞と町が建設され[ 10] 、デンマークが建設した城塞はエストニア語で「デーン人 の町、要塞」を意味する「ダーニーリーン」と呼ばれ、後のタリンの起源となる[ 11] 。1223年 にサーレマー島 でデンマークと帯剣騎士団に対する反乱が起きるが、反乱は1227年 までに鎮圧される。
1215年 に開催された第4回ラテラン公会議 でリヴォニア司教区は教皇の特別保護下に置かれた「テッラ・マリアナ (「聖母マリアの地」の意)」に制定され、リヴォニアの先住民に苛烈な支配を敷く帯剣騎士団を問題視する教皇庁は改宗した先住民の実情を調査し、騎士団の搾取を咎めた[ 12] 。1236年 にリトアニア人 との戦闘に敗れて壊滅した帯剣騎士団はドイツ騎士団 に統合され、帯剣騎士団の征服地を含むリヴォニアのドイツ騎士団領は「リヴォニア騎士団領 」と呼ばれるようになる[ 13] 。改宗が進んだ地域ではドイツ人 の入植が進み、多くのエストニア人はドイツ人領主の支配下に入らなければならなかった[ 14] 。1285年 にレヴァル(タリン)がハンザ同盟 に加入し[ 11] 、交易で富を蓄え、自治権を得たレヴァルではドイツ人が強い影響力を有していた[ 14] 。レヴァル、ペルナウ、ナルヴァ、ドルパト(タルトゥ )などのハンザ同盟に加入していたエストニアのドイツ化 された大都市は繁栄を謳歌していたが、土着のエストニア人は悲惨な状況に置かれていた[ 15] 。19世紀 のエストニア民族革命で主導的な役割を果たしたカール・ロベルト・ヤコプソン (英語版 ) は、13世紀 から19世紀にいたるドイツ人支配時代をエストニア人の「闇の時代」と呼んだ[ 14] 。
デンマーク統治下のエストニアではドイツ人騎士への授封が盛んに行われ、王権の弱体化によってリヴォニア騎士団の進出を招いた[ 16] 。貴族が増加したデンマーク領エストニアでは封建制度が急速に発達し、荘園の拡大が進展する[ 16] 。1340年代にデンマークは北部エストニアから撤退し、1341年にレヴァル、ヴェーゼンベルク、ナルヴァをリヴォニア騎士団に売却した。撤退の理由には土地を支配するデーン人が少ないこと、在地の人間が結束して反乱勢力を形成していること、多額の経費を要することが挙げられている[ 17] 。1343年 から1345年 にかけてデンマーク領エストニアではセント・ジョージ夜の反乱が起き、本国から離れたリヴォニアの統治に手を焼いたデンマークは1346年 にリヴォニアをドイツ騎士団に売却し、翌1347年 にタリンを含むリヴォニアはドイツ騎士団の支部であるリヴォニア騎士団領に編入される[ 9] 。騎士団領有下のエストニア人の居住地は騎士団領と司教領に分割された[ 17] 。
スウェーデン支配時代
リヴォニア、隣接するリトアニア でキリスト教への改宗が進展すると騎士団の領土拡張の大義名分は無くなり、リヴォニア内部の司教領、騎士団領、都市での内紛が頻発する[ 18] 。1558年 にバルト海方面への進出を図るモスクワ大公国 はリヴォニアを支配するドイツ騎士団に戦いを挑み、リヴォニア騎士団領の解体を望むデンマーク、スウェーデン 、ポーランド はリヴォニアの内情に介入する(リヴォニア戦争 )[ 19] 。1561年 にリヴォニア騎士団領は崩壊するが、騎士団の支配は後世のエストニアに大きな影響を与え、ドイツ人騎士はバルト・ドイツ貴族としてエストニアに残り、支配者層を形成する[ 20] 。ルブリン連合 によって成立したポーランド・リトアニア共和国 はロシアに軍を進め、1582年 にポーランドとモスクワの間で締結された和睦によってリヴォニアはポーランドの保護下に入る[ 21] 。1583年 にリヴォニア戦争が終結した後もモスクワとスウェーデンはエストニア北部の帰属を巡って争い、1595年 に締結されたタユシナ条約 (英語版 ) によってスウェーデンがエストニア北部の支配権を勝ち取った[ 22] 。ポーランド王ジグムント3世 との戦争に勝利したスウェーデン王グスタフ2世アドルフ は1629年 にリヴォニア北西部を獲得し、1645年 にはデンマークの領有するサーレマー島がスウェーデンの支配下に入る。スウェーデンの支配下に置かれたリヴォニアはエストニアの北半分にあたるエストラント、エストニア南部とラトビア北部・中部を含む地域はリーフラントに区画される[ 1] 。
17世紀 までの戦争の結果、エストニアは「バルト帝国 」とも呼ばれるスウェーデンの支配体制に組み込まれるが、スウェーデンの支配が行き届かないエストニア、リヴォニアではバルト・ドイツ貴族が強い力を持つようになっていた[ 23] 。しかし、タルトゥ大学 の前身であるアカデミア・グスタヴィアナの設立、聖書のエストニア語訳、ラトビア語訳など、学術の分野は成長し、エストニアでは「良きスウェーデン時代」として記憶されるようになった[ 24] 。1700年 から1721年 までロシアとスウェーデンの間で起きた大北方戦争 ではエストニアも戦渦に巻き込まれ、ロシア皇帝ピョートル1世 はスウェーデンの力を奪うためにエストニアで焦土作戦を展開した[ 25] 。ロシア軍による破壊、飢饉、疫病によってエストニア北部とリヴォニアは深刻な被害を受け、1708年 にタルトゥが破壊され、1710年 にタリンがロシアの占領下に入る[ 25] 。1721年に締結されたニスタット条約 によってスウェーデンが放棄した領土にはエストニア北部とリヴォニアも含まれており、それらの土地はロシア帝国 に編入された。
ロシアの統治、民族意識の高まり
ロシアの統治下に入ったバルト地方では、1719年 から1775年 までの間、エストラント (エストニア共和国の北部地域)とリヴラント (旧来のリヴォニア)にそれぞれ総督が置かれ、1775年以降に2つの地域は統轄され、1801年 にエストラント、リヴラント、クールラントが一人の総督によって管理される体制が確立された[ 26] 。旧バルト帝国内のスウェーデン色を一掃するため、ロシア帝国はバルト・ドイツ貴族を優遇し、そのためにバルト・ドイツ貴族と土着のエストニア人農民の格差は拡大する[ 27] 。1764年 にリヴラント、エストラントを視察したエカチェリーナ2世 は現地の農奴の窮状に衝撃を受け、翌1765年 に農民の生活改善を総督に命じたが、効果は現れなかった[ 28] 。アレクサンドル1世 の皇帝即位後にバルト地方に啓蒙思想 が広がり、1802年 にエストラント、1804年 にリヴラントで農民の財産権が認められた[ 27] 。1816年 から1819年 にかけてバルト地方ではロシア本国に先駆けて農奴制が廃止されたが農奴解放に対するバルト・ドイツ貴族の抵抗は根強く、農民の権利は制限され、彼らの生活は劇的に改善されなかった[ 29] 。1849年 にリヴラント、1858年 にエストラントで農民の農地の永年所有権の購入が認められ、自営農民が徐々に現れ始めたものの、彼らは政府からの支援を受けられなかった[ 30] 。農奴解放後は土地を持たない農民が産業化が進む都市部に流入して労働力を形成するようになり、やがて彼らは都市の中産階級としてバルト・ドイツ人が作り上げた都市社会制度に挑戦するようになる[ 31] 。
19世紀前半のアレクサンドル1世の自由化政策によって実施された農奴解放、教育水準の向上、西欧思想との接触は500年以上にわたるバルト・ドイツ貴族の支配に不満を抱いていたエストラント、リヴラントの先住民であるエストニア人、ラトビア人の民族意識を育んでいく[ 32] 。1845年 にバルト総督に任命されたエヴゲニー・ゴロヴィンは従来のバルト・ドイツ貴族に宥和的な政策を一転させ、彼らに対して強硬な態度を示した[ 33] 。ロシア国内の汎スラヴ主義者もバルト・ドイツ貴族の特権剥奪を主張し、1840年代からエストラント、リヴラントで非ドイツ化を目的とするロシア正教 への改宗運動が開始された[ 33] 。1860年代にエストニア人によるエストニア語 の教育施設であるエストニア・アレクサンドル学校が開校し、1869年 からエストニア音楽祭 が開催される。また、民族意識の高揚に『サカラ』の創刊者であるカール・ロバート・ヤコプソン、詩人フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルト 、リディア・コイトゥラ らの文化人の活動も民族意識の高揚に寄与した[ 34] 。また、バルト・ドイツ人の中にはエストニアの伝統文化、言語、歴史に強い関心を持つ人間がおり、エストニア人の地位向上・利益確保に奔走したバルト・ドイツ人はエストフィルと呼ばれていた[ 35] 。1838年にドルパトに創設されたエストニア学識者協会は構成員の大部分がエストフィルであり、叙事詩『カレヴィポエク 』の編集・発表、エストニア語の語彙・文法の収集で成果を残している[ 35] 。
1881年 にロシア皇帝に即位したアレクサンドル3世 は本格的なロシア化 政策を推進し、バルト・ドイツ人の特権だけでなく、エストニア人、ラトビア人の民族運動も制限される[ 36] 。
ロシア革命以後
1917年 にロシア革命 が勃発すると、1918年 2月24日 にエストニア共和国 の独立を宣言。3月3日にボルシェヴィキ政府はドイツとブレスト=リトフスク条約 を締結し、独立が認められたものの、イギリスを主力とする連合国 のロシア内戦 への干渉 (英語版 ) を受けてドイツを巻込み、11月からボルシェヴィキ政府や親ドイツのen:Baltische Landeswehr と三つ巴のエストニア独立戦争 (英語版 ) が始まった(en:Soviet westward offensive of 1918–19 、en:British campaign in the Baltic (1918–19) )。1920年 にはレーニン の「四月テーゼ 」に基づきソ連 は独立を承認した。また、第一次世界大戦 後、自らが掲げた「民族自決 」の原理に従い、国際社会も独立を承認した。
ソ連による独立承認後は政局が不安定であった。1918年 ~1934年 多元的民主主義 体制、1934年 ~1940年 はコンスタンティン・パッツ による権威主義 的独裁体制であり、親イギリス 外交を推進した。1934年 にはファッショ 的な在郷軍人会(ヴァプス運動 (英語版 ) )が反政府活動を行い、国家の緊急事態が宣言されて弾圧された。
ソ連によるバルト三国占領概観
1939年 に第二次世界大戦 が勃発すると、「独ソ不可侵条約 」及びその「秘密議定書 」に基づき、ドイツとソ連がポーランドに侵攻 した。領土的野心のあったスターリン はエストニア、ラトビア 、リトアニア のいわゆる「バルト三国 」に食指を動かし、翌年6月に外相モロトフ を派遣し、新政府樹立の最後通牒 を突きつけた。ドイツからの支援も受けられないエストニアは他の2国とともに1940年 6月17日にソ連軍の進駐および新政府の樹立を以って、ソ連に編入され、多数の住民が逮捕或いはシベリア送り にされた。独ソ戦 に対しては進攻するドイツ軍を歓迎した者もおり、武装親衛隊の支援によるソ連へのゲリラ 活動(森の兄弟)を行い、ソ連側もエストニア人部隊を送るなど代理戦争で混乱を極めた。
ソ連のエストニア占領
1940年6月、エストニア共和国はソ連によって占領された[ 37] [ 38] [ 39] 。
1939年 9月24日、赤軍 の海軍軍艦がエストニアの港沖に現れ、ソ連爆撃機がタリン とその近郊上空で威嚇飛行を始めた[ 40] 。ソ連政府の要求はヨーロッパの戦争の期間、エストニアがその領土にソ連の軍事基地建設と2万5千人の部隊の駐留を認める協定を承諾することだった[ 41] 。エストニア政府は最後通告を受入れ、1939年9月28日関連する協定に調印した。
1940年6月12日、ソ連バルト海艦隊 によるエストニアの完全な軍事封鎖の命令が出された[ 42] [ 43] 。
1940年6月14日、世界の注目が前日のナチス・ドイツ によるパリ陥落 に集中する間に、ソ連によるエストニアの軍事封鎖が実施され、タリン 、リガ 、ヘルシンキ に置かれたアメリカ公使館からの外交文書を運んでいたタリン発ヘルシンキ行のフィンランド旅客機「カレヴァ(Kaleva )」は2機のソ連爆撃機に撃墜された。アメリカの外務部事務員ヘンリー・W・アンタイル・ジュニア(Henry W. Antheil, Jr. )はその墜落によって死亡した[ 44] 。
1940年6月16日、ソ連邦はエストニアに侵攻した[ 45] 。モロトフ はバルト海の国々のソ連に対する陰謀を非難し、ソビエトが承認する政府の設立を求めた最後通告をエストニアに届けた。
国境と国内の両方で圧倒的なソ連の軍隊がある状態の中、流血や戦争を回避するため抵抗しないことをエストニア政府は決定した[ 46] 。エストニアは最後通告を受け入れ、6月17日エストニアにある赤軍 の軍事基地から赤軍が出動した時に国家としてのエストニアは事実上存在しなくなった。翌日にはさらに約9万人の軍隊が国に入った。ソ連軍に支援された共産主義者のクーデター によりエストニア共和国の軍事占領は「正式」なものになり[ 47] 、続いて共産主義者寄り以外の候補者が非合法化された中で「議会選挙」が行われた。そのように選出された「議会」は1940年7月21日エストニアを社会主義共和国と宣言し、エストニアがソ連に「加入」することを満場一致で要求した。エストニアをソ連に併合するという「政治的義務」である投票ができなかった人々はその投票行為により、パスポートに検印のスタンプを得ることに失敗し、ソビエト裁判所は彼らの後頭部を撃つことを許した[ 48] 。8月6日、エストニアは正式にソ連に併合され、エストニア・ソビエト社会主義共和国 に名称が変更された[ 49] 。エストニアの1940年の占領とソ連への併合はイギリス、アメリカ、及び他の西側民主主義国家には違法であり、決して正式に承認されることはないものだった[ 50] 。
ソビエト当局はエストニア全ての支配権を得て、直ちに恐怖の体制を強要した。ソビエト占領(1940~1941)の最初の年に、国の指導的政治家と将校のほとんどを含めた8000人が逮捕された。逮捕された内の2200人がエストニアで処刑され、他の大部分はロシアの収容所 に移され、後にそこから生きて帰れたものはほとんどいなかった。1941年6月14日、バルト三国 で一斉に大規模な国外追放が行われ、約1万人のエストニア市民がシベリアなどのソ連国内の遠い土地に追放され、そこで彼らの半分近くは後に亡くなっている。遠くトルキスタン・シベリア鉄道 などの工事に動員されたのも強制連行されたエストニア人たちである。1941年のドイツのソ連への侵攻後、ソ連軍に動員の名目でロシアに強制移動された3万2100人のエストニア人男性の40%近くが飢え、寒さ、更に過酷な労働で「労働大隊」と呼ばれる状態の中で翌年の内に亡くなった。1940年から1941年であった最初のソ連占領期には約500人のユダヤ人がシベリア に送られた。エストニア人の墓地と記念碑は破壊された。他方、1918年から1944年の墓石の多くを有したタリン戦没墓地がソビエト当局に破壊され、この墓地は赤軍に使用されることとなった[ 51] 。他にも1774年に設立されたバルト・ドイツ人 の墓地(Kopli cemetery 、Mõigu cemetery )と最も古い16世紀に設立された墓地(Kalamaja )もエストニアのソビエト時代に当局に破壊された墓地の中のものであった。
合衆国を含めた多くの国は、ソ連によるエストニアの併合を認めなかった。そのような国々は、エストニア旧政府の名の下で活動を続けていたエストニアの外交官と領事を正当な存在と認めていた。これらの熟練した外交官はバルト独立の最終的な回復までこの異常な状況の中で存在し続けた。
Ernst Jaakson は合衆国に対して最も長期間勤めた外交の代表であり、1934年からは副領事、1965年からエストニアの独立が再達成されるまでは合衆国のエストニア公使館の総領事であった。1991年11月25日、彼はアメリカ合衆国に対しエストニア大使として信任状を捧呈した[ 52] 。
第二次世界大戦以降
1989年からエストニアの市民のための登録カード
第二次世界大戦後はソ連に再併合され、ソ連の15の共和国の一つとなる。農村集団農場 化政策が推進され、「裕福な自作農」(クラーク )や反体制派と見なされた人間が強制連行 されてシベリア に追放されると共に、ロシア人などの非エストニア人が他の共和国から多数エストニアに流入した。
時代は下ってソ連にゴルバチョフ が登場して、ペレストロイカ 政策を推進すると、自由化の空気がエストニアにもおよび1988年 には独立を目的とするエストニア人民戦線が設立される。さらに「ベルリンの壁崩壊 」に象徴される東欧の民主化 の波はエストニアはじめバルト3国にも波及し、1989年 8月23日にはタリン 、リガ 、ヴィリニュス を「人間の鎖 」で結ぶ運動(バルトの道 )に100万人が参加、独立回復への気運は抑えがたいものになった。翌1990年 5月12日にはタリンでバルト3国の首脳が集まり、3国はソ連編入前に存在した「3カ国会議」の復活を宣言。事実上の独立回復宣言となった。しかし、ソ連ゴルバチョフ大統領はそれを無効とした。1991年 のソ連での連邦維持の投票はボイコット。8月19日の共産党保守派のクーデター を原因したソ連の体制の動揺直後の9月6日にはソ連が独立回復を承認。さらに国連 に加盟。名実ともに独立した(エストニアの独立回復 )。
その後1994年 のロシア軍 の撤退を受け西欧諸国との関係を強め、2004年 には北大西洋条約機構 と欧州連合 にそれぞれ加盟した。なおエストニアは、フィンランド との関係から、北欧 を重視し、北欧理事会 への参画を試みたが、理事会 側から参画を断られている。代わりに1991年に理事会の情報事務所が開設され、1992年 にバルト三国と共にバルト海諸国理事会 に加盟した。2005年 からは、ポーランド空軍 がエストニアを含むバルト三国 の領空防衛を委任されている(北大西洋条約機構によるバルト三国の領空警備 )。
2007年 4月27日 、エストニア国会の決議で首都タリン中心部にあった第二次世界大戦記念の旧ソビエト軍兵士像(青銅の兵士、タリン解放記念碑 )を撤去することになったが、これに反対するロシア系住民と警官隊が衝突して一名死亡、三百名逮捕という事態になった。これを機にロシアでも反エストニアの運動が起こり、両国関係は悪化している。
脚注
^ a b c d 小森「領域的変遷」『エストニアを知るための59章』、27-31頁
^ 鈴木『バルト三国史』、4頁
^ a b 鈴木『バルト三国史』、5頁
^ 志摩『物語 バルト三国の歴史』、26頁
^ a b c 鈴木『バルト三国史』、6頁
^ 山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、107,112-113頁
^ 山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、114,122頁
^ 山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、134-135頁
^ a b 鈴木『バルト三国史』、7頁
^ 志摩『物語 バルト三国の歴史』、35頁
^ a b 山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、136頁
^ 山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、142-145頁
^ 志摩『物語 バルト三国の歴史』、33頁
^ a b c 今村「バルト・ドイツ人」『エストニアを知るための59章』、82-86頁
^ ロロ『バルト三国』、56頁
^ a b カセカンプ『バルト三国の歴史』、64頁
^ a b 志摩『物語 バルト三国の歴史』、37頁
^ 鈴木『バルト三国史』、14頁
^ 鈴木『バルト三国史』、15-16頁
^ 鈴木『バルト三国史』、16頁
^ 鈴木『バルト三国史』、18頁
^ 鈴木『バルト三国史』、18-19頁
^ 鈴木『バルト三国史』、21-22頁
^ 鈴木『バルト三国史』、22頁
^ a b 鈴木『バルト三国史』、23頁
^ 鈴木『バルト三国史』、27,30頁
^ a b 鈴木『バルト三国史』、30頁
^ 志摩『物語 バルト三国の歴史』、83頁
^ 鈴木『バルト三国史』、30-31頁
^ 志摩『物語 バルト三国の歴史』、109頁
^ 鈴木『バルト三国史』、32-33頁
^ 鈴木『バルト三国史』、31-32頁
^ a b 鈴木『バルト三国史』、33頁
^ 鈴木『バルト三国史』、32頁
^ a b 今村「知識人」『エストニアを知るための59章』、87-89頁
^ 鈴木『バルト三国史』、34頁
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参考文献
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