ブロマイドは、臭化銀を用いた写真用印画紙、またはその印画紙に焼き付けた写真のこと[1]。さらに、スター(「スタア」。人気の俳優、歌手、スポーツ選手など)のはがき大の肖像写真(ポートレート)のこと[2]。
本来の英語の「Bromide」はあくまで臭化物を指す語だが、日本では「ブロマイド」がw:Bromide paper(臭化銀《シルバー・ブロマイド》を感光剤として用いた印画紙)を指す和製英語となり、さらに転じてその印画紙に焼き付けたスターの肖像写真も指すようになった。印画紙に焼き付けた肖像写真に限っては、独特の造語で「プロマイド」とも呼ばれる(つまり肖像写真に限っては、ぱぴぷぺぽ(半濁音)の「ぷ」で始まる呼びかたもある)(⇒#呼称について)。
概要・エピソード
日本では江戸時代には、(木版画の技術で制作された)「役者絵」「相撲絵」などといった浮世絵があり、人気歌舞伎俳優や力士の肖像として もてはやされた。明治以後、写真術が輸入されると、これは写真の肖像にとってかわられ、まずは手札型の力士・歌舞伎俳優の写真が販売され、これは当時は「ブロマイド」とは呼ばれなかったが、事後的にこれらも「ブロマイド」と呼ばれるようになった[3][4]。
「プロマイド(Puromaido) 第1号」は日活の尾上松之助のもので、大正9年(1920年)に発売された。
大正10年(1921年)、松竹キネマが蒲田撮影所を設立したときに、当時の人気女優の栗島すみ子、川田芳子らの写真を街の写真屋が大量生産した。栗島すみ子のプロマイドは「一日に4千枚売れた」との記録が残っている。
これをコレクション商品(収集品)として世に広めたのが浅草の「マルベル堂」である。同社の発行したプロマイドの「時代劇スタア」で最も売れたのは林長二郎(長谷川一夫)で、『雪之丞変化』扮装のそれは、2年以上も売れ続けた。
戦前のファンたちの気質は「その人オンリー主義」だったそうで、マルベル堂の店頭に飾られた林長二郎のプロマイド写真が少しでも汚れているとそっとハンカチで拭いて行く、傷が入っていれば「取り替えておいてくださいね」と頬を染めて行く、といった女性ファンの姿があったという。マルベル堂では「プロマイドはファンのための写真」との意味から、すべて目線を正面に向けてもらい、若々しい顔に修正したものを使った。こうした要求を「スッと撮らせてくれた」のも長谷川だったという。
また、メンコサイズの小型のプロマイドは「豆プロ(Mamepuro)」と呼ばれ、一枚一銭で駄菓子屋で売られた。図柄の題材は封切り前後の時代劇活動写真で、男女スタアの肖像、劇中の名場面などがあしらわれていた。これらはトレーディングカード同様、1枚毎に紙袋に入っており、買って開けてみるまで中身が分からなかった[5]。
呼称について
大辞泉では、『訛って プロマイドとも』と解説している[2]。『日本大百科事典』は、日本でプロマイドと呼んでいるが、こうなったのは、大正末期に映画俳優の肖像写真を商品として売り出すとき、『印画紙そのままの名称「ブロマイド」ではおかしい』と考え、最初の音を変えた語を案出したからだ[6]と解説している。
マルベル堂では印画紙の原紙を「ブロマイド(Buromaido)」、それを写真にした製品を「プロマイド(Puromaido)」と呼んでいる。マルベル堂の斉藤午之助は、「たしかに、印画紙のあのサイズをブロマイド版とはいうが、ブロマイドはあくまで“加工品”。ブロマイド印画紙から生まれた“プロマイド”(Puromado)と呼んでほしいものだ」と語っている[7]。広辞苑やNHKの放送用語などには、俳優等の肖像写真を指す語について、ブロマイドと修正されて収録されている。このため、映画やテレビタレントのスター写真を指す語として「プロマイド」と「ブロマイド」の双方が用いられるようになった。
月間売上実績の公表
1945年から1990年までは、毎月集計した「男性俳優」、「女性俳優」、「男性歌手」、「女性歌手」の各部門別・売上実績(順位)を公表していた。なお売上第1位獲得の月数の最多記録は、男性では西城秀樹の46回で、女性では岡崎友紀の46回となっている[8]。
年代別プロマイド(ブロマイド)売上ベスト10
1921年 - 1940年
1941年 - 1960年
1961年 - 1969年
1970年代
1980年代
平成
脚注
注釈
- ^ 〔引用者註〕出典には誤植がある。誤:「81年売り上げベスト10」 → 正:「82年売り上げベスト10」。根拠として、「◆1982年プレーバック」で該当年(1982年)を回顧していること、また、1982年デビューの堀ちえみ、中森明菜などが含まれていること。
出典
関連項目
外部リンク