御所巻(ごしょまき)は、室町幕府において諸大名の軍勢が将軍の御所を取り囲み[1]、幕政に対して要求や異議申し立てを行った行為。
概要
室町時代(南北朝時代・戦国時代を含む)には大名や国人領主の家において家臣団が一揆を結成して、家督問題や家政一般で異議を申し立てることがあったが、その幕府版といえるものである。室町幕府では将軍(室町殿)が諸大名に重大な事案について諮問したり協議を行ったりして方針を定めることがあったが、それ以外にも幕府の施策について大名側から異議を表すために意見を申し入れることがあった。
御所巻の際には事前に箇条書きにした訴状に諸大名が連署して将軍に提出するなどの「作法」が存在していたが、家臣である守護大名が主君である将軍の御所を包囲して異議を申し立てる行為は既存の主従関係を脅かす不穏な行為とみなされ、社会的には決して好意的にはみられなかった。
もっとも御所巻は、権力を持った要人を排除して共同の利益を得ようとするために行われても、同僚である大名が不当に処罰された際に主君(将軍)の専制を抑制するために行われることはなかった(当時の幕府政治では、ある大名が処罰を受けることによって、他の大名は没収された所領の給付など利益の配分を受ける可能性が期待できた)。これは、江戸時代に行われた主君押込と性格が異なる部分であった。
実例
記録によって「御所巻」とみなされる行為、あるいは記録がなくてもその前後のやり取りから「御所巻」とみなせる行為として以下のものが挙げられる。
また、これ以外にも応永22年(1415年)[8]と永享5年(1433年)[9]にも京都で御所巻が発生するとの噂が流れたという。
なお、永禄の政変について、清水克行は将軍殺害を狙った虚偽の御所巻ではないかとするが、柴裕之は御所巻自体は真実であるがその要求が過大で義輝には受け容れ難かったことが結果として双方の実力行使に至った[11]とみている。また、小池辰典は明応2年(1493年)に発生した明応の政変も一部の大名からは御所巻の一環として認識されていたとしている[12]。
脚注
- ^ 桜井英治『室町人の精神』講談社〈日本の歴史12〉、2002年、159頁。
- ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」『戦国史研究』第74号、2017年。 /所収:久野 2019, pp. 180–184
- ^ 『満済准后日記』応永22年4月19日・27日・5月9日各条
- ^ 『看聞御記』永享5年7月20日条
- ^ 柴裕之「永禄の政変の一様相」『戦国史研究』72号、2016年。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第四巻〉、2018年、318-319頁。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 小池辰典「明応の政変における諸大名の動向」『白山史学』51号、2015年。
参考文献