コロンビア共和国
República de Colombia
国の標語:Libertad y Orden (スペイン語 : 自由と秩序)
国歌 :Himno Nacional de Colombia (スペイン語) "コロンビアの国歌"
コロンビア共和国 (コロンビアきょうわこく、スペイン語 : República de Colombia )、通称コロンビア は、南アメリカ 北西部に位置する共和制 国家 である。東にベネズエラ 、南東にブラジル 、南にペルー 、南西にエクアドル 、北西にパナマ と国境を接しており、北はカリブ海 、西は太平洋 に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋 の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ 。
コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパ からの入植者、アフリカ 人の奴隷 の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族 が混在している。ヨーロッパ、中東 、アジア からの移民 が19世紀 から20世紀 の間に多く移住した[ 4] 。
コロンビアでは1960年代 から政府軍 、左翼ゲリラ 、極右民兵 の三つ巴の内戦 が50年以上も続いている。1980年代 から1990年代 には麻薬戦争 による暴力が横行[ 注釈 1] し、世界で最も危険な国の1つとなった[ 注釈 2] 。しかし、21世紀 以降、コロンビアは劇的な治安の回復に成功し、アメリカ大陸 における主要国と位置づけられている[ 注釈 3] 。
コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコ に続いて、ラテンアメリカ で第3位である。世界的なコーヒー豆 の産地として知られるほか、エメラルド の産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かしたバラ 、カーネーション などの栽培と切り花 の輸出にも力を入れている。ラン は国花 である。
コロンビアはNATO 唯一のラテン系パートナーであり、38のOECD 加盟国の1つである[ 5] 。2020年 、フォーブス 誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした[ 6] 。
国名
正式名称は、República de Colombia [reˈpuβlika ðe koˈlombja] . 通称Colombia 。
公式の英語 表記は、Republic of Colombia /rɪˈpʌblɪk əv kəˈlʌmbiə, kəˈlɒmbiə/ . 通称Colombia 。
日本語 の表記は、コロンビア共和国 。通称コロンビア 。漢字による当て字 は、哥倫比亜 、もしくは古倫比亜 である。
国名は直接的にはアメリカ大陸の発見 者クリストーバル・コロン(コロンブス) に由来し、アメリカ が「アメリゴ の土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地 」を意味する。植民地 時代はスペイン のグラナダ に由来したヌエバ・グラナダ (新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのはベネズエラ の独立指導者フランシスコ・デ・ミランダ であり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者シモン・ボリバル は南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称としてコロンビア共和国 (後世グラン・コロンビアと呼ばれる)が採用された。1831年にヌエバ・グラナダ共和国 として独立した後、1858年にはグラナダ連合 、1863年にはコロンビア合衆国 と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。
歴史
先コロンブス期
エル・ドラード 伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏
紀元前1450年ごろに、ボゴタ 近郊のエル・アブラ (スペイン語版 、英語版 ) の遺跡 で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカ から渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシ も彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティン の遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年 、インディオ のグループは南アメリカでインカ帝国 に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケ (Cacique 、Cacicazgos )と呼ばれる首長による一種の首長制 [要曖昧さ回避 ] 国家群を発展させた。その好例をチブチャ 系 (Chibcha) のムイスカ 、タイロナ 、カリマ (スペイン語版 、英語版 ) 、キンバヤ (スペイン語版 、英語版 ) 、シヌー などの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年 ごろ、現在のニカラグア に相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモ を栽培し、カピバラ の一種を家畜化して、生産物を低地民のコカ や木綿 と交換することにより生計を立てていた。
スペイン植民地時代
クリストファー・コロンブス のアメリカ大陸 上陸
西暦1500年 に、ロドリーゴ・デ・バスティーダス (スペイン語版 、英語版 ) に率いられたスペイン人 探検家 がカリブ海 沿岸を訪れるとそれに続いて1502年 、クリストファー・コロンブス はカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年 、それまでにパナマ地峡 を征服していたバスコ・バルボア はウラバを征服し始める。1510年 11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン (英語版 ) (Santa María la Antigua del Darién) が今のチョコ県 に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族 は、チブチャ系 (Chibcha) とカリブ 系(Karib)が多数を占めていた。バカタ (スペイン語版 ) を首都とするムイスカ連邦 (スペイン語版 ) (1450年 - 1537年 、Bogotá Kingdom - バカタ王国 (スペイン語版 ) とも)はムイスカ人 の最大の王国だったが、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ (英語版 ) により征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタ と改名され、以降、スペイン人の拠点となった。
スペイン人は16世紀 になると アフリカ から奴隷 を送り込み始める。その後、カルタヘナ・デ・インディアス はペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリス からの攻撃が激しくなった。スペイン はイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領 として、ペルー副王領 から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラ などと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタ に首都を定めた。しかし、その後も カルタヘナ などの都市に対してイギリス海軍 や海賊 の攻撃は続き、現在[いつ? ] も城壁が残っている。
1781年、ソコーロ (英語版 ) で増税に反対したクリオージョ 達がコムネーロスの反乱 (英語版 ) を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。
独立戦争とグラン・コロンビアの崩壊
アントニオ・ナリーニョ 。
ククタ議会 (スペイン語版 、英語版 ) でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル とシモン・ボリバル をはじめとするコロンビア独立の志士たち。
19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍 と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万~15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。
1806年 からフランシスコ・デ・ミランダ に率いられた解放軍により、隣のベネズエラ総督領 (スペイン語版 、英語版 ) から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダ でも独立戦争が始まった。1810年 7月、アントニオ・ナリーニョ が副王を追放してボゴタ県 (スペイン語版 ) (サンタフェ・デ・ボゴタ を中心)にクンディナマルカ共和国 (スペイン語版 、英語版 ) (1810年 - 1815年 )の独立を宣言した。翌年にカルタヘナ県 (スペイン語版 ) (カルタヘナ・デ・インディアス を中心)がカルタヘナ共和国 (スペイン語版 ) (1811年 - 1815年 )の独立を宣言し、すぐにボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州 (英語版 ) (1810年 - 1816年 )として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。
ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル は、1812年に崩壊したベネズエラ第一共和国 (英語版 ) (1810年 - 1812年 )を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリバルも1813年にはベネスエラ第二共和国 (英語版 ) (1813年 - 1814年 )を再び解放するが、本国でのフェルナンド7世 の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増し、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの(カラボボの戦い (1814年) (スペイン語版 ) )、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカ に逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。
大コロンビア
再びベネズエラに上陸したボリバルは1818年にジャネーロ (英語版 ) (Llanero )の頭目だったホセ・アントニオ・パエス (英語版 ) の力を借り、1819年 にはアンゴストゥーラ を臨時首都としてのベネスエラ第三共和国 (スペイン語版 ) (1817年 - 1819年 )が再建され、グラン・コロンビア (Gran Colombia 、1819年 - 1831年 )が創設された。1819年8月のボヤカの戦い に勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリバルはグラン・コロンビアの建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。
1821年にカラボボの戦い (1821年) (英語版 ) での勝利によりカラカス が解放されると、ベネズエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国(República de Colombia )を形成した。1820年には解放されたグアヤキル が、1822年にはキト が併合され、このコロンビア共和国は現在[いつ? ] のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー 、ガイアナ 、ブラジル の一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となって不在の大統領に代わりヌエバ・グラナダを治め、ボリバルはその後エクアドル 、ペルー、アルト・ペルー 方面の解放に出征した。1824年にスクレ 軍がアヤクーチョの戦い (英語版 ) で勝利し、全インディアス植民地 の独立を勝ち取った。
ボリバルは新たに独立したボリビア共和国 の初代大統領 となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する ホセ・アントニオ・パエス (英語版 ) の不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの暗殺 を謀り亡命 した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争 も起きた(グラン・コロンビア=ペルー戦争 (英語版 ) )。その後、ベネズエラが独立を要求した。1830年 にエクアドル (キト とグアヤキル とクエンカ が連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川 を下る中、サンタ・マルタ 付近で失意の内に病死した。翌1831年 にラファエル・ウルダネータ 政権 が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国 として独立した。
ヌエバ・グラナダの独立からコロンビア共和国の成立まで
首都ボゴタ のカテドラル
1832年 に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。保護貿易 により産業が発展し、奴隷貿易 が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒー が栽培され始めた。この時代にコロンビア時代から続く中央集権 派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー 、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会 などを支持基盤に保守党が結成された。これにより、コロンビアは現在まで続く二大政党制 が確立されたが寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。
1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペス (英語版 ) はイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義 政策を採り、1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ (英語版 ) 将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易 が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。
1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲス (英語版 ) が大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合 (1858年 - 1863年 )が発足した。ロドリゲスはイエズス会 の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守 化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラ (英語版 ) が蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。
モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦 制国家、コロンビア合衆国 (1863年 - 1886年 )が成立した。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ 」と呼ばれた。1880年に保守派のラファエル・ヌニェス (英語版 ) が自由党右派 と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ 周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道 網も拡大していった。
1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会 が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦 に勝利すると、1886年 にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛り込んで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。
党派対立の時代
レティシアを巡ってのペルーとの戦争に備えるコロンビア軍(1932年)
1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。ラファエル・ウリベ・ウリベ (スペイン語版 、英語版 ) 将軍の指導する自由党急進派が蜂起した「千日戦争 」(1899年 - 1902年 )が勃発した。この内戦ではおよそ10万人の犠牲者が出た。内戦中にかねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国 のパナマ運河地帯 永久租借 案をコロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡 の独立派を援助し、1903年 に地峡地帯がパナマ共和国 として独立した。
内戦終結後、保守党のラファエル・レイェス (英語版 ) が大統領に就任した。この時期に独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によってこの路線は続けられた。1921年 にパナマ問題が解決するとアメリカ合衆国から膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本からアメリカ合衆国資本による経済支配が進んだ。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジン は、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。
1930年 にエンリケ・エラヤ・エレーラ (英語版 ) が労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争 に勝利し、南部アマゾン国境のレティシア の領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。
1934年 、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホ (英語版 ) が大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年 に再選されるが、政策に失敗して1945年 辞任した。プマレホの政治は農民や労働者 の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタン は1928年にユナイテッド・フルーツ 社によるバナナ労働者虐殺事件 (英語版 ) を批判したことからカリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。
「暴力」の時代
コロンビアの首都ボゴタ 。標高2600メートルに800万人が住む。
1946年 以降の十年間はラ・ビオレンシア (英語版 ) (「暴力」の時代、1948年 - 1958年 )と言われ、争いが頂点に達した。1946年 に保守党政権が誕生すると、保守党政権は徐々に自由党派に対するテロ を繰り広げ、1948年 にボゴタでのOAS 会議中に、自由党党首のガイタン が当選確実といわれた選挙直前に暗殺された。ガイタン暗殺をきっかけに激昂した自由党派の市民 と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動 (英語版 ) (ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動 により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。
1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス 大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共 を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧 し、反共政策の下でラテンアメリカ諸国で唯一朝鮮戦争 に際して国連軍 に軍隊を派遣した。
地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年 6月14日 、軍事クーデター により朝鮮戦争派遣コロンビア軍の司令官だったグスタボ・ロハス・ピニージャ 将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権 が発足した。ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年 、ロハスが人民弾圧を行なった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起(ビジャリカ戦争 )。1956年 、ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪事件 (スペイン語版 ) 」(Incidentes en la plaza de toros )の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチン のフアン・ペロン のような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年 にロハスは辞任に追いやられた。コロンビア軍事政権 (スペイン語版 ) (1957年 - 1958年 )。
「国民戦線」体制
1958年 、支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線 (スペイン語版 、英語版 ) 」体制(1958年 - 1974年 )が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。キューバ革命 (1953年 - 1959年 )の影響を受けて、1961年 にアメリカ合衆国のケネディ 大統領主導によって進歩のための同盟 が発足、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らなかった。同年、国家人民同盟 (スペイン語版 、英語版 ) (ANAPO)が発足。
コロンビア内戦
1964年 からゲリラ 活動は活発化し(コロンビア内戦 )、1966年 にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年 にメデジン公会議で解放の神学 が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼 ゲリラ4月19日運動 (m - 19) が生まれた。
首都ボゴタは南米 有数の世界都市 である。
1974年 、「国民戦線」体制が終結し、通常選挙が執り行われアルフォンソ・ロペス・ミケルセンが大統領に就任。さらに1978年の選挙では自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ 大統領が現職のロペスを破り、新大統領に就任した[ 7] 。トゥルバイ大統領は、反政府運動の高まりに対し戒厳令 を布告して弾圧を加えた結果、多くの活動家が秘密警察 による拉致 や拷問 を受け、その多くが失踪した。
1982年 に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス (英語版 ) 大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年 にはFARCが合法政党である愛国同盟 (英語版 ) (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、1994年 には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラm - 19によるコロンビア最高裁占拠事件 、ネバド・デル・ルイス火山 の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年 に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ・バルガス 大統領により、1989年 メデジン・カルテル との大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争 (英語版 ) 」(プラン・コロンビア (スペイン語版 、英語版 ) 、麻薬戦争 )が勃発し、大統領選挙中の8月18日 にルイス・カルロス・ガラン・サルミエント が暗殺された。麻薬 カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。1990年 、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョ は野党 を含む挙国一致内閣 を組閣し、1991年 に1886年憲法が全面改正され、施行された。
政治腐敗
1994年 に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ 大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「ナルコ・ゲート事件 (スペイン語版 、英語版 ) 」(西 : Proceso 8.000 )に発展した。議会はサンペールを弾劾 する構えを見せ、アメリカ合衆国連邦政府 もサンペールに入国ビザ の発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年 に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ・アランゴ 大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年 1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年 初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏、自由党系の新政党「プリメーロ・コロンビア (スペイン語版 ) 」から就任したアルバロ・ウリベ 大統領は治安 回復を重点課題とし、2006年 5月、ウリベは大統領に再選した。同年、アルバロ・ウリベ大統領の「パラポリティカ・スキャンダル (スペイン語版 、英語版 ) 」(西 : Parapolítica )が発覚。2008年 、3月1日 に国境のプトゥマヨ川 を越えたエクアドル 領内でコロンビア革命軍 (FARC)掃討作戦を実施、ラウル・レジェス 他23名がコロンビア空軍の空爆で殺害された。エクアドル大統領ラファエル・コレア は領空侵犯 として抗議(アンデス危機 )。同年4月にウリベ大統領の「イディスポリティカ・スキャンダル (スペイン語版 、英語版 ) 」(西 : Yidispolítica )が発覚した。2010年6月には大統領選挙でウリベ政権下で国防大臣を務めたフアン・マヌエル・サントス が当選し、同年8月7日に大統領に就任した。2010年7月下旬にはボゴタの南方の町マカレナで2000体余りの虐殺 されたと思われる遺体が発見された[ 8] 。
現在、コロンビアの治安は良くなってきているが、やはり郊外や、観光地が少ない地域に行くとゲリラの集団が活動している場合がある。
左翼ゲリラ(FARC)との和平交渉
コロンビア最大の左翼 ゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)は最盛期に約2万人の勢力を有したが、ウリベ政権期の対ゲリラ強硬策が奏功し、その勢力は2015年末時点で約6,000人までに減少している。
ウリベ大統領の後継として、2010年に大統領に選出され、2014年に再選されたサントス大統領はウリベ大統領の強硬策から大幅に路線転換し、2012年末からコロンビア革命軍(FARC)とキューバ の首都ハバナ で和平交渉を開始した。和平交渉自体は、紛争 が継続したまま開始されており、FARCは度々一方的停戦を宣言し、双方向停戦を呼び掛けているが、実際には衝突は散発的に起きており、政府側は双方向停戦に応じていない。2015年9月にサントス大統領は、2016年3月23日を期限として和平最終合意に署名することを発表したが、期日までに最終合意には至らず、交渉が継続されている。
期日までに合意されなかったことから世論 の批判も高まっており、サントス大統領の支持率も低下した。
2016年8月24日、コロンビア政府とFARCは共同声明で50年以上にわたる内戦の終結に合意したと発表した。9月26日にカルタヘナ で署名式典を行った。10月2日の国民投票において和平合意は否決されるが、政府は和平合意の修正協議を行い、11月、新たな和平合意をFARCとの間で署名し、国会で承認された(なお、新和平合意について国民投票は実施されなかった)。和平合意成立後は,合意の実施フェーズに移行し、2017年9月にはFARCの武装放棄プロセスが終了した。また、サントス大統領は、2017年2月に国民解放軍(ELN)との和平交渉も正式に開始した。ノルウェー・ノーベル委員会 は、サントス大統領による内戦 の終結に導く努力を認め、2016年10月7日にノーベル平和賞 を送ると発表した[ 9] 。
だが、このような左翼ゲリラとの和解は反発を呼び込み、大統領選では再び強硬派で極右 とも言われるイバン・ドゥケ が大統領選挙で当選した。再び和平合意の遵守は暗礁に乗り上げとの報道もされた[ 10] 。その後一部の左翼ゲリラの元幹部が、再び武装闘争 を行うとの動きもあるが、主流派は和平合意を順守としており政権も、分離派に対する武力掃討作戦を展開しつつ和平合意自体は尊重しており、大きな混乱は生じていない。
政治
大統領官邸
大統領 を元首とする共和制 国家 であり、上下両院制 の共和国議会 を備える。現行憲法は1991年憲法である。
行政 権は大統領によって行使される。大統領は直接選挙で選ばれ、任期は4年。2005年 の憲法改正で連続一度までの再選が可能だったが、2015年 に再選が禁止された。
立法 権は上院 と下院 に属し、上院は定数102議席、下院は定数166議席である。いずれも任期は4年、比例代表制 により選出される。
司法 権は最高裁判所に属し、行政、立法から独立している。
コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続くボゴタソ 以降の内戦 においてもロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持されてはきた。イスパノ・アメリカ 独立時以来の自由党、保守党両党の枠組みの中で両党派による歴史的な妥協が続き、多くの国でこの自由・保守(ないし中央集権 派と連邦 派)という枠組みがなし崩し的に崩れていった中で、コロンビアでは両党以外の政治勢力を排除してきたことがその原因である[ 11] 。寡頭支配層が営々と権力独占による金権政治を行ってきた結果、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因ともなっている。
なお、「寡頭政治」という言葉はホルヘ・エリエセル・ガイタン が選挙戦で白人支配層を批判するために初めて用いた演説用語である。自由党の大統領候補ガブリエル・トゥルバイ はレバノン 移民 の子であり、決して支配層出身とは言えない。独立以降の60名の歴代大統領中18名は軍人出身であり、いわゆる支配階級出身ではない大統領も多い。例えば、保守党の支配階級的色彩の強かったマルコ・フィデル・スアレス 大統領(任1918年‐1921年)は洗濯屋の従業員であった母親の私生児 であり、下層階級出身である。また、自由党のベリサリオ・ベタンクール 大統領(任1982年‐1986年)はバスク 系貧農の出身で、23人兄弟の末っ子で子供のころは裸足で歩いていたため足の指が変形しており、無職だったころは公園のベンチで寝ていたという逸話の持ち主である。他にも保守党のカルロス・レストレポ 大統領(任1910年‐1914年)や、自由党のエドゥアルド・サントス 大統領(任1938年‐1942年)は中産階級 出身で上流階級に属さない大統領も珍しくなく、コロンビアでは「誰でも大統領になれる 」という言い方が流行ったこともあるという[ 12] 。
かつて左派の主要な政治勢力であった愛国同盟 (UP)は1,500人以上の活動家が政府によって暗殺 されたために壊滅し[ 11] 、清廉な議員・判事でも麻薬 組織による買収工作が行われ、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラや右翼 民兵 による誘拐・暗殺が絶えない。麻薬組織は政権 を握る気がないため表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きい[ 11] など、腐敗と暴力が横行している。
しかし、コロンビアの歴史を遡って検証すると、これらの指摘は誇張されすぎていると言わざるを得ない。政権 与党 が推薦した候補者が選挙 で敗北した場合でも概ね平穏に政権交代 が行なわれており、1882年 、1930年 、1946年 の選挙では政治的暴力は発生していない[ 13] 。
また、コロンビアでは1853年 に憲法で男子の普通選挙 権が認められており、世界の憲政史上でも最も古い国の一つである。1856年 の普通選挙による初の大統領選では、有権者 の投票参加率は40%程度と推計されており、広大な国土(日本の3倍強)と少ない人口(1851年当時で男子人口108万8000人)と投票所 までの距離とアクセスの困難さを考えれば驚異的な数字である[ 13] 。
奴隷制 は独立後の1821年 に奴隷から産まれた新生児 を一定年齢に達した後に解放するという措置が取られた。これは米国大統領 エイブラハム・リンカーン による奴隷解放宣言 より40年も早く、1826年 のパナマ会議 に米国が出席しなかった理由はコロンビアの奴隷解放が自国に波及することを恐れたためという。1851年 に全土の奴隷2万人が全員解放され、1852年 1月には奴隷制そのものが全廃された[ 14] 。
コロンビア研究者のデイビッド・ブッシュネルは、他のラテンアメリカ諸国と比較して、「コロンビアの場合、政権獲得のために暴力の使用が一般的に欠如していることはすばらしいことである」と高く評価している[ 15] 。ブッシュネルは「仮に最大推計値をとって比較しても、19世紀のコロンビアにおけるすべての内戦は、南北戦争 と比較して、絶対数においても相対数においても死者の発生が少ない」と指摘し、他のラテンアメリカ諸国と比較しても決して多くはなかったと指摘している[ 16] 。
例えば、ベネズエラ では大コロンビア からの分離後25年間で11回反乱が起き、アルゼンチン では1868年 までの10年間に117回もの反乱が起きている。また、メキシコ や他の中米 諸国、アルゼンチン、ペルー 、ボリビア で長期の内戦があり、最も内戦が少なかったチリ でさえ1829年 、1851年 、1859年 、1891年 に内戦が起き、国境の資源を巡り1879年 に太平洋戦争 が起こり、チリは「戦争の国土」と呼ばれた[ 16] 。これらの諸国と比較してもコロンビアは内戦の規模も犠牲者も少なく、また20世紀前半は戦争のない平和な時代であり、メキシコ革命 や第一次世界大戦 と第二次世界大戦 の影響もなく、コロンビアは文明国家の中では最も平和な国家であったとされる[ 17] 。
政党としては1849年に結成された自由党と保守党・2006年に自由党から別れた全国統一社会党や、リベラル 派の「急進的変革」・社会主義 勢力が加わっている「オルタナティブ民主投票」が有力である。保守党は独立時のボリバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。
なお、死刑制度 は1991年 の新憲法で全面廃止されている。
1991年 7月5日 、新憲法公布される。新憲法下で初の総選挙が行われ、政教分離 や連邦主義を主張する都市工業者に基盤を持つ自由党が勝利した。しかし、左翼ゲリラの攻撃は激化し、石油 施設などへの攻撃が相次いでいる。
2006年 8月7日 、二期目となるアルバロ・ウリベ 大統領が就任演説で反政府武装集団との和平への決意を示した。コロンビアでは40年以上内戦が続いている。
2010年 6月20日 、大統領選の決選投票が行われ、与党・全国統一社会党のフアン・マヌエル・サントス 前国防相が当選した。全国登録庁(中央選管)の発表によると、サントス候補が69%、野党・緑の党のモクス候補は27.5%であった。投票率は44%[ 18] 。
2014年6月15日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉継続を争点とし、与党・国民統一党のフアン・マヌエル・サントス大統領が僅差で再選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、サントス候補が50.95%、スルアガ候補が45%であった。
2018年6月17日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉合意を争点とし、合意見直し派の中央民主党のイバン・ドゥケ 上院議員が元左翼ゲリラで合意遵守派の前ボゴタ市長のグスタボ・ペトロ を破り当選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、ドゥケ候補が53.98%、ペトロ候補が41.81%であった。右派が圧倒的に強いコロンビアにおいて左派候補が決選投票に残ったのは史上初の事であった。
2022年6月19日、大統領選決選投票で、中道左派 で元ボゴタ市長のグスタボ・ペトロ が実業家で元ブカラマンガ 市長のロドルフォ・エルナンデス を破り当選した。伝統的に右派が政権を担ってきたコロンビアで史上初の左派政権が誕生することになる。南米随一の親米 国家で親米路線を堅持してきたコロンビアの外交路線にも影響を与える可能性があり、「米国の裏庭」と揶揄される南米における米国の影響力低下が指摘されている。
2022年11月15日、グスタボ・ペトロが大統領に就任してから100日目を迎え、就任100日時点での支持率は49.7%だった。これは前イバン・ドゥケ大統領の就任100日時点での支持率である27.2%を22.5ポイント上回る支持率となった[ 19] 。
2023年7月29日、ペトロ大統領の長男がマネーロンダリング (資金洗浄)容疑で逮捕され、麻薬カルテル から受け取った資金を選挙費用に流用していた疑惑が浮上した。8月3日、ペトロ大統領は疑惑を否定し政権続投を表明したが、議会が暫定調査を開始した。ペトロ連立政権 から離脱する政党が相次ぎ、公約 の医療・年金制度改革も進んでいないことから政権発足1年で支持率は低迷しており、大統領が弾劾 され政局が流動化する可能性もある[ 20] 。
国際関係
第57代大統領フアン・マヌエル・サントス (右)とブラジル大統領 ジルマ・ルセフ
伝統的に隣国のベネズエラ 、エクアドル からは再度、両国を侵攻して再び大コロンビアを結成するのではないかとの警戒心を持たれている。両国との国境はゲリラと政府軍との戦場になり、近年[いつ? ] ではベネズエラのウゴ・チャベス 大統領 は、FARCにベネズエラ国内を聖域として提供するなどの行動で両国間の問題となった。このため、一時はコロンビアによるベネズエラ侵攻が現実性を持った政策として浮かんだ一方で、エクアドルとの間ではコロンビア軍によるエクアドルへ逃げたゲリラへの越境攻撃や、枯葉剤 の散布が問題となっている。2008年3月、ゲリラへの越境攻撃作戦でエクアドルとの国交 が断交。エクアドルに同調し、ニカラグア も断交を発表した。2009年7月にはコロンビアが駐留米軍 増強を計画していることについてベネズエラが反発、ベネズエラはロシア 製戦車 の調達を増やすことで対抗するとしており、コロンビア、ベネズエラ間の緊張が高まっている(アンデス危機 )。
アメリカ合衆国 との関係では、1903年にアメリカの援助を受けてパナマ地峡がパナマ共和国 として独立したが、1921年にアメリカとの合意が達成され、パナマの独立はコロンビア政府によって承認 された。パナマの独立承認後1920年代から合衆国資本により経済支配が進んだ。その後も親米 路線は徹底し、近年ウリベ政権が米国からの援助で内戦を終結させようとする傾向を強くし、イラク戦争 を支持するなど一層の同盟関係の強化が進んだ。現在[いつ? ] はアメリカとの自由貿易協定 締結を目指している。2009年8月14日には、アメリカとコロンビアとの間で軍事同盟 が正式発効した。しかし、これにベネズエラが「宣戦布告」と反発している。
2010年 7月22日 、ベネズエラとの国交を断絶[ 21] したが同年8月11日 、国交を回復することで合意した[ 22] 。
ベネズエラ経済危機でベネズエラ難民がコロンビアに殺到しており、2018年9月時点でその数は100万人を超える。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題になっている[ 23] 。
2019年2月24日にコロンビアからベネズエラに運ばれる人道支援物資を国境のベネズエラ軍が妨害したことが原因で両国の緊張が高まり、ベネズエラのマドゥロ政権はコロンビアとの国交を断絶した[ 24] 。しかし2022年8月7日にコロンビア初の左派政権となるグスタボ・ペトロ 大統領が就任したことをきっかけに、8月28日にベネズエラとの国交回復が行われた[ 25] 。
2010年 、環太平洋パートナーシップ協定 (TPP)に参加する意向を明らかにした[ 26] 。
日本との関係
1908年 (明治 41年)5月25日 、「日本コロンビア修好通商航海条約」調印により、両国間の国交が開かれた。コロンビアに初めて足を踏み入れた日本人 は庭師 の川口友広とされている。1908年、商用目的で日本 を訪れたコロンビア人アントニオ・イスキエルド(1862‐1922)が川口ら3名の日本人をコロンビアに連れて帰り、川口はボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年 に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口は日本で皇族 の庭仕事をしていただけでなく、大隈重信 の下でも働いていた経験があり、大隈の推挙によりイスキエルドとともにコロンビアに渡ったとされる。渡航後の川口の消息は不明だが、ボゴタに墓碑があるとの未確認情報もある[ 27] 。
川口の次にコロンビアに入国した日本人は1915年 (大正 4年)、広島県 竹原市 出身の水野小次郎である。水野はカリブ海沿岸のバランキージャ に移住し、同郷の者を呼び寄せ、これが日系コロンビア人 の源流となった[ 28] 。1921年 (大正 10年)に商社員の星野良治がボゴタに移住。星野は2年後の関東大震災 で東京 の本社が壊滅したため永住を決意。ローラ・トレドという現地女性と結婚。子供のホルヘ・ホシノは造園業者として成功し、昭和天皇 崩御 の際は当時のバルコ大統領の代行で来日した。1923年 には島清、中村明ら5名が「安洋丸」でブエナベンツーラ港に入港。1926年 、海外興行会社社員の竹島雄三らにより移住候補地の調査開始。1929年 (昭和 4年)、主に福岡県 などから入植が始まり、農業 で成功した。ブラジル やペルー に比べて少ないが、現在[いつ? ] もカリを中心に1800人ほどの日系コロンビア人 が存在し、南米の日系移民 では最も成功したとされる。1941年 の太平洋戦争 で一時国交を断交したが、戦後 の1952年 に再開した。また戦後の食糧難の時代にコロンビアは日本に米 を送った。貿易関係ではコロンビア産のコーヒー、花卉が多く日本に輸出、自動車、電子機器がコロンビアに輸入されている。
現在は官民の各部門で両国の文化・人材交流事業を積極的に展開している。
地理
コロンビアの自然区分 (英語版 ) 六つの地域に分かれる。
コロンビアを中心とする北アンデスの地形
コロンビアのリャノ
ネバド・デル・ルイス火山
マカレナ山地 (英語版 ) から流れる川キャノ・クリスタレス (英語版 ) の川底には様々な水草(Rhyncholacis (英語版 ) など)が生えており、ピンク・緑など様々な色彩となる。
国内はコロンビアの自然区分 (英語版 ) によると、(I)アンデス 地域(Andean Region )、(II)カリブ海岸低地地方(Caribbean Region )、(III)太平洋 低地(Pacific Region )、東部の(IV)オリノコ 地域(Orinoquía Region )・(V)アマゾン 地域(Amazon Region )、及び(VI)島嶼(Insular Region )に分かれる。人口密集地は六地域に分けることができ、この六地域の反目がお互いを刺激しあって、競争による発展と時として暴力を用いた激しい対立を招いている。
東部はそのままベネスエラの地形に続きオリノコ川 流域平原にはリャノ が、グアジャナ高地 にはアマゾンの熱帯雨林 が広がり、これらの地域は国土の2/3を占めている。東部にはブラジルのネグロ川 に連なるグアビアーレ川 が流れる。東部を除いた残りの西部は国土の1/3を占め、人口の大部分はこの西部に居住していて、国土が広い割には人間がまとまって住んでいる地域は西部のアンデス地方や沿岸部に限られる。エクアドル国境付近の海岸地帯ではマングローブ の林が広がる。北部にはマグダレーナ川 やカウカ川 が南から北のカリブ海 に流れる。
山
北部には国名と同様、カリブ海側のシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地 (スペイン語版 、英語版 ) には、コロンにちなんで名付けられた国内最高峰の北部海岸サンタ・マルタに近い独立峰 クリストバル・コロン山 (標高 5775m)がある。ボゴタ西方のネバドデルルイス火山 (標高5389m)は1985年の噴火で史上最悪の2万3千人という犠牲者を出した。太平洋側では、パナマ からプエナベントゥラまで続くバウド山脈 (スペイン語版 、英語版 ) は中央アメリカ の延長である。
エクアドルから続くアンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈 (スペイン語版 、英語版 ) と、中央のセントラル山脈 (スペイン語版 、英語版 ) 、東部のオリエンタル山脈 (スペイン語版 、英語版 ) に別れ、山脈内でも場所や高度によりまた違った世界が存在している。オクシデンタル山脈には3000m級の山、セントラル山脈にはウイラ山(5364メートル)、トリマ山 (英語版 ) (5220メートル)、ルイス山(5321メートル)[ 注釈 4] などの5000m級の山が存在し、そこには氷河も残っており、メデジン を含むアンティオキア地方 や、カリ を含むバジェ・デル・カウカ (カウカ河谷)地方もこの山脈内にある。中央山脈は430万年前の地殻変動 ・火山 活動で隆起した。火山性堆積物(火山灰 、軽石 など)が多く、現在も多数の火山が存在する。溶岩流 や土石流 によって作られた平坦な地形も多く見られる[ 29] 。
オリエンタル山脈は首都のボゴタを含むクンディナマルカ 地方を擁し、カリブ海に向かうペリハ山脈 (スペイン語版 、英語版 ) と、ベネスエラのメリダ山脈 に続く。
全長1200メートルを超え最長であり、中央部は最大幅350キロメートルに達するクンディボヤセンセ高原がある[ 注釈 5] [ 29]
東部のこの山脈の西斜面は、南部と北部の地域に分けることができ、南部はアマゾン地方からの湿った空気で潤い、北部はやや乾燥しておりリャノ と呼ばれる平原へと続いている東部斜面は一般に乾燥しており、河川を利用して農牧業は発達している[ 注釈 6] [ 29] 。
川
アンデス山脈の高峰から生まれる河川は様々な景色を生み出し、複雑なものとなっている[ 30] 。
西部の山脈は、太平洋沿岸を南北に走り、全長1200キロメートルあり、太平洋の湿った空気が西斜面にぶつかり年間8000ミリの降水量を記録し、そこを流れる河川は、アトラト川 をはじめ豊富な水量を誇っている。また、これらの河川の流域には熱帯雨林が形成され、森林資源となっている[ 31] 。
西部と中央山脈の谷間にはカウカ川 、東部と中央山脈の間にはマグダレナ川 が北へと流れ、カリブ海へと注いでいる[ 32] 。
気候
コロンビアはその国土の全てが北回帰線 と南回帰線 の間にあり、基本的には熱帯 性の気候だが、気候はアンデス山脈の高度によって変わる。また、自然環境の多様性ももたらしている[ 32] 。
標高900mまでが熱帯のティエラ・カリエンテ(Tierra caliente)となり、年間降水量は1500mm - 2000mmに達し、年間平均気温は24℃以上で、バナナ、砂糖黍、米、大豆などが栽培されている。
標高900m - 2000mまでがティエラ・テンプラーダ(Tierra templada)となり、年間降水量は1500mm - 3000mmに達し、年間平均気温は17℃-24℃で、コーヒーは主にこの地域で栽培される。
標高2000m - 3000mまでがティエラ・フリア(Tierra fría)となり、雲霧林 (クラウド・フォレスト)が存在し、年間平均気温は12℃-16℃で、国土の15%はこの気候である。
標高3000m - 4500mまでがパラモ(páramos)となり、木の生えない草原 地帯が広がる。パラモとは、コロンビア、ベネズエラ、エクアドルの赤道アンデスに固有な環境区分帯で、寒冷で湿潤な高地部を指す[ 32] 。
標高4500mが雪線となり、ティアラ・エラーダという万年雪 に覆われた世界となる。
地方行政区分
コロンビアの地方行政区分
コロンビアの地図
コロンビアには33の県(departamento )が設けられている。また、首都 ボゴタは特別区域である。「コロンビアは地域主導の国である」と言われる[ 11] 通り、各地域ごとの対立が激しい。
アマソナス県 (レティシア )
アンティオキア県 (メデジン )
アラウカ県 (アラウカ )
アトランティコ県 (バランキージャ )
ボリーバル県 (カルタヘナ )
ボヤカ県 (トゥンハ )
カルダス県 (マニサーレス )
カケタ県 (フロレンシア )
カサナレ県 (ヨパル )
カウカ県 (ポパヤン )
セサール県 (バジェドゥパル )
チョコ県 (キブド )
コルドバ県 (モンテリーア )
クンディナマルカ県 (ボゴタ )
グアイニーア県 (イニーリダ )
グアビアーレ県 (サンホセ・デル・グアビアーレ )
ウイラ県 (ネイバ )
ラ・グアヒーラ県 (リオアチャ )
マグダレーナ県 (サンタ・マルタ )
メタ県 (ビジャビセンシオ )
ナリーニョ県 (サンフアン・デ・パスト )
ノルテ・デ・サンタンデール県 (ククタ )
プトゥマヨ県 (モコア )
キンディオ県 (アルメニア )
リサラルダ県 (ペレイラ )
サン・アンドレス・イ・プロビデンシア県 (サンアンドレス )
サンタンデール県 (ブカラマンガ )
スクレ県 (シンセレホ )
トリマ県 (イバゲ )
バジェ・デル・カウカ県 (カリ )
バウペス県 (ミトゥー )
ビチャーダ県 (プエルト・カレーニョ )
ボゴタ (Distrito Capital 首都地域)
主要都市
主要な都市はボゴタ(首都)の他、メデジン 、サンティアゴ・デ・カリ 、バランキージャ 、カルタヘナ 、ブカラマンガ 、ククタ がある。
国家安全保障
コロンビア海軍の練習帆船 「ARC グロリア」
コロンビア軍は3軍からなり、2004年の時点で国防 予算は2,760,000,000米ドル である。徴兵制 が敷かれており、総兵力232,700人を数える。それぞれの兵力は、
となっている。40年以上続くゲリラとの内戦のために特に陸軍の規模が大きく、またアメリカ合衆国 からの潤沢な軍事援助を受けている。軍は主にコロンビア内のゲリラ組織との戦いに当たる。
国家安全保障
ボゴタソ以降、1960年代から内戦が本格化し、現在までコロンビア内戦 が継続している。
1980年代の和平によりm - 19が離脱し、現在[いつ? ] 敵対する左翼 ゲリラ 組織はコロンビア革命軍 (FARC) と民族解放軍 (ELN) だけになっており、近年[いつ? ] ではウリベ政権はコロンビア自警軍連合 などの極右 民兵の武装解除をアピールしている。ベネスエラ のウゴ・チャベス 大統領 がFARCに聖域を提供するなどの行為もあり、未だに予断を許さない状態である。ウリベ政権はアメリカ合衆国のコロンビア計画を履行し、同国の支援を受けて軍拡を行い、治安 維持に全力をあげている。
経済
キンディオのコーヒー農園
国際通貨基金 (IMF)の統計によると、2018年 の国内総生産 (GDP)は3,310億ドル である[ 3] 。世界39位であり、南米ではブラジル 、アルゼンチン に次ぐ3位である。また、日本 の大阪府 の県内総生産(2016年度)の約94%の経済規模でもある[ 33] 。アンデス共同体 の加盟国、メルコスール の準加盟国であり、南米共同体 の加盟国でもある。
コロンビアの経済は、繰り返される内戦という政治の不安定さとは裏腹に20世紀に入ってからはラテンアメリカ 諸国の中でも最も安定した成長を続けた。「ラテンアメリカの失われた10年」である1980年代にも他の南米諸国が苦境に喘ぐのとは対照的に、ハイパーインフレ やマイナス成長を記録したことはなかった。例を挙げると、国連 ラテンアメリカ経済委員会の報告では1981年から1990年までの国民総生産 (GNP)総成長率は10年間で42.2%となり[ 11] 、一人当たり成長率でも16.2%となった[ 11] 。1999年には1932年以来初めてのマイナス成長を記録したが、その後は再び順調な成長を続けている。しかし、このような安定成長と引き換えに、他の南米諸国のようなダイナミックな高成長を記録することもあまりないのが特徴である。
また、貧富の格差はとても大きく、国民の約3分の1が貧困層にある。失業率 も高い。経済協力開発機構 (OECD)によると、2015~2018年において、労働者人口に占める自営業 者の比率は50%を超えており、調査対象38カ国で2-3位のギリシャ やブラジル(いずれも30%台)や29位の日本(10.3%)を大きく上回りトップクラスである[ 34] 。
現在はボゴタが最大の都市だが、内陸のため元々は経済の中心地ではなく、20世紀後半まではアンティオキア地方の中心地メデジン や、1960年代に入ってから急速に成長を遂げたカウカ地方のカリ などがコロンビア経済を牽引していた。
1980年代に大規模な油田が発見されるなど産業が拡大しつつある。
Facebook 、Google 、マイクロソフト などが相次いで進出して、2007~12年に同国のIT(情報技術 )産業は177%成長し、68億ドル規模となった[ 35] 。
労働
コロンビアは労働環境が整備されておらず、世界的に見ても労働環境が良くない国である。2021年に経済開発協力機構(OECD)によって行われた年間労働時間ランキングでは、全就業者平均の1人当たりの年間実動時間が1,964時間であり、メキシコ、コスタリカに次ぐ第3位を記録している[ 36] 。
また、2021年に国際労働組合総連合グローバル権利指数(2021 ITUC Global Rights Index)が発表した「労働者にとって最悪な10カ国」にもコロンビアはランクインした。これは団体行動権や団体交渉権といった労働者が持つ権利がどの程度尊重されているかを指標化したものである。労働時間のみならず、労働者が持つ権利の観点からもコロンビアは労働環境が整備されていない国だということができる[ 37] 。
また、2020年から2021年にかけて行われたコロンビア政府の「国民生活時間調査」(ENUT:Encuesta Nacional de Uso del Tiempo)によると、有給労働を行っている男性が53.3%、女性が29.9%であり、無給労働を行っている男性が63.0%、女性が90.3%であった。このデータからも分かるように、コロンビアは労働時間が長いにもかかわらず、かなり高い割合で無給労働が行われている。また、男性と女性の労働に関する格差も問題である[ 38] 。
農業
19世紀の終わりから熱帯の換金作物のプランテーション が導入され、特にコーヒーは20世紀を通して外貨の稼ぎ頭であり、産出量は世界で2番目であった。コロンビアのコーヒー産地の文化的景観 は、世界遺産 にも指定されている。ただし、21世紀になり2位の座を新興生産地の一つであるベトナム に明け渡したほか、2010年代には、コーヒー豆の国際価格が下落し、主要生産地であるウイラ県 やアンティオキア県 では立ち行かなくなる農家も見られるようになっている[ 39] 。なお、コロンビアの可耕地面積は国土の3.3%程(2005年)である。
切り花(特にバラ やカーネーション )の輸出国でもあり、米国、欧州 の他に日本へも輸出されている。
世界有数のコカ 栽培国と知られており、生産されたコカイン は欧米諸国を中心に密輸 されている。コロンビア革命軍 はコカインの密輸によって1990年代以降に組織の拡大に成功した。これを受けて、2000年代に政府はアメリカ などの支援を受けて、コカ農園に除草剤ラウンドアップ の大規模な空中散布を行い一定の成果を上げた。しかし、政府の管理下に置かれていない地域が広く、農園の根絶は困難な状況が2020年代現在も続いている。
2019年に行われた全国農業調査(ENA:Encuesta Nacional Agropecuaria)によると、2019年に生産された農作物の総生産量は63億トンである。この66.7%に当たる4,220万トンが工芸作物であり、コロンビアで生産される農作物の中で最も高い割合を占めている。コロンビアにおいてはコーヒー、アブラヤシ、サトウキビなどがこの工芸作物に該当する[ 40] 。
鉱業
コロンビアは1991年憲法により、全ての地下資源を国家が所有している。以前は地方の治安が悪かったために探鉱・油田開発が殆ど行われていなかったが、治安改善に従って欧米メジャーによる開発が進んでいる。石炭 、石油、天然ガス を産し、全輸出額に占める原油と石炭の割合は30%に達する。コロンビアの石炭産出量は西半球 に限定すれば3位に達する。品位の高い瀝青炭 の比率も高い。
油田はベネズエラ国境に近いマグダレーナ川流域に分布する。最も重要な金属資源は世界シェア7位(5.1%)を占めるニッケル 鉱(7.1万トン、2003年)である。その他、鉄 、銅 、鉛 、金 、白金 、銀 、マグネシウム を産する。金と白金の産出量は南米では2位、1位を占める。全ての金属鉱床 はアンデス山脈に沿って点在する。このほか、リン 鉱と塩 も産出する。エメラルド の産出量は世界市場の約80%を占める。1990年時点では300万カラット に達した。
観光
コロンビアの観光業は1940年代に始まり、現在も発展している。主な観光地としては首都ボゴタのほかカルタヘナ 、サンタ・マルタ (シモン・ボリバル の没した町)、メデジン 、カリ 、バランキージャ 、サン・アンドレス島 などがあり、それぞれ異なる嗜好の観光客を惹きつけている。
外務省 をはじめとして各国が渡航中止勧告や要注意勧告を出しているにもかかわらず多くの旅行者がコロンビアに惹きつけられている。コロンビアには2006年に150万人の観光客が入国したが、これは前年比50%増であった。
治安に関しては郊外や観光客があまり訪れない場所にさえ行かなければ、危険な目に遭うことは少ないと考えられている。ウリベ政権発足後の劇的な治安回復が、今後の観光業の発展に良い影響を及ぼすことが期待されている。
地理や植生 が多様で豊かであるため、エコ・ツーリズム も盛んである。カリブ海岸のカルタヘナはビーチ・リゾート として有名である。
国民
北部アンデスの人口密度。赤い部分は特に人口が多い。
コロンビアの人口増加グラフ。2005年の
FAO のものにより、人口は千人単位である。
コロンビアの国民は、国の歴史の多様性と同じように様々な人々によって構成され、ヨーロッパ 系移民、インディヘナ、アフリカ 系、中東 系をはじめとするアジア 系などが主な構成要素となっている。インディヘナの多くはメスティーソ に統合されたが、現在[いつ? ] もメスティーソとははっきり異なるインディヘナの集団は存在する。
ヨーロッパからコロンビアに入国した移民のほとんどはスペイン人 であったが、第一次世界大戦と第二次世界大戦では、多くのイタリア人 、ドイツ人 、ポルトガル人 、ユダヤ人 、オランダ人 、ポーランド人 、フランス人 、イギリス人 、ハンガリー人 、ギリシャ人 、スイス人 、ベルギー人 が国に移住した。その後、冷戦はリトアニア人 、ラトビア人 、ロシア人 、ウクライナ人 、アルメニア人 のさまざまなグループをコロンビアに移した。例を挙げれば、アンタナス・モックス前ボゴタ市長は、その名前が示すように、リトアニア系の子孫である。アフリカ系の住民は、16世紀と19世紀に奴隷として捕らえられた人々の子孫であり、ほとんどがカリブ海沿岸の熱帯低地に住んでいる。もう1つの大きな移民グループは、オスマン帝国に迫害され逃亡した中東出身のレバノン人、パレスチナ人、シリア人、ヨルダン人、イラク人であった。中国人、日本人、韓国人のようなアジアの移民は、国のいくつかの主要都市で見られる。近年、国への移民の最大数は、退職の一環として国に引っ越すアメリカ人とカナダ人である。
民族構成は、メスティソ45%、ヨーロッパ系 42%、ムラート4%、インディヘナ4%、アフリカ系3%、その他(アジアまたはジプシーティコ)2%となっている[ 41] 。
コロンブスが到着する前は、この地域には先住民族が住んでおり、現在はインディヘナと呼ばれている。現在、インディヘナの人口は約1,900,000人と推定されており、102を超える部族に分かれている。彼らの多くはチブチャ語またはカリブ海の言語を話す。アル・ウアコス、ムイスカ、クナが登場[ 42] 。[いつ? ] も大きなコミュニティを築いている。
移民の多くはカリブ海沿岸のバランキージャ に定着した。移民の出身国としては、レバノン 、イタリア 、ドイツ 、アメリカ合衆国 、中国 、フランス 、ポルトガル 、そしてロマ などが挙げられる。カリブ海沿岸においてドイツ系と中国系の占める役割は大きい。南西部のカリを中心にカウカ地方には少数ながら日系人もいる。
世界のどのような類似の地域よりも多様性に富んでいて、ラテンアメリカの中でも極めて地域主義が強い国である。例を挙げるとアンティオキア人はコロンビア人であることよりもまずアンティオキア人(アンティオケーノ)であることを優先するといわれ、他のコロンビア人にない貯蓄や開拓の気風はこうした傾向を一層強めた。そのため19世紀中にコロンビア全地域の商業がドイツ人とシリア人のものになってしまったのにもかかわらず、アンティオキア地方だけはアンティオケーノだけが商業を担った。こうした事情があいまって、1920年代にコーヒー景気によって発達したアンティオキア経済は、1960年代にカウカ地方のカリに抜かれるまでメデジンを国内経済の中心地とするほどだった。
先住民族
2018年に行われた国勢調査(CNPV:Censo Nacional de Población y Vivienda)によると、自らを先住民族と認識している人口が約190万人であった。前回の国勢調査(CG:Censo General・2005年実施)では約139万人であり、先住民族人口が13年の間に36.8%増加している。この変化の要因として、出生率以外の要因が2つ考えられる。まず1つ目は、先住民族が多い地域にも調査対象範囲が広がったことだ。そして2つ目は、先住民の民族的な自己認識が高まったことだ[ 43] 。
人口
1950年代初頭に推定された人口は約1200万人で、1964年の国勢調査では約17,482万人、1974年の推定では約2395万人、1983年半ばの推定では約2752万人であった。 2020年の人口は約5,000万人で、ブラジルとメキシコに次ぐラテンアメリカで3番目に人口の多い国である。20世紀半ばには、農村部から都市への人口の大規模な移動があったが、徐々に減少している。人口は10万人を超える30の都市がある。国の土地の54%を占める東部の低地には人口の3%しか住んでおらず、人口密度は1人/ 1 km2未満である。コロンビアの総人口は2030年に5500万人を超えると予測されている[ 41] 。
宗教
人口の95%以上がキリスト教徒 であり、その内カトリック教会 が90%である。約1%がインディヘナの伝統宗教であり、ユダヤ教 、イスラーム教 、ヒンドゥー教 、仏教 はそれぞれ1%以下となる。
1960年代初頭までのコロンビアは国家と教会 が密着した信心深いカトリックの国であり、人々はカトリック的な倫理規範を重要なものと考えていた[ 11] 。しかし、エル・ティエンポ紙 の行った世論調査 によると、信者の数は多いにもかかわらず、人口の60%は熱心に信仰していないとのことであり、1960年代以降の都市化、工業化、世俗化の中で、カトリックに代わる新しい世俗的な倫理を生み出せていないことが近年の治安悪化の要因だとする説もある[ 11] 。
婚姻
婚姻時に女性が改姓する必要はない(夫婦別姓 で問題ない)が、父方の姓を夫の父方の姓に置き換えるか、de+夫の父方の姓を後置することができる[ 44] 。2016年からは同姓婚 も可能となった[ 45] 。
言語
コロンビアでは80以上の言語が話されており、50万人が先住民の言葉を今も話しているが、公用語 はスペイン語であり、日常生活でも使われている。また、コロンビアのスペイン語 は南米で最も正しくスペイン語のアンダルシア方言 を残しているといわれている。
教育
1580年にコロンビア初の大学である聖トマス・アクィナス大学 が創設され、伝統的に植民地時代から北部南米の学問の中心地であったボゴタが「南米のアテネ 」と呼ばれて多くの知識人 を生み出したのとは対照的に、民衆への教育はあまり積極的に行われなかった。そのため、2011年の推計で15歳以上の国民の識字率は93.6%(CIA World Factbook)と域内でも低い部類に属する。
5年間の初等教育 、及び4年間の前期中等教育 は義務教育であり、無償となっている。前期中等教育を終えると、二年間の後期中等教育 が任意であり、後期中等教育を終えると高等教育への道が開ける。80%以上の児童が小学校に入学し、60%以上の小学生は5年生の小学校を卒業すると6年制の中学校に入学する。小学校の多くは私立学校である。
コロンビアには24の国公立大学と多くの私立大学があり、多くはボゴタに集中している。主な高等教育機関としては、コロンビア国立大学 (1867年創立)、ロス・アンデス大学 (1948年創立)、アンティオキア大学 (1803年創立)、バジェ大学 (1945年創立)などが挙げられる。
サントス 政権 は2011年10月3日 に公立大学に独立採算制 を導入し、民間資本の参入を促し、大学向け予算を削減する教育改革法案を発表した。これに抗議して、各地で学生や教職員が大学の民営化法案に反対してデモ行進した。学生団体によると、11月10日 、首都ボゴタ ではデモ参加者が20万人に達した。11月9日 サントス大統領はスト中止を条件に法案を撤回する用意があると表明した[ 46] 。
治安
社会学者 のパウル・オキストによれば、16世紀 から19世紀 までの約300年間、コロンビアにおいては政治的暴力はほとんど発生しておらず、世界で最も治安の良い国のひとつであったという[ 47] 。1830年 以降、内戦が起きていない期間の10万人あたりの殺人 発生率は10人程度で極めて低い水準であった。ホセ・マリア・サンペール『コロンビア共和国の政治変革と社会状況』(1861年)によれば、「田舎者にとっては、政府は神話的人格であるが、われわれの間で政府とは、ひとりで武器を持たず徒歩で配達する郵便夫が、偶然に山賊 に出会ったような予期せぬ場面でその危険を取り払うために三色旗を振れば十分であるほど敬意を払われている存在である。警察 はどこにも存在しないし、犯罪を抑圧する手段は極めて限られている。しかし、それにもかかわらずこじ開けて侵入する泥棒 や人を欺くような人間は非常に稀であり、また、職業的な盗賊はここでは例外的で、さらに刑罰制度には重大な欠陥があるにもかかわらず再犯者はめったにいない」[ 48] 。
19世紀のコロンビアの治安の良さの証拠として、コロンビアを旅行した米国人イサック・ホルトンの旅行記『アンデス地方の20ヵ月』(1857年)の記述「生命に対する犯罪に関していえば、ヌエバ・グラナダ 全土の殺人は、ニューヨーク 市だけの殺人件数の五分の一にも達していないと思われる」や、1884年 のカトリック司祭 のフェデリコ・アギラールによるコロンビアの犯罪統計と他国の比較検討で、チリ、メキシコ、ベネズエラ、エクアドル、スペイン、イタリア の殺人率はコロンビアよりも高く、「コロンビアでは、チリにおける日常的な山賊、メキシコにおける恐ろしい追いはぎ、グアテマラ におけるかなり頻繁な泥棒の心配をしないで旅行できる」などの記述が挙げられる[ 49] 。
19世紀以前のコロンビアはラテンアメリカ諸国の中で最も治安の良い国であり、内戦が絶えなかった19世紀後半において治安維持に関わる国家権力が弱く司法制度が十分機能していない状態であったにもかかわらず、一般犯罪は総じて少なかったことは正しく認識されるべきである[ 50] 。世界的に見ても20世紀前半まで治安の良い国であったとされる。
コロンビアはかつて誘拐と殺人の発生率が高い国であった。1960年代初頭の殺人事件発生数は3,000件ほどだったが、1990年代初頭にはこれが十倍の30,000件に達した[ 11] 。とりわけ国境付近のプトゥマヨ県 、グアビアーレ県 、アラウカ県 のような地域では10万人当たりの殺人事件発生数は100人に達し、 1990年代には、発生した殺人事件のうち犯人の97%が処罰を受けなかった[ 11] 。こうした犯罪が1960年代以降急速に多発した原因としては、かつて国民の倫理的な規範に国家よりも遥かに強い影響を与えていたカトリックに代わる新しい世俗的な倫理を、カトリック的な倫理規範が解体された後も生み出せていないことが大きな原因であるともいう[ 11] 。
しかし、2002年に成立したウリベ政権と続く2010年に成立したサントス政権が治安対策に力を入れた結果、飛躍的な治安改善が成し遂げられつつある[ 51] 。1990年代初頭には殺人事件発生数が10万人当たり77.5人だったが[ 11] 、2020年現在は22.6人にまで減少している。誘拐事件発生数も2002年には2882件あったが、2010年には282件に激減している[ 51] 。とはいえ先進国と比較すればいまだ犯罪発生率が低いとは言えないので、犯罪被害防止を常日ごろから心掛けて行動すべきとされる[ 51] 。
治安改善後、同国は観光に力を入れており、ボゴタ、メデジン、カリ 、バランキージャ などの大都市やカルタヘナ などの観光地では警備 体制が比較的整っているため、その他の地方と比較すると安全といえる。
近年、隣国ベネズエラの経済危機により、コロンビアへ逃れてくるベネズエラ難民が急増しており、2018年9月時点でその数は100万人にも及ぶ。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題となっている[ 23] 。
人権
文化
イラマ(カリマ)のトーテムマスク
アフリカ系コロンビア人 の伝統的なパレンケの祭り
コロンビアの文化はラテンアメリカの交差点に位置しておりインディヘナ、ヨーロッパ 系、アフリカ系、中東系をはじめとするアジア 系の伝統が複雑に織り交ざって構成された多文化的な社会によって特徴づけられている。アメリカ合衆国の文化と、メキシコの文化、アルゼンチンの文化 (スペイン語版 、英語版 ) 、カリブ海の文化をはじめとするラテンアメリカの文化から強く影響を受けているが、独立以前から受け継がれているスペインの文化 (スペイン語版 、英語版 ) の影響が最も強い。コロンビアの複雑な地形と数十年続いた社会分断により、コロンビアの文化は五つの文化的な領域(それは地理的な領域でもある)に強く断片化された。地方から都市への国内移民、工業化、グローバル化、及び国際的な政治的、経済的、社会的問題はコロンビア人の生活のあり方を変えた。
食文化
アヒアコ
コロンビアの主食 はコメ であるが、ジャガイモ 、トウモロコシ 、キャッサバ 、プランテン もよく食べられている。トロピカルフルーツ の種類も豊富である。
文学
ノーベル文学賞 作家 ガブリエル・ガルシア=マルケス
スペイン征服 後のコロンビアの文学は、17世紀初頭のエルナンド・ドミンゲス・カマルゴ に遡る。
独立後の文学はロマン主義 と結びつけられ、傑出した存在としてアントニオ・ナリーニョ 、ホセ・フェルナンデス・マドリード (スペイン語版 、英語版 ) 、カミーロ・トーレス・テノリオ (スペイン語版 、英語版 ) 、フランシスコ・アントニオ・セア (スペイン語版 、英語版 ) が活躍した。19世紀半ばから20世紀はじめにかけてコンストゥンブリスモ文学が人気となり、この時期の作家としてはトマス・カラスキージャ (スペイン語版 、英語版 ) 、ホルヘ・イサークス (スペイン語版 、英語版 ) 、ラファエル・ポンボ (スペイン語版 、英語版 ) が有名である。その後ホセ・アスンシオン・シルバ (スペイン語版 、英語版 ) 、ホセ・エウスタシオ・リベラ (スペイン語版 、英語版 ) 、レオン・デ・グレイフ (スペイン語版 、英語版 ) 、ポルフィリオ・バルバ=ハコブ (スペイン語版 、英語版 ) 、そしてホセ・マリア・バルガス・ビラ (スペイン語版 、英語版 ) がモデルニスモ運動 を展開した。1871年にはアメリカ大陸 のスペイン語 のプリメーラ・アカデメイアが設立された。
20世紀にはペドロ・ガルシア などの詩人を生んだ。1939年から1940年にかけて詩人のホルヘ・ロハス (スペイン語版 ) が活躍した。「暴力」の時代にはゴンサロ・アランゴ (スペイン語版 、英語版 ) がニヒリズム とダダイスム から生まれたコロンビアの文学運動ナダイスモ (スペイン語版 ) の担い手となった。ラテンアメリカ文学ブーム (スペイン語版 、英語版 ) が始まると、魔術的リアリズム の担い手であり『百年の孤独 』『族長の秋 』などで知られるラテンアメリカの声を代表する大作家ガブリエル・ガルシア=マルケス がノーベル文学賞を受賞し大活躍した。同時代の作家としてはエドゥアルド・カバジェーロ・カルデロン (スペイン語版 、英語版 ) 、マヌエル・メヒア・バジェーホ (スペイン語版 、英語版 ) 、アルバロ・ムティス が挙げられる。アルバロ・ムティスは2001年にセルバンテス賞 を受賞した。その他の現代作家としてはフェルナンド・バジェーホ (スペイン語版 、英語版 ) (ロムロ・ガジェーゴス賞受賞)と、ガルシア=マルケス以降、コロンビアで最も多くの本が買われている作家のヘルマン・カストロ・カイセード (スペイン語版 、英語版 ) が挙げられる。
音楽
フォルクローレ においては、20世紀初頭にバンブーコが発達した。カリブ海沿岸地方の伝統音楽クンビア は、ガイタ (スペインのガリシア 地方のバグパイプ )や、黒人 の太鼓 など様々な要素から構成されている。クンビアはサルサ以前に汎ラテンアメリカ的な成功を収めてアメリカ合衆国にも進出し、今もラテンアメリカ諸国のポップス に大きな影響を与えている。クンビア以外に人気があるバジェナート はクンビアを基に発展しており、こちらはクンビアよりも洗練された雰囲気がある。また、ベネズエラで国民音楽とされているホローポ も、ベネスエラとの国境付近のリャノ で演奏されている。
米国ニューヨーク生まれのサルサ も人気であり、コロンビア・サルサとしてカリを中心に発展している。
近年[いつ? ] はコロンビアポップスの合衆国市場への進出も盛んであり、フアネス 、シャキーラ 、カミロ などが成功した音楽家として挙げられる。ラファエル・オロスコ・マエストレ とディオメデス・ディアス は、バジェナート で成功したミュージシャンとしてリストされました。
また、コロンビアはかつてアルゼンチン、ウルグアイ に次いでラテンアメリカで三番目にタンゴ が好まれていた国でもある。
世界遺産
コロンビア国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が6件、自然遺産 が2件ある。
祝祭日
祝祭日
日付
日本語表記
現地語表記
備考
1月1日
元日
Año Nuevo
1月6日
東方の三博士 の来訪
Día de los Reyes Magos
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3月21日
聖ホセ の祝日
San José
移動祝祭日
3月24日
聖木曜日
Jueves Santo
移動祝祭日
3月25日
聖金曜日
Viernes Santo
移動祝祭日
5月1日
メーデー
Día del Trabajo
5月9日
主の昇天
Ascención del Señor
移動祝祭日
5月30日
聖体の祝日
Corpus Christi
移動祝祭日
6月29日
聖ペドロ ・聖パブロ の祝日
San Pedro y San Pablo
移動祝祭日
7月20日
独立記念日
Día de la Independencia
8月7日
ボヤカ戦勝記念日
Batalla de Boyacá
8月15日
聖母の被昇天 の日
Asunción de la Virgen
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10月12日
民族の日
Día de la Raza
11月1日
諸聖人の日
Todos los Santos
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11月11日
カルタヘナ独立記念日
Independencia de Cartagena
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12月8日
無原罪の聖母 の日
Inmaculada Concepción
12月25日
クリスマス
Navidad
スポーツ
サッカー
2014 FIFAワールドカップ でのハメス・ロドリゲス 。
コロンビア国内でも他のラテンアメリカ 諸国と同様に、サッカー が圧倒的に1番人気のスポーツ となっている。1948年 にはプロサッカーリーグのカテゴリア・プリメーラA が創設された。主なクラブとしては、アトレティコ・ナシオナル 、ミジョナリオス 、アメリカ・デ・カリ 、デポルティーボ・カリ などが挙げられる。コロンビア人 の著名な選手としては、イバン・コルドバ 、ラダメル・ファルカオ 、ハメス・ロドリゲス などが存在する。
コロンビアサッカー連盟 (FCF)によって構成されるサッカーコロンビア代表 は、これまでFIFAワールドカップ に6度出場しており、2014年大会 と2018年大会 では連続して日本代表 とグループリーグで同組となっている[ 52] 。なお、2014年大会は過去最高位のベスト8となった。さらにコパ・アメリカ では、自国開催となった2001年大会 で初優勝を果たしている。
その他の競技
レーシングドライバーのモントーヤ 。
コロンビアは言語以外の面でも、ラテンアメリカ諸国の中で最もスペイン から多くのものを引き継いでいる国であり、それゆえにスペイン本国と同じく闘牛 が盛んである。ローラースケート も人気で、女子世界選手権 で1位と2位を独占したこともある。陸上競技 では、カテリーン・イバルグエン が三段跳 で世界レベルの活躍をしている。
自転車競技 もアンデス山脈 中の高地では人気で、トップカテゴリーに所属するチームに数多くの選手が在籍している。レーシングドライバーであるファン・モントーヤ も知られている。野球 でもエドガー・レンテリア を筆頭にMLB選手を輩出している。バスケットボール では、ハイメ・エチェニケ が2021年 にコロンビア人初のNBA プレイヤーとなった。ボクシング ではアントニオ・セルバンテス が殿堂入り を果たした。
著名な出身者
脚注
注釈
^ 1990年代は年間34,000人が殺人 事件の犠牲になり、世界の誘拐 事件の6割に相当する3600人が誘拐された。
^ 1990年代のコロンビアの殺人発生率(10万人当たりの殺人件数)は77.5人(1991年 は86人で世界最悪)を記録した。
^ 2002年 に就任したアルバロ・ウリベ 大統領が左翼ゲリラや麻薬カルテル への取り締まりを強化し、全国の自治体 に警察署 を設置した。2017年 のコロンビアの殺人発生率は25.2人でラテンアメリカではブラジル(30.74人)やメキシコ(25.71人)より低い。
^ 1985年の噴火 により氷河が溶け出して土石流が生じ、アルメロ市を埋め尽くし、2万人もの犠牲者を出した。
^ この高原は、氷河 が溶けて湖になり、堆積物が沈殿したことによってできたと考えられている。現在でも湿原 があちこちにあり、その名残を留めている。
^ この斜面の北部はクシアナ油田 に代表される石油産業 も発展している。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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