ブランドフォード (Blandford) はアイルランドの競走馬・種牡馬。体質に優れず大レースには出走していないが、数々のハンデを乗り越え種牡馬として成功した。
経歴
ブランドフォードはアイルランドキルデア県にあったイギリスの国立牧場(ナショナルスタッド)で誕生した。
父名スインフォードの後半と母名ブランチの前半からとって命名された。生まれつき右前脚の屈曲、両前脚の長さが違うというハンデを持ち、他の産駒より小柄で、生命の危機に曝される事故に遭う機会と元気さは人一倍あった。
0歳時に牧場の柵によじ登ろうとして大怪我をし、その傷が癒えて間もなく一時は獣医師がさじを投げるほど重度の肺炎を患い、獣医師と管理人が必死に看病し生命を取り留めた。
1歳時に放牧場でのんびりと草を食んでいる所に、御者の手を離れ逸走した馬車馬が柵を破って走り込んで来た。この時、ブランドフォードは逃げずに近寄り、馬車馬に全身を噛まれ、自力は摂食できず別当の手で飼葉を口内に入れてもらうほどの重傷を負った。
1歳時には怪我のため7月に予定していたジュライセールへの上場が見送られ、12月になってディセンバーセールへ上場された。このセールでブランドフォードは調教師のリチャード・セシル・ドウソン[4]によって720ギニーで落札された(同セールに出品された1歳馬は13頭で平均落札価格は234ギニー)。ドウスン曰く、前脚の欠点は気になってかなり迷った末、総体的に見た馬格が気に入ったという。イングランドバークシャーのウォットクーム厩舎所属の牧場に移動し、引退するまでの3年間はここで調教された。
競走馬時代
ブランドフォードは1921年6月8日に競走馬としてニューベリー競馬場で行われたケンネットステークス(5ハロン)にデビュー。対抗人気で出たがゴール前2ハロンでハナに立ち本命馬に3/4馬身つけて優勝。ドウソンの意見によればブランドフォードにとって全く楽勝であった。1週間後に2戦目となるアスコットのウインザーカースルステークス(5ハロン)に本命として出走した。スタートから先頭に出てこのレースも楽勝と思われたが、ゴール前の数メートルの所で、疾走中に膝のすぐ下部分に感じた痛みにより、これを庇おうと足並みを乱した途端よろけてしまい、この影響でクビ差、2着に敗れた。調教中やレースの意欲はあるのだが、すぐ痛みだす前脚の膝下部分はブランドフォードの泣き所だった。レース後、陣営は出走も調教もせず、ブランドフォードを治療に専念させて、レースに復帰したのは翌1922年5月のことであった。復帰戦のパラダイスステークスで、ブランドフォードは翌6月にアイリッシュダービーを優勝するスパイクアイランドを下し優勝した。ドウソンはまた痛みが出ないか終始ハラハラして見ていたと述懐している。
レース後2か月を置いてプリンセスオブウェールズステークス(12ハロン)に出走。
11:10(100円馬券で210円の予想配当)の一番人気に応えるかのように、発走からすぐ先頭に出て快調に走り、4歳馬に2馬身つけて優勝。しかし、跛行しながら脱鞍所に戻るブランドフォードを見てドウソンの表情は曇っていた。レース後、重度の腱の炎症を発症していることが判明。1923年まで治療が続けられたが前脚から肩にかけての動きは捗々しくなく、復帰は困難と判断され、競走馬を引退することになった。体質の問題に加えて、 クラシック出走予備登録の申し込みはブランドフォード購入の数週間前に締め切られていたので、出走できなかった。ドウソンは「キャプテンカトル(ブランドフォードと同世代のダービーステークス優勝馬)よりも強い」と公言していたという。
種牡馬時代
種牡馬入り後、1924年からアイルランドダブリン地方のクローラン牧場で供用された。当初種付け料は148ギニーと安価だった [9]。が、産駒の活躍を受けて1930年に300ギニー[11]。1931年には最高クラスの400ギニーにまで上昇した。性欲の弱さ[12]という種牡馬として大きな欠点があった。
種牡馬成績は良好で[13]、リーディングサイアーに生前はイギリスで2回(1934年、1935年)死後3年経過してから1回(1938年)達成し、2位、3位、4位、にも1回ずつなっている。フランスでもブラントームの活躍で1回(1935年)リーディングサイアーになった。1歳セリの初年度産駒平均価格が同年の全1歳馬の平均をやや下回る430ギニーだったが、10年後には平均4880ギニーで同年の最高レコードになった。アガ・カーンの意見では、ブランドフォードはファラリスとの組み合わせが成功したという[14]。
その頃のドウソンは税金問題で裁判沙汰の最中だったが、ブランドフォードの種付け料から毎年2万ポンドの収益を得て、ブランドフォードには4万ポンドの生命保険がかけられていたことで、ミリオネアトレーナー(百万長者の調教師)と呼ばれることになった。ブランドフォードの後継種牡馬はイギリス国外でも供用され、バーラム(アメリカ、アルゼンチン)、ブレニム(フランス、アメリカ)、ブランストーム(フランス、デンマーク)など世界各国で父系を繋いでいった。
日本へは戦前に プリメロや ステーツマンが輸入されて活躍馬を輩出したが、プリメロの全兄アスフォードは供用地が奥羽種馬牧場から、まもなく鹿児島種馬所と移されたため、好成績を収めえなかった。日本では1960年に中央競馬クラシック二冠を達成したコダマの血統がブランドフォードの3×4のインブリードを含んでいたことから、ブランドフォードの3×4のインブリードが生産界で大流行したことがある。
1933年、住み慣れたクローラン牧場から競走馬時代に居たイングランドバークシャーのウォットクーム厩舎所属の牧場に移動[18]。それから2年後の1935年4月24日、肺炎で2日病んだ後に死去。ドウソンの元に世界各国から弔文が殺到し、1週間以内にブランドフォードにかけてあった4万ポンドの保険金が支払われた。
競走成績
- 2歳時(2戦1勝) - ケネットプレート、2着 - ウインザーキャッスルステークス
- 3歳時(2戦2勝) - プリンセスオブウェールズステークス、パラダイスプレート
主な産駒
ブルードメアサイアーとしての主な産駒
- ホワイトハリー(オークス)
- ランバートシムネル(2000ギニー)
血統表
2代母ブラックチェリーはベイロナルドの半姉。2歳時に1勝しただけで繁殖成績もパッとしなかったので、ウェイバリー卿[19]にタダ同然で購入された
ウェイバリーの元に移ってからはチェリーラス(1000ギニー、オークス勝ち馬)など勝ち馬9頭を生む。
母ブランチはブラックチェリーが20歳の時に生まれた仔。
名の由来はブランシュ・オブ・ランカスター [23]。
欠点の無い馬格にウェイバリーは大きい期待をかけたが10戦0勝。
17年間で10頭を生み、6頭が勝ち馬となり、ブランドフォードは2番仔で、4年後に同配合が行われたが不妊だった。。
ブランチが19歳の時に生んだナンズベール(父フライアーマーカス)の牝系からは、イギリス牝馬三冠サンチャリオットや、イギリスとアイルランドダービー馬サンタクロース (競走馬)が居る。。
脚注
- ^ セントサイモンを手掛けたM・ドウソンの甥。初めは障害専門だったが平地レースの調教師に転向。 アガ・カーンの所有馬を預かり、ダイオフォン(ダイオライトの父)、サモンライト、ブレニムでクラシックを勝利。当時の一流調教師に数えられていたが、ブランドフォードの活躍でさらに名を上げた。晩年は生産に取り組み、1955年に89歳で高齢により死去。
- ^ 同年の他の種牡馬の種付料は最高が500ギニー(ザテトラーク)、400ギニー(ゲインズバラ、バカン、ハリーオン、ファラリス、スインフォードなど8頭)、300ギニー(テトラテマ、キャプテンカトルなど)、200ギニー(スペアミントなど)
- ^ 最高値は500ギニー(ソラリオ)
- ^ 20分から30分経っても牝馬の尻の後ろにジっとしており、1時間くらいも無表情で眺めている事もあった。
- ^ ダービーステークス馬を4頭輩出し同様の記録を持つ種牡馬はブランドフォードの他にサーピーターティーズル、シリーンの2頭しかいない。
- ^ 原田俊治は、大雑把に見渡して特に抜きんでた組み合わせが無かったというのも実情であろうと評している。
- ^ 1930年代頃はイギリスの自由州アイルランドの独立機運が高まり、自由州内の財産を持つイギリス人への風当たりも強くなってきた。種付料による収入や産駒に高額の課税が決められるに及んでアイルランドから引き上げる者が続出し、ブランドフォードの移動理由もこれによる。
- ^ 20世紀初頭にアイルランドのキルデア県タリーに種牡馬6頭と繁殖牝馬43頭を有するオーナー 。配合を占星術に頼った事で名高い。非化学的手段をとったのも、馬の育種がそれ程難しい事を示すものだという。ブランチの繁殖入り後、ウェイバリーの事情により牧場全てをイギリス政府に寄贈しており、牧場は国立牧場(ナショナルスタッド)となり繋養場は国有財産となった。以後の生産馬はセリで殆ど売り、残った馬は王室の勝負服で競馬に出る事となった。所有例はサンチャリオットやビッグゲームなど。
- ^ 原田俊治の『世界の名馬』ではブランシュはジョン・オブ・ゴーントの愛人ではなく娘と紹介されている。
参考文献
- 原田俊治『世界の名馬』 サラブレッド血統センター、1970年
外部リンク