御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門および彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。
概要
道長は兼家の五男に過ぎなかったが、持ち前の強運と政治力によって内覧と一上の地位を兼ねて20年以上にわたって太政官を統率した後に摂政、次いで太政大臣となり、3代の天皇の后妃の父及び2代の天皇の外祖父として摂関政治の全盛期を築いた。その子孫は基実の薨去まで摂関の地位を独占し、基実の没後に御堂流摂家が分裂した後も御堂流の末裔のみがその地位を占めた。御堂流から分かれた主な家としては五摂家及び松殿・醍醐の諸家、中御門流・御子左流・花山院流の諸流などが存在する。
御堂流故実
また、御堂流には九条流から派生した有職故実の流派としての意味も存在する。九条流は道長の祖父である師輔が興した流派であったが、その子供たちは権力抗争を繰り広げており、故実の流派としては振るわなかった。道長は妻の1人である源明子を通じて、明子の父・源高明が著した『西宮記』を相伝した。道長は九条流を継承しながら醍醐源氏の故実を加えることで、独自の流派を形成して口伝秘事として、道長の子頼通・教通に継承されたとされている。その後、教通が小野宮家の藤原公任の娘婿となって公任が著した『北山抄』を相伝した。これによって更に小野宮流の故実を取り込むことに成功して、御堂流故実を形成することになったとされている。
その一方で道長自身は自らが示した新儀(御堂流)の作法を小野宮流など他家の公卿にも強要しようとしていたことが藤原実資の『小右記』(長和5年正月2日条及び治安元年7月25日・26日条など)に記されている。これについて告井幸男は道長は御堂流の手法で公家社会の故実を統一しようとする意図も有していたと解し、末松剛は道長は本来であれば九条流でも傍流[注釈 1]に属しており、九条流に拘らず様々な流派の良い点を取り入れてその都度適宜に判断して実践していった「総覧者」であったとする。告井や末松の説は道長は摂関家を御堂流で占めることには意を注いだものの、子孫に継承させるための独自の故実(御堂流故実)を創設する意図はなかった(もしくはできなかった)とする。また、末松は道長が様々な事情から内覧・一上・大臣としての経験は豊富である反面、摂関の地位には1年ほどしかいなかったのに対して、息子の頼通が50年余りも務めたことを重視し、摂関として必要な先例・故実が頼通時代に形成され、御堂流に伝来されたことが同流が摂関家であり続けた理由の1つとみる。摂関に就任する以前の大臣(あるいは一上)としての先例として道長の例が、摂関としての先例として頼通の例が重視されたのである。
やがて、院政期における摂関の地位を巡る内紛を経た忠実の時代には、道長や頼通が行った先例・故実を「御堂流故実」とみなして摂家をはじめとする御堂流一門統合の象徴として尊重していく考え方が高まり、御堂流に属する人物のみが用いる故実とする認識が定着することになった。更に基房によって摂関家の家説として質的にも高められていくことになる。
系譜
脚注
注釈
- ^ 道長は系譜上は師輔の「三男の五男」に過ぎず、九条流の嫡流・継承者と呼ぶには程遠かった。
出典
参考文献
関連項目