共和主義 (きょうわしゅぎ、英語 : Republicanism )とは、政治思想 の一つ。共和国 ・共和制 といった政体 の構成原理である。
概要
「共和主義」との用語は二重性のある用語である。君主制 の国においては、民主主義 に基づき君主 の廃位 を要求すること、つまり君主制廃止論 を意味する場合が大半である。いっぽう共和国 においては、古代の共和制ローマ やアメリカ合衆国 の建国当時の政治体制を範とした中道右派 もしくは保守 の代議制 を重視した政治思想 を指すことが多い。これらのどちらの意味が強調されるかには留意が必要であり、原則として歴史的文脈から判断することができる。本項の記述では(しばしば混同される)民主主義との対比に力点を置く。
近代までの歴史
詳細は en:Classical republicanism も参照
古代・中世
マルクス・トゥッリウス・キケロの胸像
古くは古代 のギリシア 都市国家 (ポリス )や共和政ローマ にまでさかのぼり、ローマ の政治家 マルクス・トゥッリウス・キケロ の思想 が与えた影響が大きい。語源 もラテン語 の「レス・プブリカ 」(Res Publica 、「公共 なるもの 」の意)に由来する。小林正弥 によると「もともとの共和主義においては、政治参加による自治 の目的は公共性 の実現にある」[1] 。しかし中世 のニッコロ・マキャヴェッリ の時代にはヴェネツィア やフィレンツェ は共和国であったが、実質は貴族 による寡頭制 の政体であり、市民 ・民衆 の政治参加や自治はないか、あってもごく限定されたものだった。これらはローマ時代 以降、一人の君主 が政治を私物化しがちだとしても、多数である一般の市民・民衆による政治(民主主義 )もまた衆愚政治 に連なって「公共性」から離れたものと考えられ[注 1] 、その中間の貴族政 や混合政体 などが好ましいとされたためであった[2] 。実際、ローマでは市民集会 よりも元老院 のほうが大きな権力を振るっており、中世の共和国においても合議制 による国家の意思決定機関(のちに議会 に発展する)は元老院 と呼ばれることが多かった。
近世・近代
近世 になって自由主義 (リベラリズム )が広まった啓蒙時代 や市民革命 の頃においても財産 で参政権 を制限したり(制限選挙 )、また女性 や奴隷 などに参政権が与えられないのが普通であった。小林正弥によれば「リベラリズムの『自由 』は国家 からの非干渉という消極的自由 であるのに対し、共和主義の『自由』は政治参加の自由であり、自治の自由なのである」[3] とされるが、裏返せば「公共性」の実現を目的とする共和主義において「参政権」とは自治の自由、積極的自由 を行使できる者のみに限られた権利 と捉えられたのである。
ジェームズ・マディソンの版画
このため有権者 を広げようとする民主主義 と、有権者を限定しようとする共和主義の思想的相違は、自由主義や国民主権 [注 2] 、ひいては自由 そのものの捉え方に関わる問題となり、独立 後のアメリカ (アメリカ合衆国の共和主義 も参照)、フランス革命 などにおいて重要な争点となっていった。例えば、ジェームズ・マディソン (のちのアメリカ 第4代大統領 )は1788年 に『ザ・フェデラリスト 』で直接民主制 に反対し個人の自由を保障した立憲 共和政体を支持して、その理由を次のように述べた。「(直接民主制においては)ほとんどの場合に、一つの感情や利益が多数派によって共有されるであろうが、弱者 を犠牲にしようとする誘引をチェックするものはない」[4] 。このように当時のアメリカでは共和主義者は連邦党 (フェデラリスト)やホイッグ党 に、いっぽう民主主義者は民主共和党 やジャクソニアン・デモクラシー に象徴され、前者は共和党 に連なり、後者は現在の民主党 となる。またフランス においては革命 時のジロンド派 が穏健な共和主義者であり、いっぽうジャコバン派 が急進 的な民主主義者と捉えうるが、その後はナポレオン・ボナパルト の統治(執政政府 および第一帝政 )を経て復古王政 (レジティミスム )や七月王政 (オルレアニスム )、第二帝政 (ボナパルティズム )などの権威主義 、さらには社会主義 などとも絡みあって複雑な展開をみせた。
こうしたなかで「公共性」を重視する共和主義は思想的に独自の立脚点として公民道徳 (en:Civic virtue )や共通善 (en:Common Good 、公共の福祉 の訳語があてられる場合もあり、権利 間の調整に主眼を置く)などを強調するようになり、また政治的には直接民主制よりも代議制 (間接民主制 )など混合政体 を主張するようになった。ほかにアメリカでは独自に連邦政府 への中央集権 を主張する傾向(連邦主義 。都市 の商工業者 を中心とする産業資本主義 的な方向性を有していた)も持ち、各州 への地方分権 を主張する州権主義 (en:Anti-Federalism 、大地主 や自営農民 を中心としていた。州の権限 、南北戦争の原因 も参照)と対立した。なお上述のマディソンは連邦主義と州権主義のあいだを行き来したとされる。
ちなみに第二共和政 期のスペイン では、スペイン内戦 において民族主義 者に支えられたフランコ将軍 のナショナリスト派に対抗して集まった社会主義 者、共産主義 者、無政府主義 者を共和主義者 と呼んだ例がある。
現代
その後、20世紀 に至って普通選挙 が拡大し(同時に共和国の数が増え)有権者が急増すると、共和主義は民主主義と融合しつつ(民主共和制)、「公共性」を重んじるがゆえに権利の主張と同等に義務 の尊重にも力点を置く、主に保守 系の政治思想とみなされるようになり、特に君主主義 的で伝統 的・封建 的、または復古主義 的な保守と同様に道徳 的・倫理 的義務感に基づく個人主義 および資本主義 を旗印とする自由主義の右派 (保守自由主義 en:Conservative liberalism 、自由保守主義 en:Liberal conservatism )と共和主義のあいだで重なるところが大きくなった(各国で共和党 を名乗っている政党をみると、保守もしくは中道右派 が多く、なかには極右 まで存在する)。しかし政治において君主制 の比重が大きい国(君主国 、隣国イギリス の君主制が無視できないアイルランド 等)においては単に共和制支持(君主制廃止論 )の意味で使われてもいる[注 3] 。
脚注
注釈
^ 古代ギリシアで用いられた民主主義 を示す「デモクラティア」(ギリシア語 : δημοκρατία、dēmokratía)という語は、すでにローマ時代には衆愚政治 のニュアンスをもって語られ、これを批判する形でむしろ「レス・プブリカ」が広く使われるようになっていた。この思潮は近代に至るまで続き、17世紀 から18世紀 の西欧 では、むしろ民主主義を批判しつつ共和主義を賛美する傾向が強かった。例えばモンテスキュー など当時の社会思想 家は政体を君主政 、貴族政 、民主政 の三つに分類したアリストテレス やポリュビオス の説をふまえ、それらの様々な組み合わせで政体の特徴と長短を論じ、よい混合政体を指して共和政と呼んでいた。民主政 も参照。
^ 国民主権 (ナシオン主権)において抽象的な「国民 」の意思を再現すべき自由委任に基づく代表者の選出には一定の能力が必要だと考えられていたが、フランス革命期に人民主権 (プープル主権)を体現した1793年憲法 (ジャコバン憲法)においては主権者たる「人民 」の意思は現に存在する人々の具体的な意思であり、そのため議会 (国民公会 )における男子 普通選挙 および部分的な直接民主制 を採用している。前者は必ずしもイコールではないものの共和主義に連なる発想であり、後者は(狭い意味での)民主主義的な発想である。
^ 中江兆民 は『三酔人経論問答』で洋学紳士なる人物に「立憲制(立憲君主制 )より民主制の方が優れて」いるといわしめながらも「君民同治の社会」においては天皇と民権論とは矛盾しないとした。小室直樹は同一の国が同時に共和国でありかつ君主国でありうるという。この場合、外見上の制度は大統領制でなく立憲君主制であるが、立憲君主制国家が必ず共和国であるとは限らない。小林正弥は自著『友愛革命は可能か』において「近代的共和主義(民主共和制)」と「近世的共和主義」(およびそれ以前の共和主義)を区別し、近世以前の共和主義は必ずしも君主制 (天皇制 を含む)と矛盾しないとしている。
出典
^ マイケル・J.サンデル『民主政の不満 公共哲学を求めるアメリカ(上)』所収の、小林の解説による。
^ 「『共和主義』は、近世初頭の(イタリア等)都市国家 ― 共和政ローマも加えていいであろうが ― の在り方を典型とするところからも言えるように、貴族政と半ば本質的な連関をもつものである。」安彦一恵「『公共性の哲学を学ぶ人のために』合評会」報告
^ 上述の小林の解説による。
^ James Madison, Federalist No. 10 (1787年11月22日), in Alexander Hamilton, John Jay, and James Madison, The Federalist: A Commentary on the Constitution of the United States , ed. Henry Cabot Lodge (New York, 1888), 56 .
関連項目