オーロラ号の漂流(オーロラごうのひょうりゅう英: SY Aurora's drift)は、1914年から1917年に実施されたアーネスト・シャクルトンの大英帝国南極横断探検でロス海支隊を運んだスチームヨットのオーロラ号が、312日間漂流した試練の出来事である。1915年5月、南極大陸のマクマード入江に係留されていたオーロラ号が、強風のときに繋索が切れて漂流を始めた。厚い流氷に囲まれて操船不能となり、十分な食料の蓄えを持たない隊員10人を陸上に残し、18人の乗組員とともに、ロス海と南極海の開けた海域に流されてしまった。
当初、ステンハウスはエレバス氷舌自体の北側に船を停泊させようとした[13]。あるとき風向きが変わり、氷舌と近づいてくる叢氷の間にオーロラ号が閉じ込められそうになったが、かろうじてこれを回避した[14]。他の選択肢をいくつか検討した結果、最終的には以前にスコット大佐がテラノバ遠征で1911年に基地とした、氷舌の北約6海里 (11 km) に位置するエバンス岬沖で停泊することに決めた。[15]。3月14日、何度もやり直した末[16][17]、ステンハウスはオーロラ号をエバンス岬の岸に船尾を向けた位置につけ、2つの大きな錨を投じて海底に固定した。錨は錨索と太綱、それに太い鎖によって船尾につながれた。主錨鎖も2つ落とされた。3月14日のうちに、二等航海士のレスリー・トンプソンの言葉によれば「戦艦を保持できるほどの太綱と錨」で船が岸の氷に固定されていった[18]。
5月8日、それまで止むことなく吹き続けた南からの強風によって、船が氷に閉じ込められたままマクマード入江から北へと押し出され、ロス海の開放水域に入った[26]。ステンハウスは5月9日の日誌でオーロラ号の状況について「叢氷の中に固く閉ざされ、どこへ行くかは神のみぞ知るだ。(中略) 我々の健康状態は良い。(中略) 意気は高く、きっとうまく切り抜ける。」と要約した[27]。ステンハウスは、もはやマクマード入江での越冬は期待できないと観念し、エバンス岬に残された隊員のことを心配して「彼らにとって、見通しは非常に暗い。そり隊が来年使う分のバーバリーや衣類その他を船に積んだままだ」と記した[27]。その後の2日間、乗組員が甲板で働けないほどに風が強かったが[26]、5月12日は一時的に無線通信用アンテナを張れるほどに和らいだ。フックが陸上の部隊との接触を試み始めた。しかし、そのモールス信号はエバンス岬に届かなかった[28]。船に搭載していた送信機は通常の通信範囲が300マイル (480 km) 足らずであったが、フックは1,300海里 (2,400 km) 以上離れたマッコーリー島の基地と通信しようとして、やはり叶わなかった[26][28]。
7月9日には漂流のスピードが上がり、叢氷の圧力が高まる兆候があった。7月21日、氷が船首と船尾の両端から船体を押しつぶすような位置になり、がっしり掴まれて舵が修復不能なまで壊れた。フックの日誌によれば「全員が舷側から氷に飛び降りる用意ができていた。船は間違いなく破壊されるように思われた」と記した[33]。翌日、ステンハウスは船を放棄する準備をしたが、氷の動きが変わって状況が緩和され、船は安全な位置に落ち着いた[34]。船を棄てる計画は中止された。フックは無線通信用アンテナを修理し、マッコーリー島に対する呼び出しを再開した[35]。8月6日、漂流を始めてから初めて太陽が顔を出した。オーロラ号は依然として氷にしっかり捉えられたままで、今やエバンス岬から北へ360海里 (670 km) にあって、ロス海が南極海となり、ヴィクトリアランド北端のアデア岬に近い場所に位置していた[36]。
南極海の段階
船がアデア岬を過ぎた時、漂流の方向が北西向きに変わった[37]。8月10日、ステンハウスは、船の位置が岬の北東45海里 (83 km) で、1日の平均漂流距離はちょうど20海里 (37 km) を少し上回る程度と推定した[36]。その数日後、ステンハウスは船が「前後に漂流しており、進歩がない状態」[38]だと記している[36]。「しかし、文句を言ってはいられない、忍耐するしかない」とステンハウスは記し、マスト上の見張り台からははっきりと開放水面が見えると付け加えた[36]。叢氷の縁が近い見込みがあるため、応急舵の工作が始まった。これには破壊された舵の除去から始める必要があり、技師のドネリーが大部分を担当した[39]。応急舵はありあわせの材料で作られ、8月26日には、氷から脱出でき次第使えるようになっていた[39]。その時には舵を船尾から降ろし、人力で「巨大なオールのように」こぐことになっていた[40]。
8月25日、フックはときおりマッコーリー島とニュージーランドとの間で交わされている無線信号を傍受し始めていた[40][41]。8月末には海氷域の中に開けた水路が現れるようになり、ときには船の下で波のうねりを見つけることができた[39][41]。しかし、9月に入って厳しい気象条件が戻り、ハリケーンのような風が無線通信用アンテナを破壊し、通信を試みていたフックの無線業務が一時的に中断された[40]。9月22日、オーロラ号から無人のバレニー諸島が視界に入るようになった。ステンハウスはエバンス岬からの移動距離を700海里 (1,300 km) と推算し、これを「すばらしい漂流」と称した。また、自然現象や氷の方向については定期的な観測と記録が維持されており「(漂流も)無駄ではなかった。叢氷の流向や流速に関する知識は、あらたに人類の知識の集積に加わる貴重なものだ」と付け加えた[41]。
南極の夏が終わりかけており、ステンハウスはオーロラ号がもう1年氷に捉われたままになる可能性を考えねばならず、燃料や食料の点検後、アザラシやペンギンをもっと捕獲するよう命令した。しかしこれは難しいことが分かった。氷が柔らかくなってきており、船から遠くまで移動するのは危険だった[37][44]。船を囲んでいる氷が解けるにつれて、船殻木材の継ぎ目が開いて来て、1日3ないし4フィート(およそ1 m)の水が浸水してくるようになり、ポンプで掻い出すのが日常になった[37]。2月12日、乗組員が排水作業で忙しくしていたところ、ついに船の周りの氷が壊れ始めた。わずか数分で浮氷全体が粉々になり、水面が開け、オーロラ号は自由に浮かんでいた[45]。翌朝ステンハウスは帆を張ることを命じたが、2月15日、船は集まって来た氷に止められ、また2週間動けなくなった[45]。石炭が底をついてきていたのでステンハウスはエンジンの使用をためらったが、3月1日に選択の余地がないと判断した。蒸気を送るように命じ、翌日にはエンジンの力で前進を始めた[37]。何度か停止と進行を繰り返した後、3月6日に、見張り台から氷の縁が視認された[37]。3月14日、オーロラ号は遂に氷から離れた。312日間、1,600海里 (3,000 km) を漂流して来ていた。ステンハウスは船が開けた海に出た位置を南緯64度27分、東経157度32分と記録した[45]。
文明世界への帰還
叢氷からの脱出が遅れたことで、すぐにエバンス岬へ救援に向かうというステンハウスの望みが絶たれた。今や、ニュージーランドにたどり着き、翌春に南極に戻ることが最重要だった[45]。叢氷に捕まっていた最後のいらだたしい数週間で無線機器の作業を続けていたフックは、電文の送信を再開した。フックと他の乗組員は、オーロラ号が漂流している場所から最も近いマッコーリー島の無線局が財政的な事情でオーストラリア政府によって最近閉鎖されていたことを知らなかった[46]。3月23日、甲板から80フィート (24 m) の高さに掲げた特製の4線型アンテナを使ってフックが電文を送信したところ、大気圏の異常な条件が重なり、ニュージーランドのブラフ局に信号が届いた[46]。翌日にはタスマニアのホバートまで信号が届き、フックはそれから数日間、オーロラ号の位置、全体の状況、陸上部隊の苦境に関する詳細を送った。これらの電文は、無線機の通常の通信範囲をはるかに超える距離の送信を可能にした異常伝播が発生した事実とともに、世界中で報道された[46][47]。
^原文では"backing and filling"。"backing and filling"は帆船に関するイディオムで、もともとは帆を巧みに逆帆 (back) にしたり、風をはらませたり (fill) して狭い水域を進むことを意味する。19世紀の中頃以降、これが転じて「方針の変更を繰り返す」、「物事がはっきり決まらない様」を表す比喩として用いられるようになった。
^デイビスは1907年~1909年の遠征でニムロド号の一等航海士、後に船長を務めたほか、オーストラリアの南極遠征 (1911年~1914年) でオーロラ号の船長を務めるなど、南極圏における経験は豊富であった。Béchervaise, John. “Davis, John King (1884–1967)”. Australian Dictionary of Biography. 10 August 2022閲覧。