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ドン・マクニール

ドン・マクニール
Don McNeill
ドン・マクニール
基本情報
フルネーム William Donald McNeill
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・オクラホマ州チカシェー
生年月日 (1918-04-30) 1918年4月30日
没年月日 (1996-11-28) 1996年11月28日(78歳没)
死没地 同・フロリダ州ベロビーチ
身長 178cm
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1965年
4大大会最高成績・シングルス
全仏 優勝(1939)
全英 2回戦(1939)
全米 優勝(1940)
優勝回数 2(仏1・米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全仏 優勝(1939)
全英 3回戦(1939)
全米 優勝(1944)
優勝回数 2(仏1・米1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 準優勝(1944)

ドン・マクニールDon McNeill, 1918年4月30日 - 1996年11月28日)は、アメリカオクラホマ州チカシェー出身の男子テニス選手。フルネームは William Donald McNeill (ウィリアム・ドナルド・マクニール)という。1939年全仏選手権で男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得した選手で、全米選手権でも1940年の男子シングルスと1944年の男子ダブルスで優勝した。年代的には、1938年にテニス史上初の「年間グランドスラム」を達成したドン・バッジ1915年 - 2000年)のすぐ後に位置している。マクニールの全盛期は、ちょうど第2次世界大戦のたけなわと重なっていたため、活動の舞台が(他の年代に活躍した選手に比べて)大幅に限られていた。

来歴

マクニールは20歳の時、1938年全米選手権でテニス界にデビューした。当時オハイオ州にあるケニオン大学に通う学生だった彼は、1939年に21歳でパリに初遠征し、全仏選手権で男子シングルス・男子ダブルスの単複優勝を成し遂げた。ノーシード選手だったマクニールは、準々決勝で第2シードのフラニョ・プンチェツユーゴスラビア)を破って波に乗り、準決勝で同じアメリカのエルウッド・クックを破った後、決勝で第1シードのボビー・リッグスに 7-5, 6-0, 6-3 のストレート勝ちを収めた。同大会の男子ダブルスでは、マクニールは同じアメリカのチャールズ・ハリスとペアを組み、決勝で地元フランスのベテランペアであるジャン・ボロトラジャック・ブルニョン組を 4-6, 6-4, 6-0, 2-6, 10-8 のフルセットで倒した。第2次世界大戦の戦火が迫ってきたため、この全仏選手権は男女とも出場選手が非常に少なく、男子シングルスは「55名」の選手による6回戦制で実施された。9月1日に世界大戦が勃発し、全仏選手権やウィンブルドン選手権は戦争のため開催中止となる。マクニールの海外遠征は、1939年夏の1度だけで終わった。アメリカ人選手が全仏選手権の男子シングルスで優勝したのは、前年の1938年大会を制したドン・バッジ以来、2年連続2人目の快挙になった。

第2次世界大戦の間、他のテニス競技大会は開催中止となったが、全米選手権だけは途切れることなく実施された。マクニールはアメリカ海軍で情報将校の仕事をしながら、戦時中の全米選手権に出場した。全仏優勝の翌年、1940年全米選手権男子シングルスで、マクニールは2つ目の4大大会タイトルを獲得した。この大会でも彼はノーシードから勝ち上がり、準決勝で当時19歳のジャック・クレーマーに勝った後、決勝で(前年の全仏決勝と同じ)リッグスを 4-6, 6-8, 6-3, 6-3, 7-5 の逆転で破った。マクニールはリッグスに対し、2セット・ダウン(先に相手に2セットを取られた状態)から逆転し、第3-第5セットを連取したのである。戦時中のアメリカ男子テニス界では、どの選手も軍務に就きながら全米選手権に出場しており、マクニールも断続的に出場するのがやっとの状態だった。1944年に3年ぶりの出場をした時、マクニールはシングルス準決勝でフランク・パーカーに敗れたが、男子ダブルス・混合ダブルスの2部門で初の決勝に進出した。ボブ・ファルケンバーグと組んだ男子ダブルスでは、決勝でビル・タルバートパンチョ・セグラ組を 7-5, 6-4, 3-6, 6-1 で破って優勝したが、ドロシー・バンディと組んだ混合ダブルスでは準優勝に終わった。マクニールは1939年全仏選手権以来の4大大会ダブルス優勝を果たし、彼の4大大会優勝はシングルス2勝・男子ダブルス2勝となった。

長きに及んだ第2次世界大戦は、1945年にようやく終結した。世界大戦終結後、マクニールは再び1946年全米選手権男子ダブルス決勝に進み、フランク・ガーンジー(Frank Guernsey)とペアを組んだ。しかし、今度はタルバートとガードナー・ムロイの組に 6-3, 4-6, 6-2, 3-6, 18-20 で競り負けた。第5セットの途中、マクニールとガーンジーは7本のマッチ・ポイント(このポイントを取れば勝利が決まる)を落としている。終戦後のマクニールは、ニューヨーク市の広告会社に勤務した。1965年国際テニス殿堂入り。戦時中のテニス界を生きたウィリアム・ドナルド・マクニールは、1996年11月28日フロリダ州ベロビーチで78年の生涯を終えた。

4大大会優勝

  • 全仏選手権 男子シングルス・男子ダブルス:1勝(1939年) [単複とも制覇]
  • 全米選手権 男子シングルス:1勝(1940年)/男子ダブルス:1勝(1944年) [混合ダブルス準優勝1度:1944年]

外部リンク

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