第6装甲師団 (だい6そうこうしだん、ドイツ語 : 6. Panzer-Division )は、第二次世界大戦 中にドイツ国防軍 陸軍 で編制されていた機甲師団 。1939年 に創設された。
師団は当初軽旅団として組織され、ポーランド やベルギー 、フランス 、そしてソビエト連邦 と、大戦初期の緒戦に赴いている。ドイツ本国やフランスでの再編成期間を除き、1941年 から1945年 まで師団は一貫して独ソ戦 で運用された。終戦 を迎えると旧チェコスロヴァキア でアメリカ軍 に降伏したが、最終的にソビエト連邦 当局に引き渡された。
歴史
第6装甲師団のもととなった第1軽旅団 は、フランス で運用されていた軽機械化師団(フランス語 : Division Légère Mécanique )を模して1937年 10月に組織された。この旅団は、伝統的に騎兵科 が果たしてきた偵察 や警備などの役割を担うことを意図して、機械化偵察部隊や自動車化歩兵 部隊、戦車大隊から形成されている。国防軍はさらに3個旅団の形成を計画していたが、後にこの軽旅団の欠陥が明らかとなったため頓挫した[ 1] 。
1938年 4月、第1軽旅団は第1軽師団 として再編され、第11装甲連隊を伴いながら10月のズデーテン 併合、1939年 3月のチェコスロヴァキア解体 に加わった。これによって、当時装備していたI号戦車 、II号戦車 よりも性能のいいチェコスロヴァキア製戦車を130両保有できるようになった。9月、師団はポーランド侵攻 に参戦し、第二次世界大戦 の火ぶたが切られた。その作戦中明らかになった軽師団の欠点を改善するため、10月に第6装甲師団 として再編された。第7 、第8 (英語版 ) 、第9装甲師団 (英語版 ) も同様に、それぞれ第2、第3、第4軽師団から再編された師団である[ 2] [ 3] 。
1940年 には第6装甲師団としてフランスの戦い に参戦した。第11装甲連隊は前述の経緯から、チェコスロヴァキア製の35(t)戦車 を75両装備していたが[ 4] 、修理用マニュアルがドイツ語 ではなくチェコ語 で書かれていたため、戦車としては効果的であっても整備や維持が難しい状態に置かれていた。それ以外では、指揮官用の35(t)指揮戦車が6両、II号戦車が45両、IV号戦車 が27両配備されていた[ 5] [ 6] 。
第6装甲師団は、ベルギーを通過してイギリス海峡 まで進出するドイツの計画の下に運用されていた。しかしながら、1940年 9月に東プロイセン へ移転するまでの間、師団はイギリス海峡方面からフランス=スイス国境方面へと引き返している。東プロイセンには1941年 6月まで駐在していた。
東部戦線における第6装甲師団(1941年)
1941年6月のソビエト連邦への侵攻 では、第6装甲師団は239両の戦車を伴って参戦した。この時点では、師団の有する239両の戦車のほとんどがソ連の主力戦車に劣る性能の戦車だった[ 3] 。師団は初め第4装甲集団 の傘下で、バルト三国での作戦に従事した。ラセイニアイの戦い (英語版 ) では以下2個の戦闘団 を形成した:
フォン・ゼッケンドルフ戦闘団 - 第114自動車化歩兵連隊、第57装甲偵察大隊、第41戦車駆逐大隊1個中隊、第6オートバイ兵大隊(午前のみ)からなる。
ラウス 戦闘団 - 第11戦車連隊、第4自動車化歩兵連隊1個大隊、第76砲兵連隊第1および第3大隊、第57装甲工兵大隊1個中隊、第41戦車駆逐大隊1個中隊、第411陸軍対空砲兵連隊第2大隊、第6オートバイ兵大隊(午後のみ)からなる。
6月23日 、フォン・ゼッケンドルフ戦闘団は朝方のみ第6オートバイ兵大隊を伴っていたが、スカウドヴィレ 付近でソ連のエゴール・ソリャンキン (英語版 ) 率いる第2戦車師団 (英語版 ) (第3機械化軍団麾下)によって撃破された。ドイツの35(t)戦車や対戦車兵器はソ連の重戦車 に全く歯が立たず、一対一では両者の力量差が顕著に現れる形となった[f] 。そのような状況から、ドイツ側は軍用トラックを利用してソ連の戦車を射撃したり、砲兵部隊や対空砲、吸着地雷 を使用して撃破したりと、ソ連の足止めに集中して対抗した。
1941年10月のモスクワ攻略を狙ったタイフーン作戦 の為に、第4装甲集団は中央軍集団 の傘下に移り、ルジェフ=ヴャジマ突出部 (英語版 ) での戦いに送り込まれた。1941年12月のソ連による反攻作戦により師団は押し戻され、その最中師団が保有していた戦車や車両のほとんどが失われている。1942年 3月、壊滅した師団は再編のためフランスへ送られ、より近代的な戦車を装備することができた[ 10] 。北アフリカ にアメリカ軍 が上陸した頃、再編された師団はフランス南部に移動したが、1942年11月にスターリングラード で第6軍 が包囲されると、東部戦線のドン軍集団 に移されることになった。12月には、スターリングラードの包囲されている枢軸軍の救出作戦、冬の嵐作戦 で、先鋒を務めるが包囲網突破はできず、結果として退却を余儀なくされた。1943年2月の第三次ハリコフ攻防戦 では反撃に出てこれを成功させたが、続く1943年7月のクルスクの戦い ではXLVIII装甲軍団のもとで南部で参加している[ 11] 。
第6装甲師団はコルスン包囲戦 において唯一部分的に成功した救援作戦を展開しており、カメネツ=ポドリスキー包囲戦 からの撤退にも成功した。ウクライナを経由しながら退却した師団は、部隊再編のためドイツ本国へと向かった。しかし、1944年6月のソ連軍のバグラチオン作戦 によって中央軍集団が圧迫されると、即座に東部戦線へ送り返された。1944年 12月にハンガリーへ移動するまで、師団は北部ポーランドや東プロイセンにて防衛戦に従事した。移動後はブダペスト で戦ったが、ブダペスト陥落後は、オーストリアへ撤退、ウィーン の防衛戦に従事した。1945年4月のウィーン陥落後はチェコスロヴァキアへ移動し、1945年 5月にアメリカ第3軍 に降伏した[ 11] 。
戦争犯罪
1940年6月中旬、第6装甲師団の兵士はフランス軍の第12セネガル狙撃兵 (英語版 ) 連隊の黒人捕虜を不明数処刑したとされる[ 12] 。1940年のフランスの戦いには、当時のフランス植民地 から40,000人近い黒人がフランス兵として動員されており、そのうち1,500~3,000人が戦闘中もしくは戦後に処刑されたと推測されている[ 13] 。
司令官
以下の者が第6装甲師団の司令官を担った:[ 14]
組織
以下の部隊が第6装甲師団を構成した:[ 15]
脚注
^ Stoves, p. 277–278
^ Stoves, 16–17
^ a b Mitcham, p. 72
^ 第6装甲師団はドイツ国防軍の装甲師団としては35(t)戦車 を集中的に運用した唯一の師団である
^ Guderian, Heinz (2003). “Anlage 2: Geheime Kommandosache. Generalinspekteur der Panzertruppen, 7.11.1944, Nr. 3940/44 g.Kdos.” (German). Erinnerungen eines Soldaten . Motorbuch Verlag. pp. 429. ISBN 3879436932 . OCLC 460817326 . http://worldcat.org/oclc/460817326
^ “6. Panzer-Division ” (German). Lexikon der Wehrmacht . 2019年1月4日 閲覧。
^ Mitcham, p. 73
^ a b Mitcham, p. 74
^ "Hitler's African Victims: The German Army Massacres of Black French Soldiers in 1940" by Raffael Scheck, page 33-34
^ “The Unknown Massacres: Black French Prisoners In 1940 ”. h-net.org (April 2009). 20 June 2016 閲覧。
^ Mitcham, p. 76–78
^ “Organizational History of the German Armored Formation 1939-1945 ”. cgsc.edu . United States Army Command and General Staff College . 20 June 2016 閲覧。
参考文献