ジョー・ジャクソン (英語 : Joe Jackson , 本名:ジョゼフ・ウォーカー・ジャクソン (Joseph Walker Jackson , 1887年 7月16日 - 1951年 12月5日 [ 1] )は、アメリカ合衆国 サウスカロライナ州 ピケンズ郡 出身のプロ野球選手 (外野手 )。愛称 は"シューレス・ジョー "("Shoeless Joe ")。
1919年のワールドシリーズ で行われた八百長 事件である『ブラックソックス事件 』に関与したとして、翌1920年 に永久追放 処分を科された「アンラッキー・エイト (悲運の8人)」の1人である。
経歴
プロ入り前
サウスカロライナ州ピケンズ郡にて父ジョージと母マーサの間に、8人兄妹の長男 として生まれる。直後に同州グリーンビル に移り、父は繊維工場 に勤務 した。自身も幼い頃から工場で働いていたため学校 に通ったことが無く読み書き が全くできなかったが、工場の野球 チームでプレイすると次第に頭角を表し、州内で名の知れる存在になっていった[ 2] 。
現役時代
タイ・カッブ (左)と
1908年 にマイナーリーグベースボール のカロライナ・アソシエーション (英語版 ) に所属するグリーンビル・スピナーズと月額75ドル で契約 [ 2] し、打率 .346を記録[ 3] 。7月19日に15歳のケイティ・ウィンと結婚 し[ 2] 、直後の7月30日にフィラデルフィア・アスレチックス が1,000ドルで獲得した[ 4] 。8月25日のクリーブランド・ナップス 戦でメジャー ・デビューを果たす。しかし同年、翌1909年 共に5試合の出場で打率1割台と結果を残せずに終わる。大都市 フィラデルフィア での生活に馴染めずホームシック にかかっていた上、チームメイトからも読み書きができないことをからかわれていた[ 2] 。
1910年 7月30日、7月23日に成立したトレード の後日発表選手 としてナップスへ移籍 [ 4] 。9月にメジャーに昇格し、出場試合数は少ないながらも打率.387・5三塁打 を記録。
1911年 は中堅 のレギュラーに定着。右翼 に回った後半戦で打率.434を記録[ 5] [ 6] し、リーグ トップの出塁率 .468、いずれもタイ・カッブ に次ぐリーグ2位の打率.408・233安打 ・45二塁打 ・19三塁打・126得点 ・OPS 1.058と才能が開花 。.420を記録したカッブに阻まれ首位打者 獲得はならなかったものの、24歳2ヶ月での打率4割 達成は、1941年 にテッド・ウィリアムズ に更新されるまで最年少記録だった。MVP の投票では4位にランクインした[ 7] 。
1912年 は序盤やや低調だったが6月に打率.529、9・10月にも.495と打ちまくり[ 8] 、惜しくも2年連続の4割には届かなかったがリーグ2位の打率.395、リーグトップの226安打(カッブと同数)・331塁打 、リーグ新記録となる26三塁打を記録した。
1913年 は5月に打率.505を記録[ 9] するなど前半戦で打率.404・15三塁打・出塁率.494[ 10] 。8月初めまで4割を維持[ 11] したがその後は失速し、打率.373、いずれもリーグトップの197安打・39二塁打・長打率 .551・OPS1.011の好成績を挙げ、MVPの投票ではウォルター・ジョンソン に次ぐ2位にランクインした[ 12] 。
1914年 初頭に新興のフェデラル・リーグ からオファー を受けるが、断っている。同年は足の骨折 もあってやや成績を落とし、チームも最下位に沈んだ[ 2] 。
ホワイトソックス時代
チーム名が「インディアンス」に変わった1915年 8月21日、2選手プラス31,500ドル、更に後日発表の1選手と共にシカゴ・ホワイトソックス へ移籍[ 4] 。
1916年 は主に左翼 で出場し、6月に打率.512を記録[ 13] するなど打率.341、4年ぶりの200安打となる202安打、リーグトップの21三塁打・293塁打を記録した。
1917年 は終盤に辛うじて3割を超えるなどやや不本意な成績に終わるが、チームはリーグ優勝を果たす。ニューヨーク・ジャイアンツ とのワールドシリーズ では第2戦,第5戦でそれぞれ3安打を放って[ 14] 勝利に貢献し、4勝2敗で11年ぶり2度目のシリーズ制覇を果たした。
1918年 は開幕から17試合に出場した後、第一次世界大戦 の徴兵逃れ のため造船所 で労働者 として働き、その傍ら造船所の野球リーグでプレイしたことで批判を浴びた[ 2] 。チームメイトで親友 のレフティ・ウィリアムズ も同じリーグに所属した。
1919年 はホワイトソックスに復帰して打率.351・96打点を記録し、チームは2年ぶりのリーグ優勝。シンシナティ・レッズ とのワールドシリーズ では打率.375・1本塁打を記録する。しかしシリーズ開幕前から八百長が噂され、優勢を伝えられていたチームは3勝5敗で敗退した。
1920年 2月に年俸 8,000ドルの3年契約 を締結[ 2] 。打率.382・218安打、リーグトップの20三塁打、キャリアハイ の12本塁打 ・121打点 を記録するが、前年の疑惑はシーズン を通して燻り続けた。そして終盤の9月28日に裁判所 へ出廷し、共に八百長へ加担したとされるエース のエディ・シーコット 、ウィリアムズら7名の選手と敗退行為を認める供述 を行ったため出場停止 処分を受け、インディアンスと激しく優勝を争っていたチームは主力を欠いたことで2ゲーム差の2位に終わり、連覇を逃した[ 15] 。
ジャクソンを含む8選手は全員起訴 されたが、1921年 8月2日に証拠 不十分で無罪 が言い渡された。しかし翌日、コミッショナー のケネソー・マウンテン・ランディス は8人全員を球界から永久追放するという厳しい裁定を下し[ 15] 、キャリアは突如終焉を迎えた。
以後
追放処分後はジョージア州 のセミプロ リーグでプレイした。その後は故郷 に戻ってバーベキュー レストラン や酒屋 を経営。1951年、エド・サリヴァン が司会 を務めるテレビ番組 『トースト・オブ・ザ・タウン 』への出演が決まっていたが、その2週間前の12月5日に心臓発作 で死去[ 2] 。
ウィリアム・パトリック・キンセラ がブラックソックス事件をモチーフ に1982年 に発表した小説 『シューレス・ジョー 』及びその映画 化作品『フィールド・オブ・ドリームス 』、事件を描いた映画『エイトメン・アウト 』に登場した。
グリーンビルの自宅は後に記念館 として改装され、地元の人達のボランティア で運営されている[ 16] 。
2020年 5月、マイナーリーグ所属時代の1910年に発行された野球カード が、ネットオークション で492,000ドルという高値で落札 された[ 17] 。
人物
愛称の「シューレス(靴なし)・ジョー」は、マイナーリーグ時代に新しいスパイク が足に合わずに肉刺 が出来てしまったため、スパイクを履かずに靴下 のままプレイしたことが由来である[ 18] 。しかし、「ストッキングでプレイしたのはその1日だけだったのに、その後ずっと付いて回った」と語るなど、快く思っていなかった[ 2] 。
通算打率.356はカッブ(.367)、ロジャース・ホーンスビー (.358)に次ぐ歴代3位だが、首位打者のタイトルは一度も獲得できなかった。
ベーブ・ルース はジャクソンについて「今まで見た中で最高の打者 」と語り、スイング を真似たという[ 18] 。
「ブラックベッツィ」と名付けた長さ36インチ 、重さ48オンス のバット をプロ入り前から愛用し、メジャーでも使用した[ 2] 。
読み書きができなかったため、遠征先の朝食 ではウエイター からメニュー を渡されるとそれを読むふりをして、どこでも必ず用意されているHam & eggs をオーダー していた。また夕食 では周囲の客が何を注文するか耳をそばだててから同じものを注文したという[ 15] 。
後年、経営する酒屋にかつてのライバル だったカッブがバーボン を買いに訪れ、「俺のことを覚えていないのか?」と声をかけたが、「分かっているさ。でも、君たちは私のことを忘れたいだろ」と返答したという[ 16] 。
ブラックソックス事件
1913年
チームメイトのチック・ガンディル 経由でギャング から八百長を持ちかけられたこと、5,000ドルの賄賂 を受け取ったことは紛れもない事実だが、実際に八百長をしたかどうかは諸説ある。前述の「フィールド・オブ・ドリームス」でも主人公のレイ・キンセラが「八百長はしていない。なぜなら彼はワールドシリーズ で打率.375を記録し、チーム唯一の本塁打も打っているからだ」と語る場面がある。その一方で「彼は自軍が勝利した3試合では打率.545ながら、敗戦の5試合では.286で最初の4敗では.267でしかない」と主張する野球史家もいる[ 19] 。
有名なエピソードとして、八百長に関与した8人の中で最も人気が高かったジャクソンが大陪審 での証言を終えて裁判所から出て来た際に、1人の少年ファンが「Say it ain't so, Joe! (嘘だと言ってよ、ジョー!)」と叫び、これに対し「ごめんよ、どうも本当らしい」と応えたというものがあるが、これはシカゴ・デイリーニューズ 誌の新聞記者 チャーリー・オーエンスの捏造 であり[ 18] 、実際は「(少年ファンに)話しかけられなかったどころか、裁判所の外に子供は1人もいなかった」とジャクソン記念館のアーリーン・マークリー館長は語っている[ 16] [ 20] 。
埋もれていた記録
ベーブ・ルース (左)と(1920年)
2001 年、MLB1年目のイチロー が200安打を超えた辺りから新人最多安打記録が話題になり始めた。それまで認知されていたのはロイド・ウェイナー が1927 年に記録した223安打だったが、MLB機構が再調査した結果、新人選手の定義 (打者は前年までの打席数 130以下)に当てはめた場合1911年の233安打が最多記録だったことが90年後になって判明した[ 21] 。その後イチローが更新し、現在は242安打が最多である。
その他
アメリカ合衆国のミュージシャン でクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル の元ヴォーカル 、ジョン・フォガティ が1985年 に発表したアルバム タイトル曲『センターフィールド』の2番の歌詞 において、有名なベースボール・ポエム「ケイシー打席に立つ 」の一節や、ウィリー・メイズ ,カッブ,ジョー・ディマジオ といった殿堂入り中堅手の名前と共に、ブラックソックス事件における有名なフレーズ "Say it ain't so" が『Don't say "it ain't so"』として引用されている。ちなみにフレーズだけで名前は登場しないジャクソンは中堅手ではなく左翼手だった。
また、イギリス の歌手・俳優であるマレー・ヘッド が、1975年 にシングル『Say It Ain't So, Joe』を発表し、さらにその後、ザ・フー のリード・ボーカリストであるロジャー・ダルトリー がカバーしている。
2013年のMLBドラフト で、曾孫 にあたるジョー・ジャクソンがテキサス・レンジャース から5巡目で指名されている[ 22] 。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
1908
PHA
5
23
23
0
3
0
0
0
3
3
0
-
0
-
0
-
0
-
-
.130
.130
.130
.261
1909
5
18
17
3
3
0
0
0
3
3
0
-
0
-
1
-
0
-
-
.176
.222
.176
.399
1910
CLE
20
86
75
15
29
2
5
1
44
11
4
-
3
-
8
-
0
-
-
.387
.446
.587
1.032
1911
147
641
571
126
233
45
19
7
337
83
41
-
6
-
56
-
8
-
-
.408
.468
.590
1.058
1912
154
653
572
121
226
44
26
3
331
90
35
20
15
-
54
-
12
-
-
.395
.458
.579
1.036
1913
148
623
528
109
197
39
17
7
291
71
26
-
10
-
80
-
5
26
-
.373
.460
.551
1.011
1914
122
513
453
61
153
22
13
3
210
53
22
15
13
-
41
-
5
34
-
.338
.399
.464
.862
1915
83
338
303
42
99
16
9
3
142
45
10
10
3
-
28
-
3
11
-
.327
.389
.469
.858
CWS
45
193
158
21
43
4
5
2
63
36
6
10
8
-
24
-
3
12
-
.272
.378
.399
.777
'15計
128
531
461
63
142
20
14
5
205
81
16
20
11
-
52
-
6
23
-
.308
.385
.445
.830
1916
155
658
592
91
202
40
21
3
293
78
24
14
16
-
46
-
5
25
-
.341
.393
.495
.888
1917
146
623
538
91
162
20
17
5
231
75
13
-
19
-
57
-
7
25
-
.301
.375
.429
.805
1918
17
78
65
9
23
2
2
1
32
20
3
-
5
-
8
-
0
1
-
.354
.425
.492
.917
1919
139
599
516
79
181
31
14
7
261
96
9
-
17
-
60
-
4
10
-
.351
.422
.506
.928
1920
146
649
570
105
218
42
20
12
336
121
9
12
16
-
56
-
7
14
-
.382
.444
.589
1.033
通算:13年
1332
5695
4981
873
1772
307
168
54
2577
785
202
81
131
-
519
-
59
158
-
.356
.423
.517
.940
記録
通算打率:.356(歴代3位)
ワールドシリーズ優勝:1回(1917年)
脚注
関連項目
外部リンク
球団 歴代本拠地 文化 永久欠番 ガーディアンズ球団殿堂 ワールドシリーズ優勝(2回) ワールドシリーズ敗退(4回) リーグ優勝(6回) できごと 傘下マイナーチーム