ローテンブルク・オプ・デア・タウバー (ドイツ語 : Rothenburg ob der Tauber サウンド [ヘルプ /ファイル ] )は、ドイツ 南部のバイエルン州 ミッテルフランケン行政管区 のアンスバッハ郡 にある大規模郡都市。
地理
位置
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、タウバー川 沿いのフランケンヘーエ自然公園周縁部に位置している。
地域
市の構成
本市は、公式には39の地区 (Ort) からなる[ 2] 。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。
ベッテンフェルト
デトヴァング
ハンスレーダーミューレ
ヘルンヴィンデン
カイザーシュトゥール
ルードレスミューレ
ミッテルミューレ
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー
シュレースライン
ウンテーレ・ヴァルクミューレ
隣接自治体
(南から時計回り)
歴史
ローテンブルク遠望。街は丘の上にある
古代
ローテンブルクの起源は、現在は一市区となっているデトヴァングにあった。この小教区は、970年 頃にライニガーという名の東フランケン地方 の貴族によって創設された。この貴族はついでコムブルク(現在はシュヴェービッシュ・ハル 市の一部)を創設した。この貴族が、タウバー川を望む丘の上に (oberhalb der Tauber) 城を建てたことが、現在の地名である "ob der Tauber " の由来である。
このコムブルク=ローテンブルク伯が断絶する1108年 までには、皇帝の城が築かれていた。この伯家の最後の当主となったハインリヒ・フォン・ローテンブルクは、城をコムブルク修道院 に遺贈した。
しかし、皇帝 ハインリヒ5世 は、この遺贈を認めず、甥のコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェン にレーエン としてこの所領を与えた。コンラートは1137年 にローマ王 (在位1138年 -1152年 )に即位してコンラート3世となると、1142年 にローテンブルクに帝国の城を築き、ここに宮廷を置いた。しかしローテンブルクの宮殿において政務を執った国王はコンラート3世のみである。
彼の息子のフリードリヒ・フォン・ローテンブルク は、父親が亡くなったときはまだ成人前であったため、従兄弟のフリードリヒ1世 の後見下に置かれ、1157年 に「ローテンブルク公」という称号で刀礼 を受けた。フリードリヒ1世により、フリードリヒ・フォン・ローテンブルクにはエーガーラント 地方も与えられた。フリードリヒは1167年 に亡くなり、彼の兄も早逝していたため、ローテンブルクの城は意味を失った。
中世
1170年 にローテンブルク市が設置された。当時の町の中心は市場とヤコブ教会であった。この当時から街の要塞化が始まったとみられる。その時代の遺物として、古い地下室・古い堀や牛乳市場などを見る事が出来る。13世紀 になると、塔や城壁が造られた。その中で現在まで残っているものはレーダー・アーチとマルクス塔である。
1194年 から1254年 まで、ホーエンシュタウフェン朝 の代官がローテンブルク周辺の地域を支配した。この頃、聖ヨハネ修道会やその他の修道会がヤコブ教会やドミニコ会 の修道院の近くに設置された。
1274年 にローテンブルクはハプスブルク家 のルドルフ1世 から帝国都市 の特権を与えられた[ 3] 。市内には3つの有名な市場が出来、その後の数世紀にわたり街は発展した。市内の住民と郊外の騎士らはフランシスコ会 の修道院と聖霊病院を設置した(1376年 - 1378年 に市の防壁に組み込まれた)。ドイツ騎士団 は1311年 に聖ヤコブ教会の建設をはじめ、1336年 から市民が使えるようになった(完成は1485年 )。聖ヤコブ教会には、十字軍 遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物 とされる聖血 (英語版 ) が置かれた。これが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。その当時は神聖ローマ帝国 内の上位20都市の中に入っていた。市壁の内側の人口は約5500人で、これに加えて周辺の390平方キロメートルの領地の中に14,000人が居住していた。
1350年 には皇帝から徴税権と関税権を認められ、この頃からローテンブルクは帝国自由都市 とみなされるようになる。
1356年 のバーゼル地震 で古い城塞が崩壊した。今もなお聖バルシウス教会が残っている所である。その廃墟の切石は当時としては貴重な資材であり、市壁の建造に用いられた。
中世のこの町で最も有名な人物は、エネルギッシュな政策で知られた市長ハインリヒ・トップラー(1340年 頃生 - 1408年 没)であろう。1373年 にはトップラーが市長に就任した(1408年まで在任)。ヤコブ教会の増築を決定。また1398年 には聖ヤコブ教会の建設をドイツ騎士団から引き継ぎ、聖ヤコブ教会は市所有の教会となった。それと同時に、ゴシック 様式の市庁舎の建設も始まった。1378年 、ローテンブルクはウルム を盟主とするシュヴァーベン都市連盟に加盟した。1400年 ごろまでには、ローテンブルクはフランケン地方 の中ではニュルンベルク に次ぐ第二位の人口を抱える都市となった。
1485年には、170年掛けて建設された聖ヤコブ教会が落成し、現在までよく保存されている。
1525年 、ドイツ農民戦争 において、ローテンブルクはフロリアン・ガイアー 率いる反乱軍側につき、プロテスタント に改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将 Kasimir は降伏した。Johann Teuschlein ら反乱者が処刑された。
近世
17世紀のローテンブルク
1544年 、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長の時代に遂にプロテスタントへの改宗を達成した。いわゆる宗教改革 である。
1559年 にはプロテスタントの教会規則が公布された。聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続きカトリック を信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれの教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。
1572年 、1501年 に焼失した市庁舎の東側の再建が始まった。その後、三十年戦争 が勃発するまでの間、街は繁栄した。
1618年 に勃発し1648年 まで続いた三十年戦争の時代、ローテンブルクも戦費の負担や通過する友軍への便宜供与などを行った。1631年 、1634年 、1645年 にローテンブルク付近で戦闘があった。
1631年10月にカトリック のティリー伯ヨハン・セルクラエス が、プロテスタント のルター派 のローテンブルクに40,000人の軍隊の宿営を求めた。街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。しかしながら、ティリー伯の軍隊は300人の兵を失っただけで、間もなくローテンブルクを陥落させた。「街に火を放ち掠奪する」と脅したティリー伯から旧市長のヌッシュが街を救った成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇『マイスタートゥルンク』 の話の元になっている。
帝国都市連合は1632年 -1634年にかけてスウェーデン と同盟した。
1634年にはペスト の大流行によって多くの死者が出た。
1645年にフランス の軍隊に占領された。
1650年 に最後の兵士が街を去ると、この街にはもはや財産も権力もなくなり、ローテンブルクの街の発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。これは、街が17世紀 のままの状態で保存された理由である。
1688年 の大同盟戦争 では、フランスの侵攻を受けてドイツ側の軍隊(ラントヴェーア )は大損害を受けたがローテンブルクは占領されなかった。街の再建は18世紀 まで続いた。
1793年 のフランス革命戦争 もこの地に大きな騒乱をもたらした。この頃、既にアンスバッハ侯領 とバイロイト侯領 を引き継いだプロイセン王国 はローテンブルクとの間で国境を画定する合意書に署名している。
この事は、ローテンブルクのような小さな帝国都市であっても、その独立性を認められていた事を意味している。
近代
1900年頃のローテンブルク
フランス革命戦争ではオーストリア 軍および帝国クライス 軍がフランスに敗北した。この賠償のために神聖ローマ帝国 はライン川左岸地域をフランス に割譲する事となった。このとき神聖ローマ帝国 が失ったライン川左岸地域の領土を領有していた諸侯に対しては、残っている神聖ローマ帝国領を再分割して領地を補償する事となり、そのために招集された帝国代表者会議主要決議 において1803年 に決議が成立した。この決議により、500年にわたる独立都市としての歴史を持つローテンブルクは、その意思に反してバイエルン 領に併合された。帝国の負債のため、バイエルンは多くの公共建築物や土地を売却した(例えば現在の教会広場となっている牛乳市場の Marienkapelle や、Stauferburg の大きな塔など)。帝国クライス 会議の代議士を勤めた名門の家系も土地を失い、von Stadt 家を除いて他所へ移って行った。
1806年 にはナポレオン の圧力により、フランス主導でバイエルン王国 が成立。同時にライン同盟 に加盟し、フランスの影響下に置かれた。ローテンブルクは辺境地帯となり、経済危機はさらに悪化した。
1813年 にはナポレオン敗退によりライン同盟は解消、1815年 のウィーン会議 によりバイエルン王国はオーストリアを盟主とするドイツ連邦 に加入した。
このドイツ連邦も、1866年 の普墺戦争 のプロイセン 勝利をもって解消された。1871年 にドイツ帝国 が成立すると、バイエルン王国もドイツ帝国に組み込まれた。また、1873年 には鉄道 が開通した。これらの理由によりドイツ帝国内からの旅行が容易になり、次第に観光客が増え始めた。また工業化(乳母車工場など)も進め、経済は回復を始めた。
1880年代 になると、ロマン主義 の画家らによってローテンブルクが再発見され、イギリス やフランスからも人気の観光地となっていった。街並みに大きな変更を加える事を禁ずる法律が作られた。第一次世界大戦 前には、現在も存在しているホテル・アイゼンフートに滞在するバスツアーまであった。
ヴァイマール共和国 時代、この都市とその周辺の選挙区は、NSDAP 支持者の多い地区となり、1933年 の選挙でこの政党は80%もの票を獲得した。
ローテンブルクはナチスの運動家たちにとって特別に重要なものであった。彼らにとってローテンブルクはドイツ人の「故郷の町」の典型であり、ドイツ的な要素を余すところなく体現した街とされた。1930年代を通じて、ナチスの下部組織である歓喜力行団 は国中からローテンブルクへの日帰り旅行を定期的に組織した。この運動はローテンブルクの住民からは強く支持された。それは、この運動がもたらす経済的な利益のみならず、ローテンブルクは「ドイツの街の中で最もドイツ的である」と称揚されていたからでもあり、住民の多くは国家社会主義に好意的であった。1938年10月、ローテンブルクはユダヤ人市民を追放した。これはナチスや、ドイツ中のナチス支持者たちから支持された[ 4] 。
ここに理想的なナチスの地域社会が作り出されることで、ドイツの人々はナチスが求める家族や地域社会としての生活のありようを連想した。ローテンブルクは、ナチスの思想を理想的な家庭生活として明瞭に具現化していた。更に、他のドイツの街もナチスを支持してローテンブルクに作られた「例」に続くようになり、これが、ローテンブルクに「理想的な」ナチスの地域社会を作るということにつながるナチスのドイツ国家主義の傾向の始まりとなっていった。これが発展して、当時のプロパガンダで描かれていたような、理想的なナチスの家族像を示すことにつながっていった。ナチスやヒトラーユーゲント の中で育ち、そして市民としてあるいは軍人としてナチスドイツの思想と総統アドルフ・ヒトラー を守るというナチスドイツの少年教育が始まると、理想的なライフスタイルは更に奨励された。これがナチスの愛国主義の中核思想を形成し、彼らの信条となっていく。多くの方法で、ローテンブルクはナチスの運動の鍵となる要素を示し、国家社会主義者の考えをドイツ中、およびヨーロッパ中のドイツ語圏地域に広めるためのモデル地域となっていたのである。
連合軍による爆撃後のローテンブルク(1945年)
第二次世界大戦 の終戦直前の1945年 3月 、ドイツ軍の兵士がローテンブルクに駐屯して街を守備していた。3月31日 、ローテンブルクは、16機のアメリカ空軍 機の爆撃を受け、39人が死亡し、306軒の家屋、6つの公共建築物、9つの望楼、そして市壁が600mにわたって破壊された。
これは、保存されていた建造物の約40%以上を占める旧市街東部が損傷または破壊された事になる[ 5] 。
この爆撃作戦の本来の目標は、オーバーフランケン のエーブラハ であったが、霧に覆われていたため攻撃できず、このため代理の目標として、軍事的な意義などないにもかかわらず、ローテンブルクが攻撃されたのであった。損害の大部分は、旧市街でも比較的新しい地域であったため、最も重要な記念建造物は、被害を免れた。後に質問されたパイロットは、自分たちが文化遺産都市を爆撃していることにまったく気づいていなかったと答えている。
かつての米国国防省副長官ジョン・ジェイ・マックロイ は、文書で以下の証言を行った。ローテンブルクへの進軍に際して、デーヴァーズ将軍の部隊による砲撃が計画されたのだが、これを阻止したというのである。彼は、戦前にこの街を訪れ、この中世都市に魅了された母親の話で、この街を知っていたのだという。ドイツ軍守備隊長のThommes少佐はヒトラー の「全ての街は最後まで戦え」との命令を無視し、降伏した。これによって、砲撃による街の完全破壊は免れた。4月17日 、ドイツが降伏する3週間前に、米軍が街を占領した。
現代
戦後、街の多くが再建された[ 6] 。全世界から再建のための寄付が寄せられ、アメリカからも多額の再建資金援助を行っている。この時の寄付者の名前は、市壁の内側通路に掲示されている。
1972年 まで、この街はローテンブルク郡の郡庁所在地であった。バイエルン州の市町村再編により、この街とその郡はアンスバッハ郡に編入されることとなった。この都市は、大規模郡都市の地位を保持した。
政治
マルクト広場に面して建つ市庁舎。
行政
市長
歴代市長
第二次世界大戦後の上級市長を列記する。
1945–1952: フリードリヒ・ヘルナー (Friedrich Hörner) SPD
1952–1964: エーリヒ・ラウターバッハ (Erich Lauterbach) 無所属
1964–1976: アルフレート・レーダータイル (Alfred Ledertheil) SPD
1976–1988: オスカー・シュバルト (Oskar Schubart) CSU
1988–2006: ヘルベルト・ハハテル (Herbert Hachtel) SPD
2006–2020: ヴァルター・ハルトル (Walter Hartl) 無所属
2020– : マルクス・ナーザー (Markus Naser) 無所属、Freien Rothenburger Vereinigung (FRV) の候補
紋章
銀地に、赤い2本の胸壁のある塔のある城。塔の間には三角屋根の小楼。
議会
市議会
市議会は、24議席からなる。
対外関係
姉妹都市・提携都市
その他
小ローテンブルク
よく保存された中世都市を代表するシンボルとして「ローテンブルク」の名はフランケン地方の外でも転用されている(日本で「小京都 」が多くあるようなもの)。
オーバーバイエルン 地方のランツベルク・アム・レヒ は、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー同様に保存状態のよい中世建造物群から『バイエルンのローテンブルク』と呼ばれる。
モーゼル川 に面したバイルシュタイン (英語版 ) は「小ローテンブルク」と称している。
1945年に甚大な被害を受け、ドイツの帰属から離れるまで、プジッツェ (Pyrzyce) やパスウェンク (Pasłęk) は、それぞれ「ポンメルンの」あるいは「東プロイセンの」ローテンブルクと呼ばれていた。
経済
ローテンブルクでは、観光産業が大きなウェイトを占めている。
しかしこの他にも、大手家具製造業者の工場が一つ、大手建設機械製造業者の工場が一つ、中小の機械製造業者がいくつか、それにヨーロッパで2番目に大きな焼き菓子の生産工場がある。
工業
観光業
地元企業
AEG-Electrolux (レンジ、調理容器)
Ebalta(プラスチック、鋳造プラスチック、接着剤)
Erhard Sport International(スポーツ用品)
Käthe Wohlfahrt(クリスマスの飾り付け)
Lechner(焼き菓子製造)
ROTABENE Medienhaus(出版『Fränkischer Anzeiger』(フランケン新聞)や『 Evangelisches Sonntagsblatt aus Bayern』(バイエルン福音派日曜紙))
Schaeff-Terex(パワーショベル 、建設機械)
Neuberger(建設オートメーション)
交通
空路
空港
市街の約1km東に、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー・スポーツ飛行場(荷重5,700kg、滑走路600m)がある。ここでは、時折、メルセデス・ベンツ・ツーリングカー・レーシング・チームがテスト走行を行っている。
鉄道
鉄道路線
この街は、幹線鉄道トロイヒトリンゲン - ヴュルツブルク線 とシュタイナハ から分岐する形で1873年 11月1日に開業した、鉄道路線の終着点である。現在この路線は、ニュルンベルク広域鉄道網 の一つ、近郊鉄道RB82として運営されている。1905年 から1971年 までの間はさらにシリングスフュルスト を経由してドムビュール へ至り、幹線ニュルンベルク - クライルスハイム線 に接続していたが、同区間は現在廃止されている。
鉄道で移動する際には、バイエルン州 ゼルビッツ 郊外にローテンビュ ルク(de:Rothenbürg (Selbitz) 、u にウムラウトが付いている)というまぎらわしい駅があるので注意が必要である。
間違えてローテンビュルクに向かってしまう観光客が少なくないようで、ローテンビュルクからローテンブルク・オプ・デア・タウバーに行く方法を複数の言語で案内するパンフレットがローテンビュルク駅には用意されている[ 7] 。
道路
高速道路
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、アウトバーン A7号線沿いに位置し、市街からわずかな距離にローテンブルク・オプ・デア・タウバー・インターチェンジ がある。
旧連邦道B25号線がローテンブルクを南北に縦断して走っており、東西に走る古城街道 と市内で交差する。
自転車道
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーには多くのサイクリングロードが通っている。
観光
名所・旧跡
聖血の祭壇
建築物
旧市街全体が見応えのある建造物で造られていると言っても過言ではない。夜の旧市街をまわる、ナイトウォッチマンツアー(夜警ツアー)もある。
マルクト広場に面して建つ歴史的な市庁舎とマイスタートルンクのからくり時計がある市参事会酒宴館
聖ヤーコプス教会:ティルマン・リーメンシュナイダー 作の聖血の祭壇がある。ローテンブルク郊外のデトヴァングの教会にもリーメンシュナイダー作の祭壇(聖十字架祭壇)がある。
市壁、市門(北から時計回りに、クリンゲン門、ヴュルツブルク門、レーダー門、シュピタール門、コーボルツェラー門)
プレーンライン
ブルク門、マルクス塔・レーダーアーチ、ヴァイサー塔:現在のものより古い時代、12世紀の市壁に設けられた門。
シュピタール堡塁
クリンゲン門に近いヴォルフガング教会(自衛教会)
ブラジウス礼拝堂
二重橋:タウバー川に架かる上下二層の橋
ヴィルトバート・ローテンブルク:1898年から1903年にフリードリヒ・ヘッシングにより温泉ホテルとして建設された。1982年以降は、プロテスタントの集会場として用いられている。
市壁
市門の一つ、クリンゲン門
市門の一つ、レーダー門
マルクス塔・レーダーアーチ
旧市街を取り囲む市壁
ジーバー塔
シュピタール堡塁
ヴィルトバート・ローテンブルク
市庁舎
市庁舎通り
観光スポット
保存された旧市街の中世の町並み(プレーンライン)
1900年のプレーンライン
ローテンブルクは、入り組んだ路地や小さな公園それを取り巻く木組み住宅といった中世さながらのよく保存された旧市街で知られている。この旧市街は、ドイツの街のプロトタイプ として、世界中の観光客の目的地となっている。特に日本からの観光客は、ヨーロッパ・ツアーの一環としてこの街で宿泊する。この街には、ホテルや民宿の他に、キャンプ場やオートキャンプ場、ユースホステル などがある。ユースホステルは、かつて馬を動力とした街の粉挽き場として使われていたものである。
博物館
帝国都市博物館
中世犯罪博物館:拷問や処刑の様子や道具が展示されているが、より重要なのは、法制史に関する書類のコレクションである。
人形とおもちゃの博物館
羊飼いの踊り博物館
クリスマス博物館
職人の家
文化・名物
祭事・催事
市参事会酒宴場のマイスタートゥルンクのからくり時計
マイスタートルンク:毎年、聖霊降誕祭 で、三十年戦争 のローテンブルクを舞台とした芝居が上演される。また、帝国自由都市祭や秋の収穫祭に合わせて演じられることも多い。この芝居は、以下のようなアダム・ヘルバーの歴史劇である。この街を攻略したティリー伯ヨハン・セルクラエス は、参事会員らの罪を断じ、街を焼き払うと宣言した。参事らは困惑しながら、歓迎のワインを供した。それは3.25リットルのガラスコップに注がれていた。ティリー伯は少し穏やかな気持ちを取り直し、誰かこれを一気に飲み干す者があれば、街に危害を加えるのを中止しようと言った。老市長ヌッシュが進み出ると、一気にコップを空にして皆を驚かせた。ティリー伯は、これに感銘を受け、街に手出しするのを止めたという。ただし、実際には、ティリー伯自身がこの街に足を踏み入れたという記録はない。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーの貨幣鋳造
帝国自由都市祭:9月初め。
タウバータール・フェスティバル:野外ロック・コンサート
クリスマス市「ライターレスマルクト」:11月下旬から12月22日まで。
羊飼いの踊り:4月から10月までの間に数回、マルクト広場で開かれる。
タウバータール・オープンエア
音楽
楽団
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー市立青少年ブラス・オーケストラ
聖ヨハネ教会合唱団
ProChor
出身関連著名人
ローデンブルクを舞台とした作品
ローテンブルクのよく保存された旧市街は、様々な映画の舞台装置としても利用されている(例『カスパー・ハウザー 』)。また、日本のアニメ 作品『ちっちゃな雪使いシュガー 』の舞台である架空の街「ミューレンブルク」、日本のコンピュータゲーム 作品『アトリエシリーズ 』の舞台である架空の街「ザールブルグ 」、などのモデルともなっている。
音楽
バンド、ブラックモアズ・ナイト のアルバム『ウィンター・キャロルズ』のカバーにはプレーンラインの風景が使われている。
脚注
日本語版参考図書
外部リンク