陣内 孝則(じんない たかのり、1958年〈昭和33年〉8月12日[2] - )は、日本の俳優、シンガーソングライター、タレント、司会者、映画監督。ジェイ・オフィス所属(2013年12月よりオスカープロモーションと業務提携)。
福岡県大川市出身[2]。妻は陣内恵理子。
人物・来歴
生い立ち
実家は、家具の生産量日本一を誇る福岡県大川市で婚礼家具などを製造する木工所「陣内木工」を営んでいた[3]。3兄妹の長男として生まれ、祖父母、両親、弟、妹、親戚、住み込みの弟子を含めた34人の大所帯で育つ[4]。子供のころから成績は優秀で、中学受験で佐賀大学教育学部附属中学校に合格し、進学。高校は一年遅れで地元福岡の西南学院高等学校に進学した[5]。
中学時代の同級生には元佐賀県知事で衆議院議員の古川康[6]、高校時代の同級生には糸島市市長の月形祐二がいる[5]。俳優の池松壮亮の母とは実家が近所の幼馴染で、父とも高校の同級生だった[7]。
音楽活動
福岡にライブハウスが多かったこともあり、陣内も高校時代から『ザ・ロッカーズ』のボーカルとしてバンド活動をしていた[8]。5年間のアマチュア活動を経て1980年に音楽プロデューサーの上野義美に博多でスカウトされ、メジャーデビューを果たす[8][2]。当時は、桑名正博の前座としても活動していた。
上京のきっかけは、『ザ・ベストテン』で同郷の先輩の大川栄策がタンスを担いで出演したのを見て「俺も何かせんといかん」と決意したからである。父親には「そんなもので食っていけるのか?」と問われたが、自身は「俺は夢を食って生きていく!」と言い返した[9]。
福岡時代からメンバーは仲が良く上京後は立川の米軍ハウスを借りて共同生活をしていたが、次第に仲違いするようになった影響で1982年をもって解散となった[8]。
1984年にソロとして香港映画『五福星』の主題歌を担当。上映記念で武道館で行われたイベントに出席。主題歌でカラオケで配信されているのはB面の「踊れANGEL」のみである。
その後、本格的に俳優に転身するが「音楽で食っていけるんなら音楽を続けていたかったが、そういうわけにも行かなかったので俳優をやっている」とも発言している。
俳優活動
ロッカーズ時代にルースターズの大江慎也、池畑潤二らも出演した『爆裂都市 BURST CITY』(石井聰互監督)が俳優デビュー作[10]。
バンド解散後、役者に転向。転向後は浅野ゆう子らとともにトレンディドラマに出演して顔が知られる。その後は途切れることなく多くの映画やテレビドラマに出演し続けている。
1987年、梶間俊一監督の映画『ちょうちん』にて主演を務め、ブルーリボン賞と報知映画賞の主演男優賞を受賞[2]。
三上博史、柳葉敏郎からは「ボス」と呼ばれており、いつの間にか一般的に広まりボスの愛称が定着した。
コミカルな役から重厚な役まで様々な役を演じるが、実際はひょうきんな性格で、バラエティ番組にも積極的に出演。お笑い芸人並に喋る機会を窺っており、笑いに対し非常に貪欲である(特にダウンタウンからは毎度のようにツッコまれている)。
親族
私生活では1987年に資生堂キャンペーンアイドルグループのシャワーの元メンバーでモデルの秋山絵梨子(現・陣内恵理子)と結婚[11]。陣内の実家が婚礼家具を造る木工所だったこともあり、結婚の際に妻は陣内家の親族からタンスを担げるか問われている(モデルで身長が171cmあったことから、体格的にタンスは担げると判断された)[12]。ちなみに、陣内の母も大柄で常に父親からは「でかい女と結婚しろ」と言われていた[12]。2018年には「いい夫婦 パートナー・オブ・ザ・イヤー 2018」に選ばれ結婚会見以来31年ぶりに夫婦揃ってメディアの前に登場した[11]。妻との間には息子が2人おり[8]、長男はフジテレビに就職し、『情報プレゼンター とくダネ!』などのディレクターをしている[13]。
関西テレビの単発番組『陣内家』において、陣内貴美子とは遠戚にあたり、逆に陣内智則とは遠縁でも何でもないことが判明した[注釈 1]。
健康問題
2024年6月27日、肺がんの手術を受けたことを公表した[14]。
その他エピソード
荒井由実(当時)の「卒業写真」が嫌い。これは、高校時代に交際していた女性から、喫茶店で東京の大学への進学を理由に別れを切り出され、陣内が必死に説得し、彼女が思い直したその時「卒業写真」が流れた。彼女は「卒業写真」の歌詞を自らの現状に投影してしまい、結局陣内はその女性と別れたことが原因となっている[9]。
「ザ・ロッカーズ」時代は、父親に同郷の騎手・的場文男(大井競馬)の活躍を引き合いに出されて「お前はなんばしよっとか!」と怒られていた[15]。
売れていない1980年代中期ごろに、ディレクターからアイドルへの楽曲提供の誘いを受けた。当該アイドルはおニャン子クラブだったが、自分はロック・ミュージシャンだという矜持から「アイドルに曲なんか書けるわけない」と一度は断る。しかし、友人のミュージシャンがおニャン子クラブに楽曲提供したところ、陣内曰く「(その友人が)急に外車とか乗るようになった」ことから「失敗した」とすぐに考えを改め、自ら楽曲提供を願い出た。その後、おニャン子クラブ発のユニットであるうしろゆびさされ組に、「上手な恋の飲みかた」「天使のアリバイ」の2曲(いずれもアルバム『ふ・わ・ふ・ら』収録)を提供。その結果本人曰く「バンド(ロッカーズ)の時より多く印税が入った」とのことである[16]。
競馬には非常に強い関心があり、日本中央競馬会に登録の馬主として、自身も競走馬を所有している。所有馬キクジロウ(名前の由来は自身が主演したテレビ朝日系テレビドラマ『菊次郎とさき』で演じたビートたけしの父:北野菊次郎)が、2008年5月4日の第2回東京競馬第4日の第3競走の3歳未勝利戦(ダート1600m)で初勝利を挙げた。表彰式では『菊次郎とさき』で着用したハッピを着て愛馬の口取りを行った。また、当日京都競馬場で開催された第137回天皇賞・春に優勝したアドマイヤジュピタの母:ジェイズジュエリーも所有馬であったため、陣内にとっては嬉しい一日となった。
ディスコグラフィ
シングル
アルバム
オリジナル・アルバム
ベスト・アルバム
タイアップ曲
参加作品
発売日
|
作品
|
名義
|
参加曲
|
概要
|
1994年11月18日
|
B・BLUES
|
PLATINUM SAX
|
「SUSIE Q」
|
陣内孝則、花田裕之、窪田晴男らによるバンド
|
「HOME WORK」
|
「I'VE GOT MY MOJO WORKING」
|
「クレオパトラ・ドリーム」
|
「夜に溶けてゆく」
|
「B・BLUES」
|
「ラブ・ミー・テンダー」
|
「愛する君に」
|
「Main Circuit」
|
「ハード・デイズ・ララバイ」
|
2006年8月23日
|
バックダンサーズ! オリジナルサウンドトラック
|
陣内孝則
|
「人混みの中のダイヤモンド」
|
映画『バックダンサーズ!』関連曲
|
hiro & 陣内孝則
|
「いつか二人で (Live ver.)」
|
提供作品
ミュージック・ビデオ
出演作品
※主演は太字表記
テレビドラマ
映画
舞台
劇場アニメ
ゲーム
バラエティ
ナレーション
ナビゲーター
ラジオ番組
CM
監督作品
映画(監督)
受賞
脚注
注釈
- ^ なお、智則の兄の名前は「隆則(たかのり)」であり、字は違えど孝則と同音異字である。
出典
外部リンク
|
---|
代表取締役会長:古賀誠一 |
女優 女性タレント | |
---|
グループ | |
---|
歌手 | |
---|
キャスター | |
---|
俳優 男性タレント | |
---|
声優 | |
---|
文化人 |
- ホリ・ヒロシ(人形師)
- 金惠京(国際法学者、日本大学危機管理学部 准教授[国際関係学専攻])
- 中西しほり
- HIROKO(美道研究家®)
- TORICO(映画監督)
- 天霧真世
- 大木隆太郎(恋愛起業家)
- 蜷川有紀(画家・女優・映像作家)
- 小西さやか(コスメコンシェルジュ)
- 坂本真樹(人工知能学者電気通信大学 副学長・情報理工学研究科教授)
- 牧田習(昆虫ハンター)
- 余慶尚美(美容家・美巡家、ヘアケアリスト(毛髪診断士))
|
---|
旧所属タレント | |
---|
関連項目 | |
---|
★は業務提携、▲は青二プロダクションとの同時所属。
カテゴリ |
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月)
|
|
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|