シャングリラ
1945年撮影
基本情報 建造所
ノーフォーク海軍造船所 運用者
アメリカ海軍 艦種
航空母艦 (CV) →攻撃空母 (CVA) →対潜空母 (CVS) 級名
エセックス級 艦歴 発注
1942年8月7日 起工
1943年1月15日 進水
1944年2月24日 就役
1) 1944年9月15日 2) 1951年5月10日 3) 1955年1月10日 退役
1) 1947年11月7日 2) 1952年11月14日 3) 1971年7月30日 除籍
1982年7月15日 その後
1988年、解体処分 要目 基準排水量
27,500 トン 全長
888フィート (271 m ) 最大幅
147フィート 6インチ (44.96 m ) 水線幅
93フィート (28 m) 吃水
28フィート7インチ (8.7 m) 主缶
B&W 製 水管ボイラー×8基 主機
ウェスティングハウス 製 蒸気タービン ×4基 出力
150,000馬力 (110,000 kW ) 推進器
スクリュープロペラ ×4軸 最大速力
33ノット (61 km/h ) 航続距離
20,000海里 (37,000 km )/15ノット 乗員
士官・兵員3448名 兵装
装甲
舷側:2.5–4インチ (64–102 mm ) 飛行甲板:1.5インチ (38 mm) 格納甲板:2.5インチ (64 mm) 司令塔:1.5インチ (38 mm) 搭載機
90 - 100機 その他
艦載機用エレベーター(中央2基、舷側1基) テンプレートを表示
シャングリラ (USS Shangri-La , CV/CVA/CVS-38) は、アメリカ海軍 のエセックス級航空母艦 で、同級空母としては12番目に就役した。エセックス級のうち艦首延長等の改修を踏まえて建造された艦は、非公式ながら「長船体型 ("long-hull group")[ 1] [ 2] 」「タイコンデロガ級航空母艦 [ 3] 」といった呼称・分類がなされることもあるが、本艦はその中で最初に起工された。
艦名はイギリス の作家ジェームズ・ヒルトン が1933年に出版した小説『失われた地平線 』の中に出てきた理想郷 の名に因む。1942年のドーリットル空襲 の際、大統領フランクリン・ルーズベルト が記者団からの質問に対し「(攻撃機の)発進地はシャングリラ 」と答えたエピソードに関連している。
艦歴
就役
「シャングリラ」の進水式
「シャングリラ」は1943年1月15日、バージニア州 ポーツマス のノーフォーク海軍造船所 で起工する。1944年2月24日、ジョセフィン・ドーリットル(ドーリットル空襲を指揮したジミー・ドーリットル の夫人)によって命名・進水し、1944年9月15日、ジェームズ・D・バーナー艦長の指揮下で就役した。
「シャングリラ」はノーフォークで整調訓練を行い、その後12月21日までトリニダード島 に向かって整調航海を行う。1945年1月17日にハンプトンローズ を出港、大型巡洋艦 「グアム (USS Guam, CB-2 ) 」、駆逐艦 「ハリー・E・ハバード (英語版 ) (USS Harry E. Hubbard, DD-748 ) 」と共にパナマ へ向かう。三隻はクリストバル (英語版 ) へ1月23日に到着し、翌日にパナマ運河 を通過する。「シャングリラ」は1月25日にバルボアを発ち、2月4日にカリフォルニア州 サンディエゴ に到着する。そこで乗客と貨物、艦載機を載せ2月7日にハワイ へ向かう。2月15日に真珠湾 へ到着し、地上勤務パイロットの着艦訓練を行った。
第二次世界大戦
4月10日にウルシー環礁 に向かい十日後に到着、一泊した後に駆逐艦「ハガード (英語版 ) (USS Haggard, DD-555 ) 」「ステンベル (英語版 ) (USS Stembel, DD-644 ) 」と共に出港、マーク・ミッチャー 中将率いる高速空母機動部隊に加わる。4月24日に第58.4任務群に加わり、第50.8任務群との海上燃料補給を行った。翌日「シャングリラ」は艦載機による最初の日本軍への攻撃を行う。目標は沖大東島 で、同地の無線基地を破壊した。その後沖縄 に向かい戦闘偵察飛行及び第10軍への上空支援を行い、5月14日にウルシー泊地に帰還する。
ウルシー泊地で「シャングリラ」は第2空母機動部隊の旗艦 となり、ジョン・S・マケイン 中将は5月18日に中将旗を掲揚する。六日後に第58.4任務群はウルシーを出港し、5月28日に第38.4任務群と改称し、マケイン中将はミッチャー中将と交代したが、「シャングリラ」は引き続いて旗艦の任にあった。6月2日、3日に機動部隊は日本本土への空襲を開始。激烈な抵抗に遭遇した「シャングリラ」の艦載機は戦歴の中で最大の死傷者を生じた。
6月4日、5日には台風 を回避するために北西へ移動し、6月6日に艦載機による沖縄での上空掩護任務に帰還する。6月8日に「シャングリラ」の航空団は再び九州 を攻撃し、翌日沖縄に戻った。10日に機動部隊は沖縄からレイテ島 に戻り、「シャングリラ」は6月13日にサンペドロ湾 で錨をおろした。その後7月まで乗組員の休養のため同所に停泊する。
7月1日に「シャングリラ」はレイテから再び戦地に赴く。2日に海軍航空次官の就任宣誓式がシャングリラ艦上で行われ、海軍長官ジョン・L・サリヴァン が式を執り行った。その式は作戦地帯で行われた初めての式であった。8日後、「シャングリラ」の艦載機は日本本土に対する空襲を開始し、それは終戦当日まで継続した。7月14日から15日にかけて、本州と北海道への空襲に参加し、7月18日には横須賀に停泊中の戦艦「長門 」を爆撃した。 7月28日には呉空襲 に参加した。
近代化
SCB-125改装後(後方より、1957年撮影)
第二次世界大戦 終結後、「シャングリラ」はサンディエゴ を母港として発着艦訓練母艦として使用ののち、ビキニ環礁 でのクロスロード作戦 に指揮艦として参加し、無人観測機に改造したF6F によって爆発を観測した。その後しばらく太平洋艦隊で活動していたが、大戦終結に伴う海軍の縮小に伴い、「シャングリラ」も他の同型艦の多くと同様に予備役に編入される。1947年 11月7日 よりモスボール 処理のうえサンフランシスコ 港に繋留されたが、1951年 5月7日 に現役復帰する。東海岸側で数回作戦行動に参加。
1952年 には攻撃空母 (CVA) 籍となったが、直後の11月 にピュージェット・サウンド海軍造船所 に入渠してSCB-27 C改装を受ける。改装中、併せてSCB-125 改装も受けることとなった。改装は1955年 1月10日 に完了し、アングルド・デッキ 装着や艦首部のエンクローズド・バウ化により艦容は一変した。その後太平洋艦隊に編入され、サンディエゴを母港に太平洋艦隊 で作戦行動に従事する。
1957年 には再度整備工事を実施し、索敵・通信関係の近代化や機銃の撤去が行われた。また第二次台湾海峡危機 で台湾海峡に展開した。
1960年 3月16日 に、長年在籍していたサンディエゴ からフロリダ州 のメイポート へ移動し、大西洋艦隊 に所属する事となった。移動直後には中南米諸国への親善航海を実施。その後NATO 加盟国が初めて実施した大西洋での軍事演習に参加したほか、グァテマラ やニカラグア での地域紛争に際しても出動している。1961年 からは第6艦隊 に所属して、大西洋海域を中心に活動した。
1962年 から1963年 のはじめにかけて、「シャングリラ」はオーバーホールの為にニューヨーク のブルックリン海軍工廠 に回航され、5インチ砲の撤去やレーダー機器、電気関係の更新を実施した。その後第6艦隊に復帰したが、1965年 10月に駆逐艦「ニューマン・K・ペリー (英語版 ) (USS Newman K. Perry , DDR-883) 」と衝突事故を起こし、相手の艦の乗員1名が殉職したが、自らも損傷を受け、艦内に浸水が発生した。その修理を兼ねて1965年 末から1966年 にかけて改装工事を実施し、着艦誘導レーダーの取り付けなどを実施した。
ベトナム戦争
1970年2月11日撮影
1969年 6月30日 には対潜支援空母 (CV-S) に艦籍が変更され、さらに1970年 には再び太平洋艦隊 へ移動となり、3月5日 にメイポートを出港、3月13日 ~3月16日 にはリオデジャネイロ に寄港ののち、インド洋 を経由して4月4日 にフィリピン のスービック海軍基地 に到着した。補給の後ベトナム戦争 参加の為ヤンキー・ステーション に移動し、11月まで作戦行動に参加した。この時は、対潜空母としてではなく攻撃空母的な扱いで使用され、戦闘機部隊を搭載した。
この間、7月には乗員の休養と整備を兼ねて横須賀海軍基地 に回航され12日間入渠、また10月には、マニラ や香港 訪問している。
「シャングリラ」のヤンキー・ステーションでの活動は11月に終了し、11月9日 にスービック湾を出港。シドニー やウェリントン に寄港し、ドレーク海峡 を通過してリオデジャネイロに再寄港した後、12月16日 にメイポートに到着した。
到着後、メイポート基地でモスボール化 準備を実施し、その後ボストン海軍工廠 に回航して本格的なモスボール化工事を開始し、作業終了した1971年 7月30日 付けで予備艦籍に編入された。
その後は、フィラデルフィア海軍造船所 において保管されていたが、1982年 7月15日 付けで解体の為除籍された。艦自体はその後も暫くフィラデルフィアで繋留されていたが、1988年 に台湾 に曳航され、現地で解体された。
「シャングリラ」は第二次世界大戦 の戦功で2つの、ベトナム戦争 の戦功で3つの従軍星章を受章した[ 4] 。
関連項目
脚注
参考文献
外部リンク